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『ジャズネクシャリストのボヤキ』〜マワリテメクルブログ〜

 


ジャズネクシャリストが音楽にまつわる世の中の状況などを一刀両断する「ジャズネクシャリストのボヤキ」の見出しと、
その下に本文があります!↓

100のタイトルにわかれていて、それぞれのタイトルの内容を、一度アップした後も更新してゆくマワリテメクル(循環式ブログ)です!


   1.楽なことに流されるな


☆1 知らないことは素晴らしい
☆2 アウトプット人間に見るアウトプットの重要性
☆3 ナツメロや流行り
☆4 マヨラーの失うもの
☆5 インスタントなものに飛びつくな
☆6 マネゴトからの脱却
☆7 見えるものと聴こえるもの
☆8 突飛な楽器や奇を衒うこと
☆9 音数や音量による盛り上がり
☆10 アテブリクチパクサンプリング


  2. メディアの洗脳は強烈


☆11 テレビを見ると貧乏になる
☆12 お遊戯大国ジャパ〜ン
☆13 素人が牛耳る各分野
☆14 芸能人のオーラは幻影
☆15 テレビを見るならしゃんとして
☆16 脱ミーハー派のすすめ
☆17 コペルニクス的転回
☆18 情報発信の公平性
☆19 発信天国から玉石混淆へ
☆20 ミソがクソでクソがミソに


   3. 芸術とはなんぞや


☆21 芸術は自分の為に
☆22 芸術こそが平和を齎す
☆23 芸術性と商業性の乖離
☆24 アーティストという言葉の変遷
☆25 芸術の価値基準
☆26 芸術はヘン
☆27 飽きることから芸術が生まれる
☆28 ヘンとは無駄で素晴らしいこと
☆29 ヘンでないのは変なこと
☆30 星新一の平和観と低エントロピー性


   4. 芸術の試練


☆31 ジャズはインディーズがおすすめ
☆32 初心者と熟練者の逆走現象
☆33 ジャズとはなんぞや
☆34 音楽とスポーツの決定的な違い
☆35 ジャズとクラシックの垣根
☆36 ジャズマンとハコの特異な共生
☆37 高めようジャズ自給率
☆38 進化の過程にサナギ状態の試練
☆39 ジャズマンだって4回転飛びたい!
☆40 ジャズもクラシックも過去の音楽ではない!


   5. ジャズ習得への鍵


☆41 理論が先か感覚が先か
☆42 一合目からか五合目からか
☆43 時間の制約とモチベーションの関係
☆44 カラオケとジャムセッション
☆45 盲目的謙虚の落とし穴
☆46 熟練者の適切な謙虚さは分野を越えて
☆47 教えることから学ぶこと
☆48 不文律の境地
☆49 右脳の暗譜と左脳の暗譜
☆50 超知覚的感覚(ジャズはアドリブなのか)


   6. 音楽の3要素(メロディー)


☆51 美しいメロディーという概念はあるのか
☆52 ドレミファソラシドの不自然性
☆53 音の順番へのこだわり
☆54 温度や状況で微妙に変化する味
☆55 アプローチノートの不思議
☆56 似ていることから代用できるもの
☆57 調性間の潤滑油リックリンキング
☆58 宙に絵を描いたり水面を歩く
☆59 周波数の正則分割
☆60 ボストンとエルサレムの意外な共通点


   7. 音楽の3要素(ハーモニー)


☆61 相対音感と絶対音感
☆62 テンションやハイブリッド
☆63 転調をなるべく認めないジャズ理論

☆64 バターノートのエネルギーは化石燃料
☆65 ビバップを要約すると「勝手にマイナードミナント
☆66 ジャズの奇跡「裏コード」は因数分解
☆67 琴線に触れるモーダルインターチェンジ
☆68 紅葉の青とマルチトニック
☆69 無調性と多調性の違い
☆70 ハーモニーの限界


   8. 音楽の3要素(リズム)


☆71 リズムには進化の余地が
☆72 グルーヴがなければ意味がない
☆73 ゴーストノートには不思議な魔力が
☆74 タテノリヨコノリナナメノリ
☆75 キメやブレークによるメリハリ
☆76 たかがシンコペされどシンコペ
☆77 変拍子と変連符とポリリズム
☆78 時間の正則分割
☆79 抜けば抜くほど
☆80 時間の正則分割にも認知しやすいモチーフ


   9. 究極の音楽CPJへ


☆81 デタラメに見えること
☆82 意外と保守的なCPJ
☆83 変なようだが必然性と普遍性が
☆84 ナナメノリは地球を救う
☆85 プログレとハーモニーの両立は飛車角
☆86 クロスカントリーが書き譜でジャンプがアドリブ
☆87 トライアスロン×ノルディック複合
☆88 全ての曲は難曲であること
☆89 幾多の難関を乗り越えて『ボーッ』の境地
☆90 フリー券の獲得


  10. CPJの啓蒙への旅


☆91 プロとアマの定義
☆92 CPJを継続する術を模索する
☆93 広島東洋カープ方式
☆94 クオリティープロという概念
☆95 オヤジダンサーズによるノルディック複合
☆96 暗譜の義務化から見えること
☆97 CPJのPOP化
☆98 分業か弱点強化かの悩み
☆99 両脳開花への扉は重く楽しい
☆100 ジャズネクシャリストとマルチリンガル


 

 

 1.楽なことに流されるな !

 


☆1 知らないことは素晴らしい


「知ってる曲があったから楽しめました」

「何か有名な曲を演ってください」

ジャズマンは生涯の間にどれだけこういう要望を耳にしてきているでしょうか。
でも、ジャズは別に過去の音楽というわけでもないし、ナツメロでもなく、変化し続けている現在進行形(☆40)の音楽なんです。
「オリジナル曲ばかりだったんでしんどかったなあ〜。大昔の優れた曲があるんだから、そういうのをやってくれればいいのに!」
ある時、「通」だと言われているとあるジャズクラブのマスターが過去にあったライブに関してこう言ったのでがっかりしました。
過去の曲を妄信するのは、ナツメロ効果(☆3)の力が大きいと思います。
そして自分達のオリジナル曲をやっている気鋭のジャズマン本人達はおそらく、
「過去のものでは満足しておらず、もっと素晴らしいものを演りたい」
という意図でやっていたと思うし、
実際は、マスターが聴いているナツメロとやらを圧倒的に凌駕している、と確信しているからこそ演ったのでしょう。

もしなんらかの分野で、深いところまで極めたことがある人であれば、そんなことは言わないでしょう。
そして、そもそも音楽に優劣はなく、基本的には好みなので、
「大昔の優れた曲」でなくて、「私は大昔の曲が好きだ」ということでしょう。
ただ、それを超えた次元では、専門的にはある意味の優劣は深いところでは実際にはありますが、(☆25)
そこは専門家でないとなかなかわからないところでしょう。

結局、「まだ知らない」ことには関心がない人、
自分が既に知っていて何かしらの蘊蓄(☆34)が言えることにしか興味がない人、
が年齢と共に多くなってきてしまっているようです。
でも、「知らない」ことを煙たがることは、未来を排除しているということになってしまいます。
それはもう人生で二度と新たに知ることがなく、過去のことをこねくり回して生きる、ということですから!
これは全くジャズだとか、音楽だとかに限定した話でなく、全ての概念に当てはまります!

「知らないこと」は、新しい楽しみやワクワク感の泉なのです。
みんなが「知らないこと」に一生対峙し続けてワクワク感を感じる権利があると思うし、
それが人間にとって一番重要なことだと思っています!


 ☆2 アウトプット人間に見るアウトプットの重要性


こんにちは〜すら言う前から、
「バ〜ッ」と捲し立て、
「知る筈のない固有名詞」が沢山でてきたり、
「いつ、どこ」での話だかわからなかったり、
「速さと勢い」に相手が口を挟めなかったり、、、、
相手が話すことに関してはあまり聞いておらず、それに対する反応もないという状態。
このようなアウトプット主体の人たちがおおぜい集まって話をしている場では、
僕はとても口を挟めないあげくに、
「あら、随分と無口だわねえ〜」とか言われたりすることがありました。

さて、「アウトプット(出力、もしくは発話)だけで生きる」ということは、
インプット(入力)がないことになり、必然的に一方通行ということになりますよね。
するとこれまでの人生で既に獲得した知識、「知ってること」だけで過ごすということになり、
新しい情報(☆1)はもはや入って来ないということになってしまいます!
適度なリズムの会話のキャッチボールの中で、
相手が話すことから「インプット」して、一生インプットを持っていたいと思いませんか?


☆3 ナツメロや流行り


「わぁ〜この曲聴くだけで昔の記憶が鮮明に蘇るなあ〜懐かしい〜〜〜〜〜」
という気持ちは、松井にもあります!

「懐かしい」という感情は、
人間の感情の中でも鮮烈なもので、奇跡的なパワーと存在感を持っていて、「誰にも抵抗できないぐらい」の強烈な感情だと思います。
特に日本人にとっては重要だからこそ「懐かしい」という言葉があるのかもしれません。
英語で「懐かしい」と言おうとすると、「It brings me back the memories of 〜〜〜〜〜.」だとか説明的な感じになり、
ぴったりくる言葉がない(たぶん)し、これじゃあ全然想いがこめられないですよね。

しかし、
「このバンドは60年代風で」とか、「70年代っていいよね〜」とかいう会話を音楽家たちがしたり、
ある過去の時期の雰囲気に限定した音楽だけをやったり、、、、、
あるいはリスナーたちが、
自分にとって懐かしいよく知っているサウンド、つまり「ナツメロ」に全精力を注いでいる人がかなりいるようです。

しかし、全てを過去の概念になぞらえてとらえるということは、
「知っていること」(☆1)にだけに限定してゆくことにならないでしょうか?
それによって、これから未来に吸収できる筈の、「新たなワクワク」が入る余地をなくしていったり、
狭めたりしてしまうことにならないでしょうか?

そして、「流行り」という概念(☆11, ☆15)に関しては、
子供の時点で、「これはおかしい」と思いました。
「今年は長いスカートが流行るんですよ〜」
ってブティックの人が言ったとしたら、
どうして、人の好みを予言できて、更には強制できてしまったりするのか?
そして、流行ったらどうだっていうのか?
他の人と同じ服を着ないとならないのか?
それは、「流行る」ではなくて、
「流行らせる予定」ということで、
「今年はこのタイプの商品を大量生産する都合上、これが売れないと困る」ということじゃないでしょうか?
もし、最初から、
「今年は長いスカートが安く提供できますよ〜勝手ながら沢山作っちゃったから」
と言ってくれればまだ正直でよいのですが。
それをあたかも、
今年〇〇な洋服を着るとファッションセンスがよいかのように思い込ませる?
ことは、なんだか変だと思っていたのです。

「ナツメロ」や「流行り」に没頭する時間もあってもいいですが、
自らの感性で新たに切り開いた境地に浸ることが、
せっかく新たに生まれてきた人間としての、
存在価値であって、アイデンティティー 『60.KS010.アオスジアゲハ舞う丘へ』なのではないかと思うし。
個のアイデンティティーはもっとも大事なことだと思っています。
そしてそれは自分の未来のワクワクの為の時間を増やしてくれることに繋がり、
未来を輝かせてくれると思います!


☆4 マヨラーの失うもの


ウェイトレス1「ドレッシングはどちらにいたしますか?」

松井      「あ、いいです」

ウエイトレス1「は、、、、はい」
2分後、わざわざもう一人のウェイトレスがやってきました。

ウェイトレス2「あの、こちらのサラダなのですが、ドレッシングの方はどちらになさいますか?ノンオイル青じそと、和風、それから、、」
松井       「あ、すいません、なくて大丈夫です」
ウェイトレス 2「え、、、、、と、、、なし、、、、ということでよろしかったでしょうか?」

という具合に、例えばドレッシングひとつとっても、どうしても何かかけるのが大前提になっている世の中です。
いつでもどこでもマヨネーズを携行しているという、
「マヨラー」
なるものまで出現してきました。
ただ、味付けが濃いというのも通り越してゆくと、
あらゆる他の味に対する感覚は麻痺して行くような気がしてならないんです。

それは、音楽の場合にも思います。
濃い味付けに相当する、
大音量での盛り上がり(☆9)や、
注意を引き易いものとしての突飛なこと(☆8)などは、
味の微妙な違いに相当する、
微妙なハーモニーやリズムの違いをかき消してしまいます。

なので「食」に関しても、
「音」に関しても、
繊細な違いを嗅ぎ分けられる余地を残す意味で、
単に濃い味付けや、
単に音量で制圧するような方向でなく、
一旦原点回帰してひとつひとつ吟味できる状態として、
ゼロ発信で、
様子を見ながら加えてゆくと、
より変化に富んだ楽しみ方ができるのではないか、
といつも思っています。

その上で音楽においては、
なるべくどんなに複雑でも複雑性をポップに表現(☆97)できるだけの精度を求めて精進しようとも同時に思っています。


☆5 インスタントなものに飛びつくな


「突然で悪いんだけどさ~今度出すCMのうたい文句考えてるんだけど、
『うまくてgood!はやくてnice !』っていうのを考えてるんだけど、これって英語あってるかなあ~?」

まだインターネットがない頃のある朝、テレビのCMの制作をしている知人から電話がありました。

その中の日本語も英語も、あまりにストレートで、
しかも英語だという部分も、十分日本語になっているような言葉だし
わざわざ考えたものとはとても思えない、全くひねりもない言葉なことに驚愕しながらも、
「は、、はい。特に間違いはないです。」
と答えました。

その後程なくして、
テレビのCMでまさにその通りの歌い文句が流れているのを見て、絶句しました。
ここまで当たり前の宣伝文句を世の中は好むのだろうか?

そう言えば音楽でもコンサートで、ドンドンドンドンとかズンズンズンとか、
表のリズムだけのものにノリノリで踊って手を振ったり、
初めてでも口ずさめるようなメロディーがあったらそれをその場でみな口ずさむ、
インスタントに理解できることがもてはやされています。

でも、インスタント食品も含めて、
その場が凌げればよいというインスタントなものは、
そのクオリティーの部分は当然排除して成り立っているので、
つまりは物事の質のうわべの部分だけを抽出して感じとっているということになってしまわないでしょうか?

つまり、多くの人がすぐにできることに興味があり、
すぐにできないことは嫌だと思っているということ(☆44)です。

でも、すぐにできるような表面的なことなんて、そのうちさすがに飽きちゃうんだと思います。
物事の表面だけを見ていても、
いつも物事の入り口の同じ境地までしか行けないことの繰り返しになってしまう可能性がないでしょうか(60.KS010.アオスジアゲハ舞う丘へ)
しかも、インスタント食品の場合は、すぐにできて便利ではあるけど、
添加物の温床で害はあるけど、ほぼ栄養価はない、食品とすら言えないようなもので、
そんなものばかり食べていたら、あらゆる病気になってゆくでしょう。

それとは対照的に「高める」とか「深める」というのが、
人間に与えられている素晴らしい能力だし、
その段階が進めば進むほど
とてつもない何にも代え難い高揚感を齎してくれて、
人間が人間であることを完全に生かした状態になってくると思うのです。
逆にその人間の素晴らしい権利を放棄して刹那的に生きていると、
恐らく年が進むにつれ空虚な気持ちだけが残っていってしまうような気がしてならないのです。

そんなことにならない為にも是非、
「インスタントなものに飛びつく」というのをやめてみては?と思います!
みんながやめれば世の中の需要自体ががらっと変わり、
みなが好奇心旺盛で深みを求める旅をする星になってゆくと思っています !


☆6 マネゴトからの脱却


「なんかこれ有名らしいわよ〜」
「芸能人の〇〇〇〇も使ってるらしいわよ〜」(☆14)
「なんか流行ってるみたいよ〜」

ファッション(☆3)の場合もそうでしたが、
人々が、テレビで流された情報などで物事の価値を判断したり、
他人による評価を妄信して、
全く自分で判断しない傾向をいろんな場面でみかけます。

勿論それぞれの人間にとって得意な専門分野もある代わりに、ある分野においては門外漢になるわけなので、
全てを自ら判断しきれる人間はまずいないでしょう。
ただ、一度も自分のフィルターを通さずに誰かを知名度などで判断したり、
知名度のある人の言うことを盲信してゆくのは非常に危険なことです。

なぜなら、特にメディア(☆11)などを通ってくる情報に関しては、
その筋の専門分野の人が流している情報であっても、
事実が意図的に歪められていたり、その専門家の知識が実は最高レベルでないことで歪んでいることもあります。
また、意図的に歪められている場合でも、
本人の意志の場合よりも、情報統制の舵取りをしている組織から雇われた御用学者にすぎないという場合の方がかえって多いでしょう(☆17)

ましてや、ファッションの流行に関しての場合は正誤はないし、ほぼ全て営利につなげる情報を流していることでしょう。
そんな中で本当に必要なのは、なるべく自分で考えて判断していって、臨機応変にものによっては勿論専門家の判断を参考にし、
その上でとことんまで自分の五感をフル稼働してさまざまな付帯事情から、
どの専門家の情報がもっとも信憑性があるかをとことんまで精査する必要があると思います。

そして音楽を演奏する側や、鑑賞する側に関しても同じような現象が偏在しています。
今の日本で言えば、ジャズの中でよくあるのは、
スタンダードジャズやビバップあたりのジャズを盲目的に練習している若手プレイヤーがもの凄く多いです。
彼らは、僕よりも10年も20年も後に生まれているのに、僕よりも半世紀ぐらい遡ったジャズばかりを演っている、
という状態に昔から違和感を感じざるを得ないです。
もちろん温故知新は素晴らしいことで、過去の音楽の構造から学ぶべきことが沢山ある(☆41) のですが、
ビバップならビバップだけで簡単に一生を費やせてしまうぐらいやれることはあるでしょう。
それでは、せっかくわざわざ後から生まれてきて得られた「次の時代を切り開くチャンス」を捨ててしまうことになってしまうと思うのです。
つまり、「温故知新」のどの部分がどれだけ必要かのさじ加減を自分で判断してある時点では少なくとも未来に向かって行かないと、
せっかく新たに、過去の人間とは違う時代の人間として生まれてきたことが勿体ないように思うのです。
ひとりひとりがある時点から、個のアイデンティティーを輝かせる権利を持っているということを意識して行けば、
専門分野が何であっても楽しいことが眼前に拡がってゆくと思っています。


☆7 見えるものと聴こえるもの


「それはデタラメを弾いてるんですよねえ?」

ある時、新しく入ってきたジャズピアノの生徒が、勿論何の悪気もなくこう言いました。
その時は、ちょっとしたサンプルとして、機能調性が完全に成り立っている王道なジャズのvoicingを弾いている時だったので、愕然としました。
ジャズってやっぱりわかりにくいのかもなあ、とその時に痛感しました。

こと芸術的なものになると、判断基準がわかりにくいので食べていくのは大変になるだろうと、バークリー音大を出た後当分の間は、
英語関係の仕事をかなりした時期がありました。少なくともジャズよりは需要があるし判断基準はもうちょっとシンプルなので、努力が比較的報われる分野です。
ただ、英語のレベルというのも、ピンからキリまでの格差は天文学的であることが理解されていないということにだんだん気がついてきました。

そんなある時2度目にTOEICを受けてほぼ満点を取りました!
この試験で満点をとるのはほとんどネイティヴレベルの桃源郷だろうと思っていたのに、この時点でも、映画の英語がわからないことだらけの時もしょっちゅうで、ネイティヴとの差はまだ天文学的だということがなんとも笑えましたが、
それでも、英語関係の人からはかなり評価されました。
しかし、その時に逆に思いました。
「ああ〜もしこの英語がすごいなら、自分の中で、英語よりも天文学的時間と情熱を注いできた音楽は、明らかにそれよりずっと上なはずなんだけどなあ」

そして、音楽活動を大分続けてきたある時、あろうことか自分の関わるCDのジャケに使う写真を、僕が撮った風景写真から使うことになった時がありました。
そのCDがリリースされた後、感想の半分以上を占めたのはなんと、その写真に対する賛辞でした。
もちろん褒められて嬉しくないことはないですが、なんとも複雑な気持ちになりました。
恐らく選んだ被写体のツボに共感していただいたということなんだと思うんですが、僕はカメラマンでもないし、
写真を撮ることに関して
『一秒も練習をしたことがない!!!』
全くの素人で、誰でも撮れるような写真を撮っていて、
それが、一生費やして高めてきた音楽の部分よりも評判がよいということになるわけなんです。
それは、音楽はちょっとわかりにくくて、なんともいい難いけど、「何かを褒めてあげたい」と思ってくれたのだと思いますが、
『見えるものと聴こえるもの』
の間に伝わり易さのギャップがあるのも大きいということがあります!

つまり、僕個人の中での「音楽ー英語ー写真」の達成度と評価の奇麗な反比例関係は、
で比較すると想像を絶するぐらいの天文学的レベルな感じがします。
そこから推察するに、世の中にこういうことは偏在している可能性が高いので、あらゆることに対して安易な判断はできないなあと痛感しています。


☆8 突飛な楽器や奇を衒うこと


「ひゃ~ヘンタイっ」

音楽の中でも、特に先端的な音楽をやっている人の間では、「変態」なんて言葉が、主に「進化している」という意味の「褒め言葉」として飛び交います。僕は人生この「ヘンタイ」とか「ヘン」という褒め言葉に関してだけは欲しいまま(欲しいのか?)にしてきました。

 たまにこの「ヘンタイ」性というのは、確信犯的に、「奇を衒う」行為と思われていることがあるようですが、生粋のヘンタイ達というのは、実は、「奇を衒って」いるわけではないんです。自然な流れの中で、気持ちのよい方向に向かって行った結果、「ヘン」、つまりは珍しい感じの音に進化したというだけの事なんです。

つまり、真の「ヘンタイ」は、「奇を衒う」というのとは真逆の概念だということで、真の「ヘンタイ」性は、それそのものが普通の芸術であり進化であると思っています。

対して、「奇を衒う」という行為は、不自然極まりないことで、必要のないこと、もしくは避けておくべきことだと思うんです。

一方、音楽の中でちょっと「奇を衒う」行為に似ていることのひとつが、「突飛な楽器」を使うことです。

僕がある時のライブツアーで、ほとんどの曲ではピアノやギターを演奏していましたが、たまたまパーカッションの一種、スリットドラムというものをちょっとだけ使ってみたことがあります。このスリットドラムという楽器、視覚的にも珍しいし、音も比較的変わっているせいか、ツアー中の幾つもの会場で、ライブの後、お客さんの話題の中心がこのスリットドラムになってしまいました。確かに、ちょっとほのぼのとした音がするのもあるし、誰でも叩けそうな感じのする風貌でなんとも気になる感じなんです。
しまいにゃ、会場によっては、これ叩いてみていいですかという人が殺到したりして、ボコボコ叩いてみる人が続出する始末でした。ただ、僕はピアノ、ギター、ベース、ドラムに関してはぞれぞれ40年以上はやり続けていますが、スリットドラムは、それまでに一時間も練習したことがありません。

つまり、ここでも、30年以上の手練よりも、練習もしていないものの方が楽しめてしまう(☆32)、という現象があり、なんとも馬鹿馬鹿しくなってきました。でも、世の中そういうことがあまりにも多いような気がします。

使う側に必然性があったり、本当にその楽器にこだわっているなら演奏者が突飛な楽器を使うのはよいと思うのですが、なんだか結果的にインスタントな概念(☆5)に加担してしまうことになるのも嫌だし、若干の罪悪感にも苛まれました。

「奇を衒う」とこと、「突飛な楽器を使う」ことは、ある意味やはり安易な行為であって、芸術的文化的方向性を妨げるものだと思います。


☆9 音数や音量による盛り上がり


「今までうちに来たギタリストの中で一番速かったです!」
ある時、ライブツアー中のある一軒のマスターにこう褒められたことがありました。これの意味は、ギターソロのブレーズの中にいわゆる「速弾き」と言って、とても速いフレーズがあったということなんです。最初はきょとんとしてしまいました。

また、駆け出しの頃、こういう風にがっかりされたりすることもありました。
「淡々としてて、テンション低かったですね〜」
これは、音量の振り幅が狭く、特に大音量の部分がなかった場合に、盛り上がらなかったという判断をされた場合です。

しかし、「速さ」や「音量」というのは、音楽のいろんな要素の中でかなり見え易い部分に過ぎず、たとえば、速さに関しても、音量に関しても、ジャズのソロ(アドリブ部分)が始まるや否や「バ〜っ」と音数を増やしてテンションを上げるのは、稀にやることもありますが、毎曲そんなことをやる必然性はないどころか、そうしてしまうと他の感覚が麻痺してしまって、他にも豊富にあるあらゆる音楽の要素に注目がいかなくなるのです。つまり、逆説的に言えば、「速さ」と「音量」はマヨネーズ(☆4)の部分に相当する強烈な味なんです。

例えば、ギターでは「速弾き」と言う言葉は定着していて、インストのギタリストの中で、これを通っていない人の方が少ないんではないかと言うぐらいなことなんですが、大概ある時点で、「速い」だけでは意味がないということに気がついてプレイヤーとしては他のところを深めたくなるものです。その結果、速さだけで言えば、高校生ぐらいの時点にピークになったりすることは多いのです。ジャズ系の場合は、調性が絶妙に変化している間をつなぎながらソロをとってゆくので、スケールがどんどん変化している中をつなぎながらソロをとることの方が、一つや二つのスケールだけの中で速く弾くのとは全く比較にならない難しさとサウンドの深さがあるのです。しかもそれをある程度は速弾きにしたりもします。冒頭で「速かったです」と言われたケースでは、一曲だけもとのテンポ自体が鬼のように速かった曲があって、それでも10個ぐらいのスケールの間を縦横無尽に繋ぎながらのソロをテンポに乗せてとった時で、これは速さにおいて「マヨネーズ効果」(☆4)があるんだろうなあと思うようになりました。

あと、「淡々とした」演奏、という場合に、音量的な変化が少なく、大音量の部分があまりない状態を指すようなんですが、ある程度勿論起伏があった方がいいので、強ち外れた感想ではなく、反省し反映してきたことも沢山あります。

ただ、全体的にはどうやら音圧による制圧が歓迎されるケースは多いです。盛り上がる曲は非常に受けがよく、逆に繊細なバラードでもやろうものなら話し声が始まってしまう、という音圧至上主義的なお客さんがいたり(特に海外)、プレイヤーの間でも、うっかりするとバラードの曲ですらソロに入るや否や音数が突然増えて、結局はバラードだったことを忘れるぐらいなところまで盛り上がり、その結果ライブでやる曲の全曲においてピークまで盛り上がってしまう、という現象に陥って満足している人は多いです。

実際には、「音数は少なければ少ない程難しい」、音量は、「小さければ小さい程難しい」というところがあるのです。そして、サーカスのように見える部分ではないところに、繊細な表現が隠されていて、音数にしろ、音量にしろ、理想は「全てのさじ加減」黄金比を目指しているのです。実現できている夜は滅多にないですが、いつか実現できるといいなと思って感覚を磨き続ける、それが、本来の芸術の始まりでしょう。


☆10 アテブリクチパクサンプリング


トルクメニスタンの元首相ニヤゾフは独裁者として、例えば自分がメロンが好きだから、「メロンの日」なっていう国民の祭日を作ったり、ちょっと徳川綱吉を極端にしたような、好き放題やる人で勿論批判もあったらしいですが、その勝手な法律の中に、「クチパク禁止」というのがあったらしいです。それは大胆で珍しい法律ではあるけど、素晴らしい法律だと思います。

そもそも「クチパク」って何だ、という方もいるかもしれないので、「クチパク」と共に、「アテブリ」とか「サンプリング」という概念を説明しておきます。

まず、「クチパク」というのは、コンサートで歌手が実際にその場で歌っていなくて、音程の正しい録音を流していたり、もしくは、もともと「打ち込み」と言って、人工的に作った音を流していて、本人はその場では口をパクパクして歌っているフリをしているものです。

それに対して、「アテブリ」というのは、「クチパク」の楽器バージョンです。例えば、ギターを弾いているフリだけして、やはり録音したものや「打ち込み」で作ったものを流している状態。

「サンプリング」というのは、CDのレコーディングなどに置いて、もしくはライブでも、ある誰かのレコーディングされたフレーズをなんとそのまま切り取って使ってしまうようなことです。

まあ、どれに関しても、実際にインスタントなもの(☆5)や、安易なもの(☆12)というのを通り越して、音楽をやっていることにならないですよね。一体なんで、そんなことがまかり通り、それを楽しむ人がいるのか。呆れてものが言えないです。

僕が国の総理にでもなったら、「アテブリクチパクサンプリング禁止令」を出すことでしょう。


 

 2. メディアの洗脳は強烈

 


☆11 テレビを見ると貧乏になる


「風が吹けば桶屋が儲かる」

なんてちょっとふざけ気味な風情のある諺がありましたが、まあ、これの場合はあまりにも全ての要素がドミノ倒し的に本当に奇跡的にそうなったらそういうこともあり得るかも、というぐらいの実際の可能性しかないですが、僕がある時思った、

「テレビを(盲目的に)見ると、(一般人は)貧乏になる!」

の方が確率的には圧倒的に高いことだと思います。

なるべくシンプルにこれを説明すると、

まず「政界」と「芸能界」と「マスコミ」の合同体が大きな特権階級としてこれをコントロールしているということです。

「政界」に関しては、もちろん情報統制があまり露骨にならないようにカモフラージュする意味で関係の複雑化(☆17)をする一環として例外もかなり作っていますが、重要なところでは必ず現体制のプロパガンダになる内容が強調されていて、逆に体制側に特に都合の悪い情報は隠蔽されます。

そして「芸能界」に関しては、例えばテレビで流されている、芸能関係の番組を見てそれらの芸能人達に憧れ(☆14)を持ち、それらのCDなどを買ったりコンサートに行ったりする人は多いと思われます。ここでも、かなりのパーセンテージで、容姿など他の要素(☆12)気に入ったか、テレビによってこしらえられた有名性で判断して自分で判断せずに(☆6)流されるようにそういう行動に出ることになります。

そして「マスコミ」は、政界から命じられるがままに、特権階級の特権を守るのに都合のよい情報を積極的に流し、流してよい情報とそうでない情報を細かく指定され、それを守らない者はメディアから追放されるという仕組みになっています。

この結果、この三者は一庶民に比較するとかなりの高給が保証され続けているし、基本的に世襲で成り立つ既得権益団体です。
「テレビを見ること」で一般人は無意識のうちに刷り込まれる価値観が既特権益団体の特権を安定させることになり、国全体での不均等な利益の分配につながり、本来一般人が得られる筈の利益は比率的に減っていることになるのは確実なことなんです。
特に日本の場合は顕著で、抗癌剤が余れば高価な抗癌剤を、ワクチンが余ればワクチンの最終処分を押し付けられ、
TVなどでそれらを推薦すれば国民はそれらに飛びつき、余計病気はひどくなり、保険でかなりの額を負担するので、税収から年間で50兆ほどがグローバル企業に流れているのですから!

 もちろん全部の番組にバイアスがかかっている訳ではなく、全く利害関係に絡まない番組の中でとてもよい内容のものもあるので、この件に気づいている上で、マスコミで何が行われているかを逆に監視する意味で自分はまだたまに見ていますが、
盲目的にテレビを皆が見れば見る程、この既得権団体に多額の年貢を様々な形で払い続けていることになってしまいます。
テレビは、スポンサーの都合のいいことを、というのはまだまだ生温い部分で、テレビは、本当は「グローバリスト」に都合が良いことしか報じないのです(☆15)


☆12 お遊戯大国ジャパ〜ン


「松井さん、世の中にはAKBみたいなものがあってもいいと思うんですよ」

と、ある時僕が地方でやっていたライブの打ち上げでお客さんのひとりがわざわざがこんな問題提起をしてきたことがありました。

そのライブで、そういうお話など一切していないし、実はその時点まで僕は幸か不幸か「AKBなんちゃら」の存在すら知らないで生きていたので、
なんとも不思議なことだったんですが、僕はその類いのことに体する嗅覚やセンサーはかなり精度が高いので、「だいたいそういうもののことだろう」と理解し、その場でなぜか根拠もなくすぐに反論しました。
逆に、僕の演奏聴いただけで、しかもその日の演奏のベクトルはそんなに最先端ってわけでもないのに、そういう投げかけをしてくる人もこれまた逆の嗅覚が鋭いなあとある意味感心しました。

さて、その後、AKBなんちゃらがどんなものかを知らないで生きてゆくのが困難な日本に住んでいて、状況は把握したんですが、結論から言えば、AKBをはじめとするこのような移動キャバクラとか、移動ホストクラブ的なものは、世の中の音楽や、人々の感性を退化させる「害悪」でしかないでしょう。

ジャズ界で、いや、音楽業界ほぼ全域に、CDの売り上げの不調はどんどん顕著に現れていて、CDショップに至っては軒並み閉鎖に追いやられそうな時代、これは、基本的にはもうデータ自体をネットで曲毎に販売するようになってしまったせいなんですが、その不景気なCDの売り上げの中で圧倒的なシェアを占めるのが、AKBなんちゃららしく、しかも、何十枚も同じCDを買うと、AKBなんちゃらと握手ができるとか、おしゃべりができるとか言うあくどい商法でやっているのにも関わらず、それを買ってしまう人がかなりいる、ということなんですね。

「それなら(聴かないCDなんか付けないで)握手券っていうチケットでも売れ!!!」

と言いたいし、

「移動キャバクラは(やりたいなら)音楽に関係ないところでやれ!!!」
と言いたいです。

もうひとつ買う側にも言わせてもらうと、

「そんなもん買う暇と金があったら自分を磨け!!!」

と言いたいです。
踊りに関しては門外漢だから推測に過ぎないですが、踊りは踊りで超絶なブレークダンスができる達人だとか、ジャンル問わず極めてる人がいる筈で、それから見ればド素人でないかと思うし、
音楽は、音楽を真面目にやっている人から見ればわかるように、別に音楽の内容を高めようとすらこれっぽっちも思ってすらいないでしょう。
そして、それどころか、アテブリ、クチパク、サンプリング(☆10) など実際に演奏すらしてない場合もザラにあるわけですから。
こういう類いのものが蔓延しているこの日本はいつから「お遊戯大国ジャパ〜ン」になってしまったのかと思います。
しかも、恐ろしいことにどうやらこれ日本だけの傾向じゃないようなんですが。。。


☆13 素人が牛耳る各分野


「ペンタトニック一発だね!」

 

ある時、僕が駆け出しの頃、僕の曲を聴いたいわゆる「売れ線」のプロデューサーがこう言い放ちました。

さて、「ペンタトニック」と言うのは、あらゆる音階の中でもっともシンプルな、ドレミソラなど、5音で成り立つスケールで、「一発」というのは、ひとつのペンタトニックスケールだけということで、つまり、もし本当にペンタトニック一発の曲だったらそのメロディーは童謡のような感じのものになります。それ自体がいけないわけじゃなくて、僕が彼に聴かせた曲というのは、一度もペンタトニックの出てこない、一瞬一瞬に転調があるような、典型的なCPJ(intro CPJ)っぽい曲だったんです。つまり、楽器を1年でも2年でもやってたり、音楽を少しでも知っていればあり得ないような超ウルトラど素人的発言だった訳です。

ある意味、こういう業界のプロデューサーというのは、こういう仕事を仕切ったり、判断を下したりする立場なので、クラシックのオーケストラで言えば、指揮者並の音楽性と感性がないとならない筈だと思っていたので、あまりのことに、若かった自分はその場では何も言えなかった訳です(今だったら、「あんた大丈夫?」と言ったと思います)。つまりド素人が仕切っていることが普通にあるということです。

でも、例えば、政界でも、各省庁のトップに立つ人が猫の目のように代わったりして、同じ人間が〇〇大臣から、〇〇大臣になり、そして〇〇大臣になったりしますが、ひどい時は〇〇大臣に就任するや否や、「私はこの〇〇に関しては詳しくないので」とかぬけぬけと言ったりする人が平気で政治の中で重要なポストをおままごとのように(「今度は〇〇ちゃんはこっちね〜」という感じに)やっていたりしますよね。まあ、これに関しては、大臣クラスは単なるお飾りで、ブレインは他にいる訳だから特にその分野の専門家でなく、政治屋で固めて差し障りのないことを言わせておこうということだと思いますが、各分野の中でもっとも有能な人が適材適所に配置されていないのが不思議です。みなが不思議に思っていれば内閣支持率は、0パーセントになるべきですから(ただ、あいつらが発表する「支持率」も全く当てにならないですね)。

あと、芸能界に関しては、歌手が俳優やってみたり、俳優が歌手をやってみたり、しまいにゃ、相撲取りがCD出したりとか、ということは挙げたらキリがないですね。その時点でもう、誰でもできるレベルのことをやっている証拠になる訳だけど、それでも、疑問に感じないで崇拝できる人たちがいるから成り立っているという訳です。どの分野にも本当に優れた人たちがいて、それらについてもっと知りたいと思ってもいいと思うのですが。

それで他のいろんな分野に想いを馳せると、もしかしたら、同じような素人仕切りが全ての分野にあるのかも知れないと思わせるような出来事が頻繁にあります。やっぱり情報を統制している側(☆11)が意図的にコントロールしている部分も絡んでいることもあるでしょう。

ただ、国民全員が総オンブズマン状態になって、各分野で、不正や矛盾が生じていないかに目を光らせて、おかしなことには加担することがないように気をつけるだけでも、世の中は変えていける筈だと思います!


☆14 芸能人のオーラは幻影


例えば野球のピッチャーが、均衡している1対0の試合で、ビクビクした感じで、打たれたら大変だとばかりコースぎりぎりに球をコントロールしようとしてバズしてしまったり、球がすっぽ抜けたりしてなかなか調子がでなくても、見方が沢山点をとってくれて5対0のリードになったとたん、「打てるもんなら売ってみろ」とばかりに腕を振ってど真ん中に豪速球を投げ込む大胆なピッチングを始めて俄然調子が出てくるということがあります。それは、「有利な状況下でリラックス」することでより有利な状況へ向かうということです。

 

「あの人はオーラがあるわよね〜」

という言葉をよく耳にしますが、特に芸能人の誰かが堂々とした振る舞いでステージに立っていたり、テレビでしゃべっていたりする時にこう表現するということなんですが、そもそもオーラというのはオーラを出しているようにみえる本人の中に「自信」がある、ということで、オーラを感じとって作り出しているのは、見ている側の方だと思うんです。しかも芸能人の場合のその自信のほとんどは、すでに置かれている順境(☆11)からでてきているだけのもので、その芸能人のクオリティーを、見ている人が自分の力で判断(☆6)せずに、その自信を感じとってで判断しているだけのことが多いでしょう。少なくとも、クオリティー的にどうなのか検証してしまうと、スポーツに例えたら、「一回転がこないだ初めて飛べましたレベルの人のフィギュアスケート」とか、「草野球レベルの人ばかりのプロ野球」のようなものがかなり多いです。

 

最初の野球の例でも、有利なチームは戦い方の選択肢も増えてより優位に立ちますが、芸能人の例では、ミーハーな人がいればいるほど、勝手にオーラを感じて創り上げてくれるので、すでにそういう環境で活動している経済的な有利さがこれまた膨張してゆくということなんです。これも格差社会のひとつのパターンを形成していると言っても過言ではないでしょう。

 

つまり、ミーハーな人の芸能人に感じるオーラのほとんどは、見た側が見事に創り上げた幻影に過ぎないし、もし、正しい目を持っている人がもしオーラというものを感じる対象があるとすれば、それは経済的もしくは状況的優位性などの薄っぺらいものではなく、実のある真のオーラを持っているような人でしょう。


☆15 テレビを見るならしゃんとして


「テレビは洗脳装置。嘘でも放送しちゃえばそれが真実」
とTBS副社長時代の井上弘が洗脳する側として堂々と暴露していたことがあるように、
テレビというのは、
情報操作と情報統制で洗脳するのには恰好の、
視聴覚を兼ね合わせた能動的媒体(視聴者からすると受動的)で、
ただだらだらつけているだけでもかなりの説得力と注意喚起力を以て、
ボ〜ッしている人も含めてくまなく探して洗脳してくる意外に恐ろしい道具です。

インターネットも、新聞も、
情報得る側からみて能動的に取り組まないと情報は得られないある意味消極的受動的媒体です。
テレビと並んで受動的媒体と言えるラジオも、
テレビが視覚まで刺激するのに比べて、
聴覚のみに限定しているぶん影響力はテレビほどのものではないでしょう。人間にとって、視覚と聴覚(☆7)の影響力にも隔たりがあるかも知れないし、
飛車か角か、ということで言えば、テレビの方は飛車と角を兼ね備えたスーパスターなのですから。

かなりの誤情報をも意図的に流し続けてきたテレビですが、
根本的には、体制側の一部の人間が巨万の富を築くのに効果的に使われ続けてきたことは明らかです。
例えば、医療ビジネスひとつとってもどんどん増収の為に人間の病気を作為的に増やしてきたし、
CO2ビジネスも、
コロナビジネスも、
御用学者を使って国際的洗脳をして完全な常識を創り上げてきたことによって排出権までビジネスに組み込むとか、
ワクチン、5G、スーパーシティー、ムーンショットなどに誘導するとか、
テレビのない時代から戦争をビジネスしてきたロスチャイルドに遡ると、
情報操作という行為で世界を牛耳って、
それ以外の大半の人間から搾取してきたことに、
もっとも簡単に加担する道具なことは明らかです。
そしてその洗脳の度合いは、有事になると加速度を持って増大します!

それでも、その洗脳ビジネスに関係のない良い番組もある訳なので、見たいという気持ちがある人もいると思います。
それだけに、「テレビを見るならしゃんとして」(☆11)ということをおすすめします。
僕個人は、スポーツや、自然や旅の番組などは見るに値すると思ってはいますが、自分にとってのテレビは、
『洗脳の状況を監視する器具』でしかないです!


☆16 脱ミーハー派のすすめ


こんな僕が巨人ファンだと笑われるんですが、若干はテレビを見てたりすると、音楽番組はとても見られないので一瞬で避けるけど、お笑いなんかはゲラゲラ見たりもします。ミーハーという言葉の定義も曖昧ですが、これも部分的ミーハーと定義されるかも知れないです。

 

ただ、子供の頃から歌番組に出てくるスターだとかに全く興味なく、違和感を覚えていました。そして、なんでこんな虚像の世界にみな一喜一憂しているのか不思議でした。野球など、スポーツの場合は、それで多額のお金が仮にビジネスとして動いたとしても、ちょっとその額が極端すぎる問題はあるものの、AKBお遊戯などの芸能界とは違って、なんだかんだ言って実力は最高レベルでないと通用しない世界だから全く別のことだと思います。評価の基準がはっきりしているのは、スポーツ全体に共通する素晴らしさで、羨ましくさえ思います。

「スポーツでも不公平や運があるじゃないか」
という人もいるでしょう。ところが、音楽などのそれと比べたらないようなもの。スポーツでは、若干の判定のミスで95点の人が97点の人に勝ってしまった、ぐらいの誤差はありますが、こないだ始めた超ド素人がオリンピックに出るということはないででしょう。音楽では、100点と1点が引っくり返っていることが日常茶飯事なんです。

 

大分話しがそれてしまいましたが、統計がとれるわけじゃないから非常にざっくりとですが、冒頭のミーハーというものに相当する「ミーハー派」が人口の8割、そして、それを動かして巨万の富を築く人とそのまわりでおこぼれをもらっている「特権階級」が1割、そして、この現状に耐えられず正義感を持って現状を打破すべく活動している「抵抗勢力」が残り1割。というのがおおよその世の中の現状だと思います。パーセンテージはもちろんおおよそだし、ひとりの人間の中でもこの3つのカテゴリーの2つぐらいにまたがっている人は多いので複雑なんですが。

 

つまり、自分の判断で生きず(☆6)、テレビなどの洗脳の問題(☆15)もなにも考えず、知名度と権威に盲目的に屈している(☆14)結果、超素人(☆13)に誘導されて生きて、芸能三昧(☆12)で思考を停止させて生活した結果、「特権階級」のいいように経済をまわすのに間接的に加担することは、自分自身の生活のクオリティーを巡り巡ってに逼迫させ続ける(☆11)と同時に、特権階級が跳梁跋扈し続けるのに貢献していることになるのです。

 

ただ、「抵抗勢力」と書いてしまうとなんだか穏やかでない感じがしてしまいますが、大昔の時点からどうやら人間の中でほんの一部の人の悪だくみが世の中を支配し続けているので、実は「抵抗勢力」に当たる人間というのは、単に正直に生きる、正義感のある、つまりもっとも普通でまともで明るい、平和と平等を愛する人たちのことです。古今東西、まともな神経をしていたら「抵抗勢力」にならざるを得ないのが常だというのがなんとも人間の情けないところです。


☆17 コペルニクス的転回


例えば、宇宙学者達は宇宙の物質やエネルギーの中で解明できてないものを、

「暗黒物質」とか「暗黒エネルギー」とか名前をつけて説明していますが、

地球の人類のパワーにも、同じように「闇」の部分を想定していかないと説明がつかない部分があると思うんです。科学と同じで、人類をコントロールしている闇に関しても、完全な証明ができていない為、怪しげに聞えたりするのもあり、「トンデモ論」とかいう言葉まで出てきて、特に闇の正体を引っぱがされてはまずい立場にいる体制側からは、批判の対象になったり気違い扱いされていますが、冷静に分析すれば、ほとんどの分野の問題は、この「トンデモ論」の方に真実があるとしないと説明がつかないことが多いのです。

 

だからと言って、「トンデモ論」の中には本当の「トンデモ論」も潜んでいると思うので、これがまた複雑だし、それもひとつの「体制側」の突っ込みどころになってしまっています。体制側に相当する人たちはよく、「体制側」と「反体制側」の2つの勢力みたいに世の中は単純な構造ではないと主張します。でも、問題の矛先を複雑化して誤摩化すのは、体制側のあいつらの典型的な手法であり、体制側にとって関係は複雑なら複雑な程都合がよいわけで、しかも中枢部の正体は闇に包まれるようにしているのですから。ただ、日本の政治の構造で三権分立としていて、権力が分散した方がよいとしていたり、自治体にも権限を持たせているように振る舞っていますが、権力が分散しているように見せかけることは、体制側の統治にほころびが見え隠れした時の恰好の逃げ道になっているだけで、肝心なことになると上から押さえつける手段を幾らでも持っているので、偽善的独裁政治に過ぎず、しかも、その背後に「闇」の力を想定しないと説明つかないことが沢山あります。その闇は国外にあることになりますが、恐らくその背後にもまた宇宙で言う「暗黒物質」に相当する存在を仮定しないと論理が成り立たないのです。

 

震災前の大分前から、基本的に「抵抗勢力派」(☆16)の僕はかなり激しく原発批判をしていましたが、それこそ「体制側」の原発推進派に罵倒され続けていました。推進派には、個人的興味から推進している人と、体制側の送りこんだ御用学者的な連中かも知れないですが、当時、原発の安全神話のプロパガンダはかなり優勢で、テレビでもラジオでも「CO2を排出しないクリーンなエネルギー」という触れ込みで国民を洗脳しまくっている頃で、あらゆる業界の、原発推進する体制側に間接的にでも関わる人たちは、反原発論を片っ端から批判して「トンデモ論」扱いしてきた訳です。それが、震災があって原発が事故を起こした瞬間から、このようなことに関心のなかった八割ぐらいの人達の意見はだいたい覆り、これに関しては「体制側」の推進論が「トンデモ論」に成り下がった訳です。それでも現状だとしつこく闇の力はこの反原発論を押さえ込みにかかっていますが。この例のように、「トンデモ論」が「正論」になるコペルニクス的転回というのは、世の中では当たり前のことなので、人々がちゃんと興味を持って、トンデモ論」と言われることにも注視していくようにすると、恐らくこれからはどんどんドミノ倒しのように事実が露呈してゆく兆しがより近くに見えてくると思います。という意味では、最大のピンチであり、最大のチャンスでもあると言える時代だと思うんです。


☆18 情報発信の公平性


テレビ(☆15)というのがかなり能動的積極的メディアとしてかなり力強い洗脳道具になりうる中で、インターネットが出現してきた時に、ある意味いつでも誰でも情報が発信できる公平な時代(☆19)が到来して、政府が情報統制しているような他のメディアと違って、政権を真っ向から批判するような文章でもなんでも、同じように発信できるようになりました。ある頃から、新聞やラジオやテレビと違って自由な空気の中で、どんな意見でも発信できることで、世の中の流れも変わってゆく可能性が出てきたように思います。ある時期には、テレビ、ラジオ、新聞が体制側、インターネットが反体制側となりそうな傾向もあり、インターネットの普及率から考えて、現体制が崩壊することに繋がりそうな雰囲気すらありました。そして、テレビだけを見ている層と、インターネット中心の層の間でのあらゆる事に関するの認識の対称性も顕著になってきました。

 

ところが、ある頃から、いわゆる常識とされることに反する内容の文章に対して、「トンデモ論」(☆17)というという言葉が出てきたのも、やはり体制側としては都合の悪い事柄はなるべく勘違いや間違いだとして潰していかないとならないことから、恐らく体制側のどこかからの指示で出てきたのではないかというような気さえします。そして、これらの「トンデモ論」を徹底的にバッシングするようになりました。原発事故前の時点では、「温暖化の人為的CO2排出起因説」に反することがトンデモ論の典型でしたが、これも未だ仮説に過ぎないのに、世界中でこれをベースにあらゆるビジネスの構造を組み立ててしまった以上、これを下手に覆されたら彼らのビジネスが破綻し、大損害になるわけです。

 

その後、都合の悪いトンデモ論が増えればそれに対してまめに御用学者などにそれに反する文章をネット上でも書かせて、テレビやラジオや新聞と同じ形で体制側の参入が目立つようになってきました。それでも、反体制側の活動は当然激化してゆくので、今度は統制に入ります。まめにフィルタリングしてヤバい内容のYou Tubeの動画は削除されるようになり、そのスピードもどんどん速まってきました。反原発のデモがいい例ですが、デモの規模がどうであろうと、不自然なぐらいテレビでは取り上げられないので、その様子をYou Tubeにアップするととたんに削除されたりすることが始まりました。

 

つまり、今では、より本人の判断力と洞察力をもってどういう理由でひとつひとつのことが起きているかまでを推察する必要があるインターネット時代になってきました。明らかに世論は反政府的に偏っているにも関わらず、それが感じ取りにくいような情報統制が続いています。そして、情報統制にちょっとでも綻びがあろうものなら、必死に大勢の御用学者を雇ってでも、あっと言う間に梃入れをします。ただ、その様子というのは、しっかり見ていれば、誰でも見抜けるぐらい露骨にならざるを得なくなってきているのです。これが情報統制だとわかない人がいたとしたら、気がついてないフリをしないとならない体制側の回し者に違いないと思ってしまうぐらい明白です。「テレビを見るならシャンとして」(☆15)から、「インターネットやるにもシャンとして」に既にシフトしているという認識が必要な時代になっていると思います。


☆19 発信天国から玉石混淆へ


インターネットがかなりの普及率になり、情報の発信が誰でも自由にできる時代が訪れてから、音楽の世界にも影響がありました。誰でも公平に演奏のサンプルの音源や動画を簡単にアップロードしてプロモーションしたりできるようになってきて、これはある意味、予算でなくて、内容重視になり、いいものが脚光を浴びてゆく可能性がある時代になるかもしれないと思っていました。

しかし、だんだん見えてきたことがありました。まず、やっぱり個人の判断能力を培うのは音楽などにおいては大変なことのようで、たとえば、音楽を発信してゆくネット上のコミュニティーがあったりして、そういうところは、切磋琢磨、もしくは、よりレベル高いものを見極めて更に研鑽を積む指標にしてゆく場だったりするのですが、そこには、「こないだ音楽始めました」、という人たちと、「音楽に24時間取り組んでのプロ活動歴何十年」という人たちが同じ土俵で発信しているのですが、気がつくと、それらに対する反応はだいたい同じぐらいで、しかも発信した前者の側の人も、後者の発信から学ぶどころか聴いてすらいない状態でもくもくと発信をするだけという様子でした。

これは、カラオケボックスなんかで素人同士がお互いの歌に興味なく次の歌を探しているレベルの環境に、生涯研鑽を積み続けてそれなりに極めた達人達が、たまのことだったら面白いですが、毎日のように初心者と変わらない状況の中にいたりするぐらいに、インターネット上は玉石混淆の、ミソもクソも状態になってきているのが現状で、しかも更には(☆20)ある意味それでも済まないかも知れない状態になっています。それだけに、音楽以外のことでの真実の判断と同様に、相当慎重にならないといけないところでしょう。


☆20 ミソがクソでクソがミソに


「まだベース半年ぐらいなんですが、スラップってどうやるんすか〜」
全国ツアーが決まっている若者がこんな風に言ってうちのスクールの門を叩く時があります。

 

「先生、練習すれば、先生のようにひとつのコードから次にそうやって移れるようになるんですか?」

10枚ぐらいアルバム出していてやはり全国ツアーしているボーカル&ギターの生徒が言った衝撃的な言葉でした。

先述の、情報発信の公平なインターネット時代だからこその玉石混淆(☆19)
つまり「ミソもクソも一緒」な時代の到来の話を掘り下げてゆくと、

『「ミソもクソも」ならまだましだ!』

ということが判明してきます。
僕のやっているミュージックスクールにはプロもかなり来ますが、プロ連中の中だけで考えると、楽器の技術が上級者であるほど稼ぎも仕事も少なく、初心者程収入は大きいという傾向があります!
(そもそもほんとは初心者がプロという時点でおかしいんですが)
この現状はまさに「ミソもクソも」を優に通り越して、

『「ミソはクソに!」「クソはミソに!」』

という状況なんです。

この状況を目の当たりしてしまったら、どんな人でも考えさせられると思います。初心者によるプロの音楽という意味では、そういう路線(☆12)では、AKBをはじめとして、音楽でない部分が重要なことなのだろうということと、それを鑑賞するミーハー(☆16)な人たちの人口がかなりを割合を占めているということの問題があるだろうと思うけど、こういうものが「音楽」と銘を打ってしまうと、実際の「音楽」のシェアとは比べ物にならない境地なので、「音楽」をやる場面や可能性が激減しまうので、「音楽」を耳にすることがあまりなくなってしまうのです。

 

同時に、プロフェッショナルという言葉に関しても紛らわしく、使われている定義が混沌としてしまうケースが多いです。おそらく、本来の意味は単に「職業的」という意味ですが、時と場合によっては「クオリティーが高い」という意味で使われていたりします。それに普通疑問を持たない理由は、「職業=クオリティーが高い」というイメージを持つのが当たり前だからです。ところが、少なくとも音楽や美術においては、「職業的」というベクトルと「クオリティーが高い」というベクトルは全く違っていたり、ちょうど真逆のベクトルになることも多いということなんです。

 

ただ、音に関しては、テレビが普及してから半世紀も経った今の時点までの日常的刷り込みは大きく、ここから価値観を一新するのはとても大変なことですが、ひとつ簡単にできることとしては、例えば子供の時点でどういう音に触れるようにするかでしょう。よく「子供だから、子供でもわかる簡単な曲を聴かせる」という大人がいますが、子供のうちの方が圧倒的に巨大なインプットがついているわけですから、そういっている大人には全くわからないような音でも子供は日常的に聴いていればかなりの速さで理解してゆくでしょう。そういう意味では、子供こそテレビを垂れ流して聴かせない方がよいでしょう。何しろ素人が牛耳っている世界(☆13)の洗脳器具(☆11)ですから。

 

その場合に聴く音楽としておすすめなのはクラシックとジャズですが、おそらくクラシック音楽に関しては歴史が長いので、ちゃんとした意味での評価の基準がかなり確立されていますので、クラシックに関してはいいものを選択するにあたってそんなに大きく間違いはしないでしょう。ただ、ジャズに関してはまだ歴史が浅く、判断できる人は少ないのでジャズのプレイヤーが選択するものがよいと思います。

それでも、クラシックだけでなく、クラシックの反対側の要素が埋め合わせられるのでどうにかジャズも加えられると鬼に金棒です。それ以外に関しては、玉石混淆の世ですから、選択にはかなり慎重を期す必要があると思います。


   

3. 芸術とはなんぞや

 

 


☆21 芸術は自分の為に


(1).「芸術」は、「自分の、自分による、自分の為の」わがままな行為である。
(2).「芸術」は、それ自体が目的である。
(3).「芸術」は、達成度ではなく、純粋さのことである。

 今までこんな定義というのを見たことがないんですが、これが自分の思う「芸術」の定義です。

僕は、人間には「芸術」が重要だと思っている人間なので、その理由はだんだん書いて行こうと思いますが、「芸術」のような抽象的な概念の言葉の定義って、曖昧だったり、誤用から変遷するもので、「その言葉が確立した時点からずっと定義が変わらない方が珍しい」ぐらい、不安定なものです。ただ、いろんな言葉の定義が変遷する中で、定義の根幹を揺るがせてしまうと言葉自体の伝達機能がどんどん損なわれてゆき、せっかく各言語には膨大な語彙の選択肢があるのにそれが逆にマイナスになり、コミュニケーションが混沌としてしまうばかりなので、語義の変遷も、場合によっては言葉の存在意義に関わるぐらいの死活問題になってくるような気がしてならないのです。僕にとって非常に重要だと思われる「芸術」という言葉の定義を純粋な視点で捉えて表現してみたいと思います。
ということで、そもそも「芸術」ってなんだろう、というところから掘り下げてみました。

(1).「芸術」は、「自分の、自分による、自分の為の」わがままな行為である。

 
よく芸術に関しての定義の中に、「人に伝える行為」めいたものがありますが、もちろん人に伝える行為も素晴らしいです。ただ、そこでうっかり「人の為の行為」=「素晴らしいこと」=「芸術」みたいな結びつけをしてしまっている気がします。ただ、実は、直接的に人の為と思う行為というのが必ずしも長い目で見て素晴らしい行為になるとは限らないということと、「直接的に人の為に創造する行為」というのは、本人の好みや価値観を一旦棚に上げて「他人を喜ばせる」方向になります。それは、無意識的にも、意識的にも、極端に同ベクトルにそれを進めてゆくと「商業的」なものに繋がってゆくのです。それが全く営利的でなくて、一銭にもならなかったとしても、あくまでも方向性の問題で言えば、善し悪しは別として、そちら側の方向を向き始めているし、結果として他の人との間に起こるコミュニケーションやメリットなどを微塵でも「想定」してしまうと、本人が純粋に思い描くものから乖離して行ってしまう危険性があるのです。そういう意味では、本当の意味で「芸術」という状態になっているものはかなり少ないでしょう。芸術は、本来は純粋に本人の感性で、わがままにやらないと中途半端になってしまうと思うんです。指導者や同業者や先輩からの、技術的理論的意見を取り入れる必要は勿論あることも多いですが、外野の声が気になってしまうと、端から見るとちゃんと周りに協調性があって重宝されるんですが、「芸術」とは違う方向にたなびいていってしまう可能性があるのです。「わがままである」というのは「我がまま」、つまり「自分のまま」であることですから。

(2). 「芸術」は、それ自体が目的である。

芸術が、人の為のものになり価値観を揺らがせて迷走して行く先で、商業的なものになると「商業芸術」というちょっと矛盾したような言葉が当たるようなものになってきたり、音楽の場合だったら、完全に「商業音楽」になり、またその行き着くところはAKBのような、音楽ですらないんじゃないかというもの(☆12)に繋がってゆくベクトルです。ただ、本当の芸術家の本来の意識という中には、利益の追求や、その結果から得られる副産物的要素は一切なく、内容だけ、そして、本人が研ぎすましてきた価値観だけが重要です。自分の身近な人を喜ばせるためであっても内容は変わってしまいますが、それぐらいなら「芸術」にかなり近い状態でいられるかもしれない中で、もし人口に膾炙するレベルまで持っていくことになってくると、それはやはり素人の仕切る業界(☆13)のベクトルの、全くレベルを低めたものになってしまうのです。
ただ、ひとつ重要なのは、それでは、
「売れてお金儲けになったら芸術じゃないの?」
と聞かれたら、そういうことではなく、
「完全に自分の価値観で完遂した」ものがたまたま売れて大金持ちになったとしても、それは完全に「芸術」だし、それはそれで、真の芸術家達にとっても大きな追い風になるでしょう。お金があれば、よりいっそう芸術に集中する時間が得られますから。ただ、お金が入った時に豹変して堕落する人は「芸術家」ではなかったということがそこで暴かれるというだけのことです。

(3).「芸術」は、達成度ではなく、純粋さのことである。〜「芸術家とはマイペースな困ったちゃんのこと」〜

なんだか「芸術」っていうと、ちょっと高尚で、ちょっとエラそうな表現だと思っている人もいるような気がするんですが、それも違うと思うんです。ここに書いているような「わがまま」とか、「自分の為」という言葉の印象を考えていただければわかるように、考えようによってはそれは、「マイペースで困ったちゃん」ということなんです。それでも僕はそれがいいと思いますが。もちろん芸術にもいろんな達成度はあって、判断するのは困難ながら、かなり完成度の高い人のことを「芸術家」と呼ぶことが世間では多い為に、「芸術」とは素晴らしいものでなくてはならない、と思っている風潮がありますが、僕が思うには、この言葉の定義の中に含めていいのは、「方向性」だけだと思います。「純粋に自分の思う通りの創造をすること」だけが定義であって、「達成度」は、「芸術」という言葉の定義には入らないと思うのです。どちらにしろ、かなり突き詰めて芸術に打ち込んでいるクオリティーの高いであろう芸術家の目を以てしても、他の人の芸術の価値の絶対的な評価を人がするのは、非常に困難な場合もあるぐらい奥深いものですから。


☆22 芸術こそが平和を齎す


「ゴロワーズというタバコを吸ったことがあるかい」(かまやつひろし)
という曲があって、子供の頃、何けなく聴いていた時に、
「ん?この曲ってすご〜く馬鹿っぽく創っていてぶっとんだ歌詞だけど、言ってることは正しいかも知れない」
と子供ながらに思ったものでした。
その歌詞の大半は洋物かぶれミーハー的な歌詞な中に突如として現れるひと節が、
まるで、暴走し続ける西脇順三郎の無秩序なポエトリーの中にふと哲学的主張が顔を出した時みたいなインパクトがあったのです。
「そうさ何かに凝らなくてはダメだ!狂ったように凝れば凝るほど、君はひとりの人間として幸せな道を歩いているだろう!」

 

僕の芸術の定義(☆21)、「自分の、自分による、自分の為の」わがままな行為で、それ自体が目的で、達成度ではなく、純粋さだ、というのが正しいとした場合。ある意味それは、「何に狂ったように凝ること」です。ゴロワーズの時代にはあまりなかった表現で言えば、

『ハマっていること』

ということです。

さて、もし、仮に世界じゅうのひとりひとりの人が何かにハマってしまって、それに打ち込んだとしたらどうでしょうか?
しかも、それは他人の為でなく、基本的に自分の為にやっていて、勿論場合によってはそれが他人をも楽しませることもできてしまうかも知れないけど、基本的に自分の為にやっているので、少なくともそれによって自分は幸せでいられると思います。

逆に全員が人の為にやろうとした場合は、自分以外の人の価値観は必ず違うので、必ずしも他の人が満足するものになるかどうかわからないけど、自分が気に入るような事をする方が圧倒的に確実に少なくとも、本人は気持がいいのです。
それでも、中には、

「どうしても、自分がハマることが見つからない」

という人もいるかもしれません。
でも、僕の芸術の定義の中では、その「達成度」は関係ないし、その芸術を始めてからの時間の経過に比例して充実感は確実に高まってゆくような「高める」タイプのものを芸術として選べばいいんだと思います。
インスタントなこと(☆5)だけを見て、すぐに、
「自分はこれには向いていない」
と判断するようだと、どんなことも「楽しい」と思える段階に到達しないうちにやめてしまったりするし、
場合によってはその繰り返しで、
幾つものことにチャレンジするけどそのたんびに入り口のつまらないところでやめてしまってそういう結論に至ってしまい易いのです。
でも、これからこれにハマる、という事柄を選ぶ時に恐らく一番重要なのは、

「自分はこれが一番好きだ」

という判断基準に過ぎないと思います。
好きであることのエネルギーは、小さな物質でも実は相対性理論では天文学的エネルギーがあるとかいうのよりも更に、物理学では計測不能なぐらいのエネルギーだと思うのです。
あとは、楽しくならなくても、信じてやり続けるだけだと思います。そうすれば、最初ハマっていなくても、ある段階にたどり着いたら、

「ハマって抜け出せない」

というぐらいの境地に達するのは時間の問題です。
「アンタなにをやってもできるわねえ〜」
という人がいたら、単にその人は既にあることを極めていて、ある一線を超えたらかならず達するであろう境地を知っている上で物事に取り組むから、何をやってもそこに到達する方法を知っているというだけのことです。
もちろん時間の限界はありますが。

そして、もし、70億人だったら70億人が本当に何かに「ハマってしまったら」
恐らく、私利私欲を求めた、腐敗、癒着、不正、戦争など、やっている暇はなくなります。
ハマっている人の眼中にそんなものはないのです。
それがもしかしたら皆が切望する

『平和への一番の近道』

じゃないかと思うのです!


☆23 芸術性と商業性の乖離


なるべく自分の思うところの芸術(☆21)に携わって純粋に生きたいと思いながらも、生活の為の作編曲の仕事をする時もあります。
そういう時に、さすがに長くやっていると、どれぐらい世間の求めているものと自分のやりたいものが乖離しているかは薄々わかってはいる中で、でも、自分が行きている意味合いも常に考えていたいというところ、妥協点として、時間のある時はこういうことをやったりします。

 

1. 自分の思うベストな作編曲(一般的には大概「なんじゃこれ〜」系)
2. 中間的作編曲(やややりたい内容もこめて、でもややわかりやすく)
3. 全く自分の好みをいれないわかりやすい作編曲

 

と、何と3つのさじ加減で別のものをわざわざ創って、
「これのどれを使ってもらってもいいですよ〜」
あわよくば、2、、、いやいや、、、できれば、、1、、が採用になっちゃうような世の中を切望しながら、
同じ仕事に3倍ぐらいの時間まで費やして、自分の芸術的欲望の為にする、恐らくは一般的には珍しい行為だと思いますが、
結果的に、今だかつて、「3」意外が選ばれたことがありません。

「3」なんてのは、音楽理論とかやっていれば機械的に、、、いや、、、、そのうちコンピューターでもできてしまうことなので、なんとも不思議な気持になります。
恐らく音楽家としてフルに力を出したものが「1」に当たる訳ですが、
現状だと
「力を発揮すればするほど儲からない」
というのが、芸術家の置かれた状況なのは、気取っているんでもなんでもなく、芸術家同士では常識であり、ちょっと辛い事でもあります。
なんせ無理矢理例えるなら、普段はいかに打たれないような球を投げるかを全身全霊で力を磨いているピッチャーが、仕事によっては、

「打たれるように投げないとならない!!!」

というようなぐらいのことですから。


☆24 アーティストという言葉の変遷


「〇〇さんというアーチストさんがいらっしゃるんですが」
とか、

「アー写(アーティスト写真)の方を提出していただきたいと思います」とか、

 

世の中でなんだか随分とアーチスト(アーティスト)という言葉を随分前からいろんな機会に耳にします。

もちろんパッと聞きの印象はいいイメージの言葉だから、例えば政治家のことを「〇〇先生」とかいうように、

とりあえず、誰にもなるべく失礼のないように敬意を表した言葉として出てきたのかと思いますが、

政治家の「〇〇先生」同様、アーチストって言葉の使い方はなんとも、気持ちの悪いレベルにきていると思います。

こんな世の中で、もしアーチストなんていったら侮辱されてるとも思われかねないような状況ではないでしょうか?

 

アーティストという言葉は、芸術家という意味だし、芸術家(☆21)というのは、いい意味でも悪い意味でも、マイペースで自分の為に創作活動をする方向性です。それが、自分の感性どころか、場合によっては人の為、お金の為に活動している方向性のものにどんどんこの言葉を使っている状態です。

 

しかも、クオリティー的にも(☆12)こないだ始めたお遊戯レベルのものも全てアーチストという言葉をあてがっています。つまりベクトルがアーティスト方向でない上にクオリティーは限りなく低い場合がほとんどなようです。

 

つまり、世間での今の「アーティスト」の定義は、僕が定義したもともとの「芸術家」(☆21)の定義とは逆に、

 

「どうしたら名前が売れて、儲かって、楽に暮らせるか」

 

という気持ちで活動する人の多くを指している状態でしょう。

 

今のテレビなどのメディアのあり方(☆11)が続けば、まだまだそのアーティスト神話(☆16)が続いてゆく危険はあります。

「〇〇ちゃんはお歌が上手だね。お歌が好きなんだね。将来は歌手になりたいの?」

「ううん。なんでもいいから有名になりたいの。」(←なんじゃそりゃ?)みたいな会話が偏在するのです。

 

 

そういう世の中で、ジャズマンなどが仕事の時に、

 

「アー写お願いしま〜す」

とか言われると、妙〜な気持ちになることになったりする人も多いようです。


☆25 芸術の価値基準


ある有名なバイオリニストが、
かなり高いチケットでも満員になるコンサートを成功させたあと、
顔を伏せてストリートでバイオリンを弾いてみたところ、
何時間たっても誰も聴こうとしなかったということがありました。

 

ある有名な画家による絵画の展覧会で絵を観賞するとして、

「それが専門家に認められているからといって無理にそれが素晴らしいものだと信じること」も、
全く知られていない画家の絵を鑑賞して、

「逆にわからないのにそれが稚拙なものだと判断してしまうこと」も、
どちらも何の確実性もない危険な判断でしょう。

有名な画家であっても、ある一人の富豪がパトロンになってお金をかけて宣伝することになったから有名になった人も実際にはいます。
そのパトロンがいなかったらどうだったのか???

 

何かを鑑賞して感想を述べるときに、

常に誰でも言及しても良いことは、「善し悪し」の判断を下すのではなく、「好き嫌い」まででしょう。

 

 

芸術の「善し悪し」は、その分野に本当に精通した人だったら、その芸術の技術的到達度に関しては判断ができると思います。

ただ、単なる技術の域を超えて、本来の芸術の性質である抽象的な部分に関しては、たとえ専門家でも、人間が本当に正確な判断をできるものなのか、
もしくはする必要があるのかは謎につつまれているところがあります。

その昔、松井は、コンテンポラリージャムセッションというジャズのセッションのホストをやっていました。
これは、プロアマ問わずジャズを演奏してみたいいろんなパートのプレイヤーが集まってきて、ホストはその仕切りをしたり伴奏したりするというものです。
さて、音楽ばかりやってきた自分にとっては、そのセッションの参加者がどれぐらいの比率でその都度コードにあった音でアドリブがとれているかというのは手にとるようにわかります。複雑なものでも、一音でも理論的にあっていない音を弾いたらまず瞬時にわかるでしょう。なので、専門的にかなりやっている分野でのある意味機械的な「善し悪し」はありますが、ある時、こういうことがあったのです。
よくセッションに来るあるプレイヤーが、どっちかと言えばフリージャズっぽいソロを毎回取る人でした。なので、僕の機械的評価では、コードに対してあってるかあってないかで言えば、2〜3割ぐらいの音しか合っていない状態で、しかもリズム的にもほとんどズレでいました。ところが、ある時、あることに気づきました。彼はおよそデタラメなようなソロでず〜〜っと長いソロを展開した最後に、なんとその曲の変則的な小節数が終わるタイミングでドンピシャリに終わっていたのです。
恐らくそんな可能性はほとんどないとは思いますが、およそ誰が聴いてもリズムも調性も合ってなさそうな彼の中に、もしかしたら誰もわからない奇跡が起きていて、超異次元的なところで完全にあっている演奏をしているという可能性がゼロではないのかも?と思いました。
それぐらいに、専門の分野の中ですら、本当に深いところで、良し悪しなんてものを判断するのは、人間にはおこがましいことかもしれないのです。


☆26 芸術はヘン


「〇〇さんってヘンタイだよね〜」

「あれってヘンな曲だよね〜」
「〇〇さんってヘンな絵書く人がいるじゃない」

というように、音楽や美術が絡むとやたら「ヘン」という言葉が飛び交う傾向にあります。

しかも、重要なのは、この場合の「ヘン」って、どうも悪意があるどころか、好意すら感じられるニュアンスの場合が多いです。

ということは、「ヘン」(☆)というのは、ポジティヴな概念なんでしょうか?

 

それを考えるには、これらの芸術が何故「ヘン」と言われるに至ったのかを考えるとよいでしょう。

 

例えば、曲で言えば、シンプルな曲は大概、「明るい」とか「暗い」という言葉で簡単に形容できたりします。

特に作曲を始めたばかりだったらそのようなことになる場合が多いですが、本当の意味での芸術家は、もし作曲だったら作曲を長い年月続けた場合は、だいたいの場合は、単に「明るい」とか「暗い」とか言う形容ができてしまうような曲には飽きてきてしまう(☆27)でしょう。

その結果、それを避けて曲の雰囲気を変容させてゆくと、結果的に単純なひとつの形容詞で形容することのできないものになります。

そしてそれらの曲は、必然的にパっと聴いた場合に、「ヘン」だとか「不気味」、もしくは「シュール」という感じがして、

しまいにゃ「ヘンタイ」とか呼ばれてゆくわけです。

そして、芸術は進化するべきだということがわかっている人たちの間では当然の褒め言葉であり、しかも更には、それが多くの場合には

勘違いされて軽蔑されることも含めてわかった上での賞賛だったりすることもあります。

つまり、意外と、芸術の「変態化」というのは、古今東西、自然で必然的な現象だと言えるようなことだと思います。


☆27 飽きることから芸術が生まれる


芸術が、「明るい」とか「暗い」とかいう単純な形容詞で形容しきれてしまう状態に、芸術家が飽きて、もっとヘンなもの(☆26)に向かってゆくという中で、この「飽きる」という概念も、基本的にはネガティブな印象を持たれる表現です。

 

そこで何を言いたいかというのは、僕の主張のパターンの中で一貫していることとして、もう予想がついてしまうかもしれないですが、

なんだかネガティブとポジティブという対極に関しても、あらゆる対極に関しても、真実が引っくりかえってしまっている場合の方が多いのではないかとさえ思ってしまうのが現状です。まあ、地球の南北もポールシフトが何度もあってひっくり返ってきた歴史があるぐらいだから、何ひとつ当てにならないということでしょうか。

 

さて、そうなんです。この「飽きる」という言葉、しかも、かなりネガティブな意味で使われる「飽きっぽい」という言葉は、芸術においては、芸術の試金石だと言っても過言ではないでしょう。極端に飽きっぽい芸術家は、内容をどんどん進化させて高めてゆくことができるからです。もちろん、「何をやってもすぐに飽きてやめてしまう」というような退廃的な「飽きっぽさ」とは違う、なにか一貫したものを追求してゆく中での「飽きっぽさ」だという線引きは必要です。そこが言葉の難しいところですね。


☆28 ヘンとは無駄で素晴らしいこと


意外なことかも知れないけど、意外と芸術が「ヘン」(☆25)だったりすることは必然的なことで、「ヘン」になる理由は「飽きる」(☆26)ことだったりするのです。

 

さて、「飽きる」ことから進化してできた芸術は得てして、商業性という意味では困難な場合が多く、もし市場経済システムの中の資本主義の物質文明至上主義的考えで行けば、「無駄」で難解なものになるのでしょう。その場合の「無駄」とは、「衣食住」のどれにも街頭しないもので、生きてゆくのに具体的に役に立っていないものです。

 

でも、考えてみてください。「無駄」なものである「芸術」や、「文化」のように、他の生物にはない人間特有の行動である、「衣食住」から離れた活動こそ、人間が人間であある証だと思います。そして、他の動物がほぼ行わない、種の保存の為以外の行動である「芸術」とは、人間に特有な、非常に「優雅」なことだと言えると思うのです。

 

物質文明至上主義側の人ほど、人間の他の動物に対する優位性を主張していたり、他の生物を見下したりしていますが、もし仮に人間が優れているところがあるとすれば、奇しくも、生物の歴史の中で初めて「芸術」のような「優雅」なことにいそしむことができるということな筈なのです。


☆29 ヘンでないのは変なこと


さて、芸術に関して、さんざん「ヘン」という言葉が出てきていますが、
実は、人間自体に関しても、「ヘンは普通だ」という持論があります。
そして、「ヘンは素晴らしい」のです!

 

なぜか、というと、、、、、。

 

そもそも、「ヘンだねえ〜」と人が言う時には、
無意識にも、「普通」なことに比べて違うから「ヘンだ」と思っていると思います。
ということは、「普通」という基準を無意識にも設定していて、
それと異なっていると言っていることになるんです。

 

そこで、人間に関して言うなら、
例えば地球上に70億人いるとしたら、
70億通りの異なったDNAを持っていて、
クローン人間でもつくらない限り全く同じ人はひとりもいないことになります。
そこで、もし他の人と同じ性質を持った人がいたら不自然で、無理がありますよね。
ところが、特に日本に一番見られる傾向ですが、
「常識」や「世間体」を優先して没個性化し、
「普通」と言われるべく、
クローン人間でもないのに他の人と同調し、協調性を持って、
模範的な行動をとったりします。

 

そして、それに当てはまらない人を見かけると、
「ヘンだねえ〜」と言うということになります。

 

ということは、「ヘンだ」と言われた人は個性があるということ、
つまり、違うDNAを持った人たちに合わせた不自然な行動をとらずに
「ありのままの自分」でいる人で、
つまりは自然な本来の個性を露にして生きているマトモな人ということになります。

 

逆に、「ヘンだ」と言われない人は、
わざわざ個性を殺して、
無理に人に合わせているということですから、
それこそ「変だ」ということになりますね。

つまり、「ヘンでないのは変なこと」。

 

変な話ですが、、、。


☆30 星新一の平和観と低エントロピー性


子供の頃に読んだことがある星新一のショートショートに、「全ての人が芸術家で、お互いの芸術を鑑賞しあっている世の中」が描かれていたことがありました。その時はなんとなく読んでいただけだったのですが、これが意外と、理想的な世の中を描いていたのかもなあと思います。

衣食住の何れでもない(☆28)「芸術」に全ての人が没頭する。

そんなことが成立する為には、全ての人がある程度の時間の余裕を持って生きている、ある意味「優雅」な状況でないとなりません。ただ、それが、経済的にどんな形で成り立っているにせよ、みなが芸術に没頭できる状況というのは、素晴らしい状況だと思いませんか?

いわゆる、社会主義が理想に掲げている共産主義の理想郷は、全ての人に公平な世の中だと言いますが、まさにこれは理想郷だと思います。ただ、実際は、社会主義でも資本主義でもまず上層部がさんざん国民の上前をはねてからの残りをどう分配するかの違いなので、現状だと社会主義も理想郷を創ろうとしているフリをしているに過ぎないでしょう。現状だと世界中の富のほとんどはほんの一部の人々に貪られていますが、それを全て均等に分配できれば、理想郷が創れる筈なんですが。

(☆10.)に書いたように、ソ連のペレストロイカで独立したトルクメニスタンで、そのドタバタの中うっかり独裁体制を許してしまった国民は、個人的趣味でユニークな法令を連発するニエゾフの独裁政権下でも、天然ガスで潤っていたことから何不自由なく平和に暮らしていたようですが、そんな環境でも、食べていければ芸術に没頭することができるでしょう。

もし、特権階級である上層部を持たない本当の意味での共産主義があって、大統領なども含めてみな同じ生活レベルになったとして、その上で、みなが芸術に没頭するという世の中ができたら、それが理想郷だと思います。一部の人が無駄(本当の意味で)に巨万の富を独占することに意味はありませんから。

そんな世の中があった場合に、芸術に集中することで、戦争もなくなれば、膨大な防衛費をカットすすことができ、同時に低エントロピーにつながることでしょう。

 


   

4. 芸術の試練

 


☆31 ジャズはインディーズがおすすめ


「将来の夢はどんなことなんですか?」

 

昔、飲み屋でライブをやっていた時に、来てくれた友人が連れてきてくれた同僚が、僕にこう聞いた。

 

松井「う〜ん、そうだねえ。自分のCDをあと何枚か出すことかなあ。。。」

 

と、その時の正直な夢をこう答えると、

 

「わ〜小さな夢ですねえ」

 

と言われました。そこでは自分は意味がよくわからなく、それには答えなかったのですが、、、

 

あとで、考えてみると、彼女の意図していた答えは、なんとなく、たとえば、「メジャーデビュー」だとか、「武道館でライブ」とか、そういう類いのことだったのかも知れない。と思いました。

まあ、それもいいんですが、大概のジャズマンにとって嬉しいことではないんです。
逆に、当時、自分でレーベルを持っていない状態で、ジャズのCDを出すというのは大変なことで、そういうアルバムが出せることはとっても嬉しいことだったんです。

 

さて、メジャーデビューという時のメジャーって何でしょうか?音楽業界の動きに興味なく活動しているものでもなんだかよく聞くうちにわかってきたのは、おそらく、メジャーレーベルということではないでしょうか?世の中のCDを出している会社のレーベル(コンセプトを表します)には、どうやら、大企業によるメジャーレーベルと、それ以外のインディーズレーベルに区別されているようです。そして、いわゆる売れ線(商業音楽)のジャンル、ポップスやロックでは、なんとなく、まだ売れないバンドがCDを出す場合にインディーズレーベル、売れたらメジャーレーベルという流れがあるようですが、まあ、「売れる」とか「儲かる」ということが目標だとそういうことになるんでしょう。

 

さて、僕の関わっているジャズの世界だとどうでしょうか?もうそれは全くそこからはかけ離れた価値観でしょう。もちろんジャズでもメジャー志向なミュージシャンもいますが、内容にこだわっている限りは、内容(つまり売れ行きに関わるから)に口を挟まれないインディーズレーベルでCDを出すのが理想だったりするわけです。もちろんメジャーであっても内容も妥協しなくてよい、というシチュエーションがあるなら、それでよいのですが、なかなかそういうことはありません。芸術性と商業性の乖離(☆23)、というか、反比例現象まであるのですから。

その結果、売れ線に向かっているジャンルにおいては、「インディーズ」というと、「道半ば」、場合によっては「こないだ楽器を始めたばっかり」ということもありうる、という印象を持って使われる言葉なのに対して、ジャズにおいての「インディーズ」とは、場合によっては、「その道何十年のそうそうたる熟練者」がこだわって使ったりするイメージの言葉であり、売れ線で言うインディーズはおろか、メジャー(☆20)と比較するのも馬鹿馬鹿しくなるような、人類史上最高しか眼中にないものがザラにある世界なのです。


☆32 初心者と熟練者の逆走現象


大きな会場で、そしてメディアも通して大々的にやっていて、興行として成立している商業音楽には、音楽の内容的に言ってしまうと初心者レベルのもの(☆12)が沢山あります。更にその上に、「クチパク」「アテブリ」「サンプリング」(☆10)なんていう場合まであるわけです。

 

それに対して、ジャズやクラシックのような芸術的ジャンルでは、どうでしょうか?まず、僕自身が直接関わっていないクラシックで見てみましょう。もちろん、ジャズマンからみて、クラシックということで、判断は素人目になってしまいますが、例えばそのへんで小規模にクラシックのコンサートをやっている演奏者の内容の到達度はどうかというと、素人として聴いても充分断言できるのは、ちょっとやそっとの練習ではとても到達できないような境地のことがそこらじゅうに偏在しています。前者の商業音楽のそれとは全く次元が違うものです。

 

そして、ジャズの場合でも、ジャズ自体が世の中にあまり浸透していないせいか、ジャズの演奏の需要があまりないので、ジャズマンの中でも大御所と言われるベテラン達でも、本当に安いギャラで構わず演奏してしまっていて、その相場は、もう「あってない」ようなものになってきているでしょう。

 

ジャズマンもクラシックの演奏家も、基本的に高めないとならない演奏の内容が本当に奥深く、やればやるほど一生研鑽を積み続けないとならない、いや、積み続けたくなるので、演奏における環境や、その採算などを考えることに時間もエネルギーも注ぐ事があまりできません。

 

それとは対照的に、商業音楽へ向かっているメジャー志向のものに携わっている人たちは、どうやったら儲かるかに全力を注いでいるわけで、音楽を高めることに興味もなければ、そんな時間もあまりありません。

 

これらのクオリティーのちょっと注意して見たり聴いたりしていれば、音楽を専門にしている人でなくても、かなり簡単にわかると思うし、どうせ耳にするなら、なるべく質が高い方がいいのは明らかですから、何を聴いたらいいかを考えてから選んで聴いていれば、世の中の風潮は少しずつでも変わってゆく(☆17)と思いますし、そうなければおかしいと思います。音楽を専門にしているほとんどの人が、この風潮を不思議に思っていると思うのです。


☆33 ジャズとはなんぞや


ジャズ、ジャズって言うけど、ジャズって音楽の存在は日本でも有名だし、喫茶店はおろか、しまいにゃチェーン居酒屋なんかでもやたらとジャズは流れてて、まるで人気があるかのように思う時もあります。しかし、流れている理由はおそらく、「BGMとしてあまり気にならないでいられるから」ということのように思われます。
そして、もちろんもともと日本の音楽ではないので、アメリカからジャズが伝わってくるにあたって、それが正しく伝わるのは本当に大変なことだったと思われます。自分が知っている限りでは、ラテン音楽でも、いろんなことが面白いほどにまるっきり違った定義で伝わっていて驚いてしまいます。たとえばルンバといえば現地キューバでは結構激しい速いテンポですが、日本ではゆっくりのものと認識されてたり、、、、、。仏教なんかでも、お釈迦様の素晴らしかった筈の教えがどんどん歪められて、今日本に伝わっている仏教の時点だとかなり解釈が間違っている場合がほとんどで、見事に葬式仏教として、しまいにゃ「儲かるから坊さんになる」という人が出る始末です。

 

さて、ジャズに話をもどしますと、いちおう、現地アメリカで、世界唯一と言われたジャズの大学で吸収してきたものとして思うはっきりとしたジャズ観が自分にはある状態で日本に帰ってくると、やはりジャズをそんなに勉強していない人たちが「やれ、ジャズとはこういうものだ」といろんな自由な定義をつけていることに驚きました。

 

 

「ジャズ」という言葉の定義がどうでも、違う言葉で説明すればいいと思うかも知れないですが、意外と、重要な言葉の定義がすり替えられてしまうと、ジャズの活動をしようとしている人たちは何かと活動しずらくなるし、ジャズ自体が伝わるチャンスを失ってしまって、やはり長い年月の間には仏教のようにビジネスになりさがり兼ねないんです。現に、すでにジャズのAKB化(☆12)も若干始まっています。

 

抽象的な定義は共通見解を得るのには向いていないので、なるべく具体的に、そして、ものすごく単刀直入にシンプルにジャズの定義を言うとしたら、

「テーマとアドリブがある」(☆95)

「テンションを含む」(☆62)

「スゥイングするリズムに乗っている」(☆74)

 

あたりでしょう。それらは大きな特徴でもあり、必要不可欠な部分です。勿論、ジャズが始まった当初からあった要素ではなく、だんだんそうなってきたわけですが、ある時期からは少なくとも欠かせない要素になっていると言えるでしょう。少なくとも、「奴隷の悲嘆の叫び」だとか、「ジャズは自由だ」とかいうよりは圧倒的にわかり易いでしょう。これは、仏教の場合の変化や退化とは明らかに違って、もともとの流れをちゃんと見据えた上で進化してきたものなのです。

 

何の世界でもそうですが、100年も経てば変わってゆかざるを得ないのですが、その「変化」が、ちゃんとした温故知新としての「進化」なのか、源流の意味合いを打ち消してしまっている「退化」なのかを正しく見極めて判別してゆくのはとても重要なことだと思います。


☆34 音楽とスポーツの決定的な違い


「この曲の冒頭は、テンポルバートと言う部分なんだよ」

ピアノバーでピアノを弾いていた頃、ある常連客のジャズ蘊蓄オヤジが、BGMでかかっていたジャズに関して、休憩中の僕に向かってこう言いました。

この人は、明らかに音楽を専門にしてる筈の人間に向かってなんでこう講釈をたれる気持になるのか不思議に思いながらも、

 

「あ、このイントロはルバートになる場合が多い場面ですが、これに関してはルバートじゃなくインテンポですよ!」

 

と言っておきましたが、、、明らかに「ルバート」という言葉の意味を勘違いしているということでした。

 

 

 

 

 

そして、ある時は、地方のジャズクラブで演奏していると、なぜだか、

「おれたちは君が生まれる前からジャズ聴いてるんだ」ということを言う人がいたりしました。

 

 

 

 

ジャズに関しては、
「ジャズ批評」
なんていう雑誌まであるようです。
なんかタイトルからして、「いや〜な感じですね」
若い時分の僕でも、もうその雑誌の名前自体に酷い嫌悪感を持っていました。
内容を読む気にもならないけど、
明らかにジャズを演奏している立場でない未経験者が批評なんかをするなんて、
タイトルの時点でなんて
「おこがましく恥ずかしいこと」
なんだろうと本当に不思議に思いました。

 

 

 

 

 

 

楽器を長くやっている人なら誰でもわかることですが、
音楽を聴くことだけを何十年続けたよりも、
楽器を2年でも3年でもやってみると初めてわかることが沢山あります。
そういう中で、やはり音楽に関しては、完全な素人(☆13)が口出しをしたり、
しまいにゃ評論をしたり、仕事を斡旋したりすることは、おかしななこと(☆20)に繋がってしまうと思います。

 

 

 

 

 

これが、スポーツの場合だったら全く話しは違います!
そもそも基本的に数字で結果が出るスポーツに関しては優劣ははっきりしているし、
その上で、評論家達というのは、『そのスポーツにおいて過去にもっとも優れていた経験者達』なので、
当然専門的知識と経験の宝庫であり、大概の場合は現役の選手が本心から尊敬してやまない人たちであり、
評価はとんでもなく外れるということはないでしょう。
そういう意味ではスポーツの方が真実が見え易いという意味では厳しくもありますが、努力がちゃんと報われる世界で、非常にうらやましいです。

 

 

 

音楽とスポーツの決定的な違いは、
スポーツは、専門家が評論できる立場にあるのもあるし、数字で出るものが多いので評価し易く、
「98点が95点に」
という程度の不公平はあれど、ほとんど実力が評価にちゃんと反映されるのです。
しかし音楽では、
「10000点が3点に」「3点が10000点に」
など、素人と達人がひっくり返っている評価がそこらじゅうにあるのです。

「一回転も飛べないフィギュアスケートの選手がオリンピックを制覇して、
羽生くんのように4回転を何度も跳べる人はオリンピックどころか、知られることはない」
というような、スポーツではあり得ない状況がそこらじゅうにあるんです。
そう、「ミソがクソに、クソがミソに現象」(☆20)が、音楽界には偏在しちゃっているんです。
ああ、スポーツはいいなあ〜。


☆35 ジャズとクラシックの垣根


ジャズは軟派な感じがする音楽かもしれないですが、いや、これがなかなかどうして軟派とはほど遠いもので、直接関わってみると、その壮大で奇跡的で緻密な理論的構造が、クラシックの和声を元に複雑化したもので、しかも、そのあらゆる機能調性に対して整合性のとれたアドリブラインやヴォイシングを即興的にできるようになっているというあまりの素晴らしさに最初は唖然としたぐらいでした。しかも、よくできてはいるものの、勿論それを楽器でコントロールするのを実現するには何十年もの研鑽が必要になることは明らかでした。実際には一生やり続けるしかないことがわかってくるのですが。

 

 

ただ、世の中には、いい意味で欲張りな人も沢山いて、そのジャズの要素と、歴史あるクラシックのよい部分を全て取り入れブレンドすることはできないか、ということにチャレンジしていたりもします。僕自身も、その一人です。特に、僕の活動の中で、マルチカラーの歌ものデュオ「かれいどすけーぷ」では、ジャズから来た自分と、クラシックからきたボーカル前田祐希の、真逆の方向からの価値観を真っ向からぶつけあって、幾多の激論バトルを乗り越えながら、今までにあり得なかったサウンドを醸し出してゆこうとしています。

 

 

ところが、ある意味、この2つのジャンルというのは、やればやる程、相反する部分があって、「よかれ」と思ってやることのだいたいが裏目に出ます。よくよく考えてみると、「グルーヴ」が必要となるジャズでは、比較的打点を出す必要があったりするし、アドリヴが重要な要素なことから、直前に思いついた音を紡いでゆくわけですが、それらを実現すると、クラシック的に必要な「響き」や「音色」が台無しになったりするようなのです。そして、クラシック的に重要な「音色」や「響き」にだけ集中すると、ジャズで非常に大事な「音の順番や配列」が単純になってしまったりして「ドレミファソラシド〜」になってしまったりすると、ジャズ色はなくなってしまいます。

 

僕がオリジナル曲だけで展開しているCPJの世界では、少なくとも、クラシックから学べるところの「書き譜」に関しては、ジャズの曲のテーマ部分として、往年のジャズのようないい加減な精度でなく、しかもクラシック並みの長さまでとことん導入するという形(☆86)ではかなり実現しているのですが、「かれいどすけーぷ」において、ニュアンスまでを実現するのは、まさにノルディック複合のように、「クロスカントリーやるには筋肉が必要で、ジャンプでは筋肉をつけると重くて不利」、というような難しさがある中で、常になんとかベストなブレンドを目指しています。


☆36 ジャズマンとハコの特異な共生


スタジオミュージシャンとジャズマンを両方やったり、あるいは、スタジオやめてジャズにという人もいますが、そうすると、いろんな意味でその差は歴然としています。ギャラという面ではかなりざっくりいうとジャズのライブはスタジオの10分の1ぐらいと言っていいかもしれないです。ジャズの興行でももちろんスタジオぐらいのギャラのものもあるけど、ほんとにやりたい放題というものは、どんな大御所がやっても、まともなギャラになってないことも多いのです。

 

ということは、ジャズのライブをやるというのには、当然理由があるということです。ギャラが10分1でもいいということです。なんて美しいことでしょう。

 

ただ、その昔、とあるジャズクラブで、とんでもなくやりたい放題のライブをやっていて、ほとんどお客さんがガラガラなところを、うちの親が見に来てくれたのですが、その時に、あれでレンタル料を払って、大赤字でやっていけるのか心配になったことを、友達にもらしていたらしいのを、後から知って唖然としました。こういう活動をやっている親でも、そういえば、説明しないとわからないことですよね。

 

実は、ジャズマンは基本的にプロといってもギャラはめちゃめちゃ安いことが多い代わりに、お金を払う、という習慣はありません。僕も30年以上やってきて一度もどこかの場所代を払ってライブをしたことはありません。なので、ジャズマン達にそういう心配している方がいたら安心してください。ジャズクラブというのは、基本的にジャズをやっているという時点で、相当覚悟ができているジャズマニアで、いいジャズが聴ければよい、という主義の人がやっているものなんです。だからと言って、そんなにお客さんも入らないジャズを高額をギャラを払い続けてお店をやるには、とんでもない億万長者でもないと無理なので、だいたいの場合はお互いにあまり大きなリスクを負わない形でやっていて、ジャズマンも最初はデモとかを出したり、オーディションを受けたりして、そのハコで演奏するために必要な演奏クオリティーがあって初めて出演できて、出演をして欲しいプレイヤーが出るためにお店側は宣伝もしたりギャラの最低保証をしたりしてどうにか切り盛りしています。ジャズマンにとってノーリスクローリターン、ハコにとってローリスクローリターンの共生関係です。

 

ところが、やっぱりこんな歴史は世の中で知られていないのか、ジャズと言えど、最近できたライブハウス、ジャズクラブでは、もっとビジネスライクになっているところがどんどん増えています。どちらかというと、音楽の内容には興味があまりなく、ジャズマンの人気でお客さんが沢山入ればお店が儲かる、という図式になっているタイプです。そして、だんだんそうなってくると起こる問題としては、単にお客さんが入る、ということを優先し始めると、ジャズよりも解り易いものに「ジャズ」の名前(☆33)をつけて「スムースジャズ」だとかなんだとかいう形でやったり、しまいにゃそういうプライドもなく、そもそもジャズと関係ないとてもわかり易いものをブッキングしたりし始めることになるわけです。こういう経済至上主義の資本主義の世界に陥ると、ジャズの興行としての競争力は脆弱です。ここでもあっという間に行き場を失い、絶滅危惧種としての歩みを確固たるものにしてゆくことになるのです。。。

 

ある時、たまたまTVで、

「古澤さんは、昔はライブハウスとかでやられてたんですか?」

SMAPの中井くんが、ジャズドラムの大御所であった古澤良治郎さんにこう質問していた。
「今でもやってるんだよ!」
古澤さんはこう答えた。そして、更に、
「バンドが5人で、客が3人とか、バンドの方が多いこともあるんだよ!」

8万人の前でライブをしている中井くんは、固まって反応が止まってしまったが、中井くんが、この意味を理解できる時が訪れるのだろうか?


☆37 高めようジャズ自給率


あらゆる地方都市で、もともとあった旧市街の個性豊かな個人店の連なる商店街が、シャッター通りになり、ちょっと離れたバイパス沿いに巨大なショッピングモールがあるという構図が、近年どんどん進んでいる。そのショッピングモールに入っているチェーン店を眺めると、まさにそれがどこの都市であるかわからないぐらいにどこでも同じだ。

そして、高速道路のサービスエリアでも、巨大でメジャーなサービスエリアでは、値段の高めなレストランが、下手すると、チーンしたような食事を出すのに対して、小さめなサービスエリアに行けば、地元のおばさんたちがガチで料理して、安く美味しいものを出しているので、よく利用していたら、最近はそういうところまでコンビニが進出してきて、個性をどんどん失っている。

そして、手間をかけて作った無農薬野菜などの自然素材も、値段も量も、とても遺伝子組み換え食品や農薬を使いまくった野菜には到底勝てないから、あらゆるところで、遺伝子組み換えにシェアを握られてしまっている。

また、音楽の中でもかなり絶滅危惧種なジャズは、それでなくても、音楽全体でも今やCDなどが売れない中で、「握手券ビジネス」をはじめとする、もはや音楽に関係のない性質のものにシェアを独占されて、更に絶滅への一途をたどっている。

しかも、ライブと言えば、いわゆる外タレの来る一部の馬鹿高いお店での昔から知っている大御所のライブに時間とお金を投じる人が、国産のジャズがそれより大分安くてもなかなか聴こうとしないことで、自国産の芸術は廃れる一方だ。外人の顔してればよく思えたり、愛想だパフォーマンスだオーラだと言うのは、順境に置かれていることや元々の性格の違いで生まれているに過ぎなく、加工貿易の国ジャパンはとっくに技術で追い越してる側面がある。舶来コンプレックスやミーハーが間接的に自分の首を締め続ける。外タレで内タレがヘタレる現象だ。

まあ、業種を問わず、丁寧で正直に、真摯に仕事しているものに限って、絶滅危惧種になる傾向があるということ。意外とクオリティを落とせば生き残れたりする訳だけど、それは誠実な人間には難しい。

まあ、あらゆる産業の中で、意外と珍しいバランスで大手の独占に苛まれずに、個性豊かな小規模メーカーが乱立し続けてなお、クオリティーを保ってる(一部のなんちゃらスパークリングなどは置いておいても)のは、日本酒かも知れない。

ジャズはどうにか日本酒のようにありたいものだ。そして、食料自給率と共に、ジャズ自給率を上げましょう!実は、野球がそろそろベースボールを凌駕することがあるように、もはやジャズも国産が舶来モノを凌駕する場合も結構あるんです。ただ、数値で出ないだけで、、、。


☆38 進化の過程にサナギ状態の試練


僕を含めて、新しいもの好きなジャズマン達は、常に新しいことができないか試行錯誤して、常に刺激的なものを演奏(☆21)していないといられない、という性分なんですが、この姿勢を持続するには、それはそれで大変な試練との闘いがあります。

 

勿論、進化させること自体にも努力が常に必要ですが、それ自体は完全に自業自得な努力であり、同時に喜びでもあるのですが、

その努力の結果、それが素晴らしい進化に繋がったとしても、それを数字ではじき出せる(☆25)わけでもなく、大概は聴衆からすればよくわからないものになり、更には、正直なところ、聴衆からすれば、ありがた迷惑な進化だと感じとられている場合が多いのです。

 

極論を言えば、演奏者と聴衆が真逆のものを求めている(☆23)、という場合が少なくないのです。

 

だからと言って、ジャズの場合だと、クラシック程の歴史がない為、上から押し付けるように、「これは正しい芸術的進化を遂げた素晴らしいものなんだから聴く価値があるものなんだ」という訳にもなかなかいかず、だいたいの演奏家はやはり、中途半端にサービス業化している絶滅危惧的ジャズシーンにおいて、更なるシーンの閑古鳥化を避けないと死活問題となる為、「生き物」である芸術の進化を止めて、逆行させたりする事が多いでしょう。

これは芸術にとって健康な状態ではないでしょう。

 

そして更なる試練があります。そんな状況でも、僕のように進化に妥協ができないものとしては、変な話、あまりバレないように新たな「進化」を模索し続けるのですが、「興行」としてやっている演奏においては、お客さんからお金を頂いて演奏しているだけに、当然、微塵の不安感もない演奏を、明らかな精神的余裕と、時には営業スマイルと共に敢行して、お客さんに楽しさを提供しないとなりません。当然そのような準備をするのですが、「進化の過程」という、サナギ段階にある内容がどうしても含まれてしまっていて、それを乗り越えてない要素がある時には、どうしても、若干の未完成感と不安感を取り除くことができなかったりしてしまう場合があります。たまたまそういう瞬間に居合わせてその「気」を感じてしまったお客さんは、もうそのライブを見たくなくなったりするということもあるでしょう。

プレイヤーに厳しく言えば、そのライブの時期に対しての調整が完璧でなかったということになりますが、本当は、一度そのサナギ状態を見てしまったとしても、是非その先にある桃源郷をまたみて(聴いて)やって欲しいものです。一旦サナギになるのは、よりよい結果の為なのですから。


☆39 ジャズマンだって4回転飛びたい!


「ミソがクソでクソがミソに」(☆20)や、「芸術性と商業性の乖離」(☆23)や、「初心者と熟練者の逆走現象」(☆32)のような話題があったことから容易に推測できることですが、音楽において、その「クオリティーと収入の反比例」というのは、日常茶飯事です。

 

アメリカのバークリー音大に留学していた頃、サックス奏者としてバリバリのジャズを演奏していた先生が、

「こないだ、ニューヨークで売れ線のレコーディングをしてきたんだけど、あいつら、2秒ほどの誰でも吹けるようなしょうもないフレーズに、2000ドルも払うんだ、アホらしくなってきたよ」と漏らしたことがありました。なにしろ、彼がジャズのギグをやって、フルに実力を発揮して2時間ぐらい最高のクオリティーの演奏したところで、100ドルも稼ぐのが大変な状況がボストンにあったのは、まだ外部で演奏する経験もなかった僕でもなんとなくわかっていたので、不思議なことだと思いました。

しかし、帰国してきてから、いろんなことを経験してだんだん確信につながる同様の事が連続してゆきました。
最近では、よく、一般的な問題として、正規雇用と非正規雇用において、同じ仕事内容に対しての対価が違うということがとりあえげられたりします。そして、同じ労働内容に対しての対価を統一しろと言う主張が野党の政治家から繰り広げられたりしています。それは素晴らしいことだと思います。が、恐らくその場合の「同じ労働」に対しての対価の格差はどんなに酷くても2:1ぐらいのものじゃないかと思います。
そこにきて、音楽の場合のその格差は数字で割り出すと100:1とか、ひどい場合は10000:1ぐらいになることになるのです!ある意味、そのミュージシャンのキャパシティーをフルに発揮した場合の収入と比べて、かなりの手抜きをした場合に得られる収入は天文学的になったりするのです。
僕の知り合いの優れたジャズミュージシャンがある時、僕と一緒にやっているジャズの仕事とは桁違いに収入が入るであろう売れ線の仕事の時のことをこう叙述しました。
「寝てます」
彼は寝ていても演奏できる内容をやることで生計は充分に立てているのに、わざわざ、真剣にならないと演奏できないジャズをやり、そこでは儲かってんだか儲かってないんだかという状況を受け入れているのです。
でも、本当はジャズマンだってなんだって、フィギュアスケーターのように4回転飛べれば4回転飛びたい!という中で、わざわざ1回転を飛んでいる人が多いでしょう。2回転以上になると、「今、何やったの?」と、ありがたがられないのですから。

そういう世の中で、敢えて5回転を飛び続ける為の環境を模索しているのが、僕のやっているCPJという音楽です。


☆40 ジャズもクラシックも過去の音楽ではない!


クラシックから派生した現代音楽の作曲家がある時こぼしていたのは、

「本来は作曲家なんだから、最新の曲をコンサートでやりたいけど、それだとどうしてもなかなかお客さんが集まらないから、古典的名曲をかなり入れるんだ。そうすると、それに飛びつくように、その曲が聴きたい(☆1)という人が喜んできてくれる。」

 

即興演奏を重んじるジャズでは、あまり作曲を中心に考える傾向がなく、これと同様の悩みがある人は少なめなのかも知れないですが、僕の場合は、まさにこれと同じ気持で、プレイヤーというよりも作曲家な意識があり、自分の曲を演奏したいと思って生きていますが、やはり、何十年やっていても、昔のあの曲が聴きたい、という声は絶えません。自分の曲だけやって興行として成立させるのは本当に難しい状態です。

 

あと、「昔の名曲」にはそれぞれの人にとっての強烈な「ナツメロ効果」(☆3)が作動していて、「それを超えるものはない」という気持になってしまっている場合も結構あります。昔の曲の方が素晴らしいんだから、あんなオリジナルばかりやらないで、昔の曲をやればいいのに、という人もいます。

 

「クラシック」に関しては、「過去」を彷彿とさせるそのジャンル名自体にも問題があると思います。ただ、クラシックもジャズも、演奏する側の人間にとっては、「現在進行形」の生き物であり、作曲という活動もその生き物の当然の行動形態であり、新しい曲が生まれ続けて正常な状態な筈なんです。それなのに、それが認知されずに、ジャズやクラシックの作曲家達は基本的にどこに行っても煙たがられ、需要のない絶滅危惧種となっているのです。

 

もちろん、12半音しかない中での可能性は限られていて、その秩序をクオータートーンなんかに飛び出したりのハッタリで崩したところで、12半音までに存在する圧倒的持続的秩序の限りない可能性からするとほとんど発展性がみつけられていないし、つまり世の中全体で音楽の「出尽くし感」があるのは事実ですが、現代においてわざわざ作曲活動をしているものたちはおそらく、少なくとも過去の名作なんかは簡単に凌駕しているものを創っているからこそそれらを発表しようとしている筈だ、ということに気がつかずにいるのは勿体ない事だと思います。


 

 5. ジャズ習得への鍵

 


☆41 理論が先か感覚が先か


生徒「あれ、先生、ここって何小節あるんでしたっけ?」

松井「えっ?え〜と、、、、う〜んとどれどれ〜11小節だね」

 

生徒「先生、ここの小節は何のスケールを弾けばいいんですか?」

松井「あ、、、、え〜と、、、そこはね〜 あ、意外とそこのルートから見るとロクリアンもオルタードも行けるけど、コンディミが一番特徴は出るね」

 

松井「あれ、、、、、そこの音列はちょっと違和感あるね〜」

生徒「あれ、ここってリディアンドミナントじゃなかったでしたっけ?」

松井「そうなんだけど、理論的に正しければ全てOKという訳でもなく、あってるスケールの中でも、違和感のある音の順番ってのは幾らでもあるんだよ〜」

 

というような会話がレッスン中にあったりします。しかも、松井自身の作曲した曲をやってる時にある会話としては、随分と自分の曲を知らないことになります。

 

ジャズ理論は奇跡的によくできていて、理解するとかなりすっきりするし、それ自体が楽しいので、楽器のレッスンでなく、理論のレッスンを受ける人もいるし、自分はとことんまでジャズ理論を突き詰めてはおきたいけど、実際に作曲する瞬間には、全く理論なんてものは考えないのです。

 

それなので、例えば、生徒に課題として出すようなコード進行の分析すらしないので、生徒に聞かれて初めて分析するし、小節数なんかも数えた事はないです。聞かれて初めてへ〜こうなってたんだ、ということがほとんどです。しかも、それがどんな理論にも当てはまらない事があったとしたら、それは落胆の対象ではなく、素晴らしい進化を遂げた瞬間でしょう。勿論、耳に心地よい音を選んでの結果だという前提でですが、、、、、。なぜなら、、、、、

 

「ジャズ理論」は、あらゆる「過去」に気持ちのよかった音を分析して、何度でも確実にその味わいを出せるためにあるだけだからです。

 

そして、

 

「理論にあっている音だったら何をやってもいい」とか、

 

「気持ちいい音を見つけたのに理論にあってなかったからダメだ〜」

 

というのは、大きな勘違いです。

 

最終的には全く理論なんて考えないで済む方がいいですが、じゃあなんで理論をやったりするかというと。勿論、耳だけで全ての音に瞬間的に反応して演奏できたりすれば理論は全く必要ないですが、ある程度以上複雑なコード進行だと、瞬時に耳で反応するのにはどんな人でも限界があるからなんです。


☆42 一合目からか五合目からか


まつい「練習、どうだった〜?」

生徒1「先生〜なんか家で独りでやってると、なんかつまらなくて、、、、、」

まつい「なるほど〜」

 

まつい「あ、理論の質問とかある?」

生徒2「先生〜おれ、なんかわらないんで聞きたいと思ったんすけど、聞こうとしても、どこがわかってないのかわかんなくて、、、」

まつい「なるほど〜そうだよね」

 

ジャズに限ったことじゃないと思うけど、物事を習得するのにあたって、その入り口のところに立ちはだかる壁があります。そこが正念場で、ここを超えれば、突然楽しい桃源郷が拡がっているのに、それを見ずして挫折してしまう人がほとんどと言っても過言ではないでしょう。

 

一合目から地道に登るのは、ほとんどの人がしんどいようです。

自分の場合はたまたま、みながつまらない〜と言う、voicingの単調な練習も、ひとつコードならしちゃあ「じわ〜んと感じとって、い〜い音だなあ〜」と、それだけで楽しめたので、基礎練習がはかどったので、応用に入る時にはかなりの安心感を持っていました。だから、

 

「一号目から(基礎から)やって、登ってゆく」というのが一番効率がいい!

 

というのはわかりきってはいるのですが、ジャズを教えることを長年やっていると、9割8分ぐらいの人がストイックな練習には耐えられないようなんです。

 

そこで、僕は教える仕事を始めた当初から、富士山の五号目から歩くような感覚で、どの楽器の場合でもある程度全容が俯瞰できるような、ちょっとかっこ良くて楽しめることからやりたい人には平気で基礎を端折って教えてきました。一合目からやる人の方が圧倒的に少ないです。

 

ドラムの生徒の例で言えば、かっこよい複雑なフレーズやなんかを何年もとことんやって、つまらないルーディメンツ(基礎)はあまりやらなくても進めてゆくのです。すると、意外と両手両足をバラバラに動かす独立に関してはほとんどだあれでもしつこくやるとできるので、だいたいの場合、譜面づらはかなりのことまで5年もすれば驚くほどできてきます。


☆43 時間の制約とモチベーションの関係


「あ〜一日8時間とか練習したい〜〜〜」
とある時、勤め人で時間がほんとにない生徒がつぶやいたので、僕は思わず、
「おういえい!すげ〜えモチベーション!」
と褒めました。
よく、
「時間がなくて練習できませんでした」
という人より、
「時間ですか〜作ります」
というタイプの人の方が、実は時間はないのに、逆に練習は結構するという傾向があるなあ、と思うことがあります。

そして、更に言えることとしては、時間の制約とモチベーションの関係はある意味反比例が普通なんじゃないかということです。つまり、

「時間があればある程練習しないけど、時間がなければない程頑張って練習する」

という傾向です。勿論例外も沢山あるけど、これがあてはまるケースは非常に多いです。

 

僕はもともと先生としては、無意識に脱力系で、「ゼロ発信」方式をとっています。

最初から生徒のモチベーションに期待することは全くなく、しかも、基礎練がしんどければ、五合目から始める(☆42)方式をとったりします。そして、本人がめちゃめちゃモチベーションある場合は逆にビシバシ行きます。ビシバシを求めていない人にビシバシスパルタをやっても、講師はヘトヘトになるわ、生徒はウザがるわで大変です。

 

それでも、教える仕事大分やってからでも、なかなか難解な例がありました。

ある時、非常に時間に恵まれていて、しかも素質があってちょっとやるとどんどん伸びる生徒がいました。

自分の感覚だと、「こんなチャンスはない!」「これでビシバシ練習なんかしちゃうとすっごいことになる!」みたいな気持ちになるのが当然なのですが、何度本人に練習を 奨めても、練習は一切しないでやってくるのです。本人曰く、

 

「時間はあるんですけどね〜」

 

「え〜〜〜〜っっっ???もったいない〜〜〜。一体なんでしないのかねえ???」

 

その後も、ある程度そういうモチベーションが低い人に出会ってきて、結局、

 

「人それぞれ、いろんなモチベーションの度合いがあり得るのだ」

 

と自分に言い聞かせるようにしています。できる限りはモチベーションが上げられる可能性は提示するようにした上で、

それでも変わらない人に関しては、そう理解するしかないかなあ、と思っています。ただ、時間が全くなくて、本当に鬼のように練習したいのにできない人がいることを考えると複雑な気持ちになりますね。


☆44 カラオケとジャムセッション


「先生、こないだジャムセッションに行ったんですけど、さんざんでした〜」

「え?なんで〜?」

「なんだかハシっちゃったみたいでわかんなくなっちゃって、ぼろぼろで、ドラムの人に怒られました」

「そうなんだ〜でも、ジャムセッションだよね。それは、実際にどっちがハシったのかわからないよ。まあ、とにかく、家で練習してると退屈になっちゃうのかも知れないけど、基本的には、少なくとも今の時点では、ジャムセッションはあんまりオススメじゃないねえ」

 

ジャズスクールで教えていると、初心者に限ってジャムセッションに行きたがる人が多いです。ただ、ジャムセッションという場所は、基本的に「誰がきてもよい」という環境のことで、いろいろなレベルの人が混在することになるので、演奏上のいろんなことをちゃんとできる人が揃っているとも限らず、本人にとって練習になるような環境かどうかはカケになってきます。一定のタイムを刻めるドラマーがいなければ、練習になるどころか、ヘンなタイム感がつきかねないし、コードに関しても、ちゃんとサウンドするかしないかは、みながある程度ちゃんとしたコードを弾いているかどうか次第になってきます。もちろん例外もあって、たまたまめちゃめちゃレベルの高いジャムセッションもあるでしょう。逆に、そういうところで「けちょんけちょんに理不尽な言われた〜」という初心者がいた場合に、現場を見ていないので、「そりゃあひどいね〜」とも言えないです。つまりジャムセッションは不確定要素があり過ぎるのです。

 

歌に関してで言うと、これが、カラオケの部分に相当するかと思います。逆に、カラオケの場合は性格無比な機械が相手ですが、あんまり熟知していない曲なんかを、出てくる文字を読みながらナゾる、という状態では、歌に対するその瞬間瞬間の準備ちゃんとできるわけがありません。おまけにお酒を飲んだり、大勢で行くと適当に周りの人に拍手をしたり、それでも、次の曲を探すのにも夢中になったり、これは、歌を高めようとして生きている人のやることではありません。歌や喉なんてどうでもいい、と思ってる人の発散の場でしかないでしょう。本当はカラオケボックス自体が公害だと思っていますが、、、、、。

 

カラオケにしろ、ジャムセッションにしろ、もちろん例外はありますが、そんな未熟な雑音を中途半端に入れるなら、完成度の高いライブを聴いた方がよっぽどレベルアップになるのですが、「自分がすぐにでもやりたい」という心が上達の邪魔になることこの上ないです。

 

そしてそれ以上に言えるのは、まだそのレベルに達していない人が立派なチャージまでとってライブをやってしまうこと、これもこの混沌とした世の中を更にカオス化していて頭の痛いところです。幸いうちのスクールの生徒達はだんだん、その逆で、どんなにうまくなってもなかなかライブをやらない仙人タイプが増えてきていますが、音楽の本当の深め方がわかると、練習自体が楽しくてやめられないでしょう。僕も、昔は練習とリハばかりやっていて、プレイヤー達に「ラ、ライブはやらないの?」と言われてやっと始めたもんでしたが。

 

最後に、初対面のプレイヤー達で演奏する「ジャムセッション」、というものは、ジャズを極めた達人達が集まってやるべきものなのでないかと思います。


☆45 盲目的謙虚の落とし穴


先生「いや、今回よくできたねえ〜」

生徒「ええっ?とんでもない。最悪でした!」

 

ジャズスクールをやっていると意外とこんな会話があります。

 

分野を問わず、先生が「よかった」と判断している前で「よくなかった」という別の判断を下すなら、先生の判断能力をあてにしていないということ。つまり習う必要はない、ということになるんです。

 

なんでこんなことになるかと言うと、「謙虚の美学」が原因なのかと思います。自分が思い上がってしまって判断能力を喪失してはいけない、ということで、自分に厳しくすることに徹してしまっている結果、「盲目的謙虚」になっているということ。

 

もうひとつは日本人の特性のひとつで、褒められるのが恥ずかしいという人がかなりいること。海外でなら、「よかったねえ〜」と言われた人のほとんどが、とりあえずは素直に「ありがとう!」と言うでしょう。

 

上達してゆく為に、悪い点だけを見るのではなく、「良かったこと」は「良かった」と認識して、はっきりさせて分類することで、問題点を浮き彫りにして正しい改善点を修正してゆくことが重要です。先生は、それを正しく判断する為にいるものだと思います。

しかも、悪い点だけを見つめ続けるのは、精神的にもネガティブな状態が続くので、せっかく「良くなったこと」や「良かったこと」があったら、それをまめに喜んでポジティブな気持ちになることも上達へのエネルギーの中で大きな部分を占めると思います。


☆46 熟練者の適切な謙虚さは分野を越えて


ジャズは価値がわかりにくい分野だからなのか、

ジャズのお店のマスターや、ジャズ評論家など、ジャズに関わる人々が、いろんな演奏者の勝手な評価をしたりランク付けしたりしてしまうことがあります。
例えばジャズクラブのマスターが、

 

「○○○○ってやつはまだまだだ。」

「うちの店なんて○○○○とか、○○○○とかも来てるんだ」

「○○○○はおれが育てたようなもんなんだ」

などと言うことも結構あります。

そういう場合のほとんどは、無意識的にも判断がかなり知名度に左右されてしまっていたりして、評価はとてつもなく的外れで、見事なぐらい間違ったことの羅列になっています。
また、ジャズ評論家の評価(☆34)のほとんどもそうでしょう。それを断定的な口調で周りの人々に吹聴してゆくのでしょう。
しかも、「24時間音楽のことに集中して命がけでやってきているジャズマン達」の前でも平気で言ってしまう傾向もあります。
そうなってくると、その人は一度でも何か一つの分野で極めた経験がないのだろう、ということが推測できてしまうのです。

 

そもそも、ジャズなどの難解な芸術に接する仕事というのは、「知名度」などの浅はかな判断基準に翻弄されて失速を続ける文化に、どうにか追い風を吹かせるべき側です。

そしてそれは表向きには当たり前に認知されている筈なんですが、この脆弱な価値観は、有名性の強烈な印象の前には、何度思い起こされても、一瞬で忘れ去られてしまうのです。

独自の判断能力を磨くべきなのですが、基本的にそれは100%無理なぐらい難しいことなんです。

世界のジャズマンを経済的にも精神的にも強力にバックアップしていたパトロンのパノニカさんのように、
「金は出すが、口は出さない」
というのが、理想的かつ唯一の可能性なんでしょう。
音楽や美術の場合、それに何十年も携わって仕事しているような人たちが、その年数だけでその専門家になったと思いこんで、断定的な口調で評価してしまう傾向にあります。

ただ実際に
「演る(創る)」人、
と「鑑賞する」人、
の理解度の間には天文学的隔たりがある!

のというのは、「演る」側の人ならほとんどわかっていることですが、立場上なかなか言えないケースが多いのでしょう。専門家ぶって薀蓄を語ることは滑稽でしかないのですが。
それが一番危険な落とし穴であり、そこからとんでもない誤解が生まれ、伝わるべき芸術が伝わらずに消えてゆくことを繰り返しているでしょう。それを何とか打開したいと思っているのですが、、、、、。
こういうようないろいろな経験から、芸術以外も含めた他の分野の専門家でも、とことん極めている人に会うと、初対面でも、
「この人はおそらくその分野でとことん掘り下げているんだろうなあ」ということが、
その人の他人に対する接し方の温度感から推測できてしまうのです。
ひとつの分野で極めている人は、自信もあり、安易に専門外のことに意見することはないでしょう。それがどれだけ稚拙なことだかわかっていますから!


☆47 教えることから学ぶこと


ジャズマン、というのはある意味特殊な生き物なのでしょう。

演奏内容にこだわればこだわるほど、演奏では食べてゆくのが大変になるので、教える、という仕事を並行する人が多い。更に、演奏したい内容を絞れば絞るほど、経済的には教える仕事の割合がどんどん増えてきたりする。

そうすると、一般的には、この人は

「教えるのが好きなんだろう」とか、

「先生なんだろう」とか、

「演奏は引退した」とか、いう風に解釈してしまう人が結構いるのですが、

わかりにくいことにそうでもなく、それどころか、たくさん教えている人に限って演奏を中心に考えていたりします。
なぜなら、
こだわりを持って演奏しているジャズマンにとって耐えられる内容の演奏の仕事は限られているからです。

「最初から教えるのが好きなジャズマンはほとんどいない」ということも言えるでしょう。

さて、僕の場合は、教える仕事をし始めてからもう四半世紀は経ちますが、

最初は僕も特に教える仕事自体に興味があったわけでもなく、

教えるのに向いていたということもなく、

背に腹は代えられず脇目も振らず始めたわけですが、

奥深いジャズの理論や、ピアノ、ギター、ベース、ドラムの技術を教え続ける中で、多くの発見をしてきました。

しかも、その多くは上級者のレッスンよりも、初級者のレッスンで起こるのです。

たとえば、

「先生、このケースでは、このヴォイシング(コードの音列)でいいでしょうか?」

と、ギターやピアノの生徒でそれぞれ、よくあるシチュエーションを凌ぐためのヴォイシングを思いついて、

「わ〜それ、いいかも!?そんなの考えたこともなかったよ!」

と言いながら、その後、そこを教える場合にはいつも使うようになったり、、、、、。

最近よく思うのは、ベースやドラムの生徒が、どうもノリが出ないなあ〜と言う時、

一生懸命耳を澄まして、目を凝らして、演奏をチェックすると、

有りえないようなフォームで演奏していたりするのです。

そういうことがあると、生まれて初めて、こういう場合にはフォームの細部はどうあるべきなのか、

全く考えたことがなかった概念に関して掘り下げ始めるきっかけになるわけです。

そんなこんなで、奇しくも、選択の余地なく始めた教える仕事は、

単に演奏しているだけでは得られない

「気付き」

の宝石箱で、ここから学ぶことの多さには日々感謝しています。


☆48 不文律の境地


「あ、え〜とね。そこは、う〜んと、なんというか、この流れの中でそう弾いちゃうと違和感が出るんだけど、これ、理論的にはちょっと、厚ぼったいbook CPJでも全然書いてないことだし、ひとことふたことでは説明つかないんだけどね。なんというか、不文律というしかないかなあ。。。」

と、生徒がした演奏に関して、まるで怪しいいい加減っぽい説明をするしかないときが意外と結構ある。

僕は周りからはかなり理論派と思われてるが、実際そうではないけど、ひとつ言えるのは、かなりのところまで理論的根拠を以って、調性感とそれにまつわるラインのことは必要とあらばとことん説明する方だけど、理論的にちゃんと解析しきれない概念は、コンテンポラリージャズまで含めると、意外とものすごくたくさんある。

どんなにコードが複雑でも、持続的発展性のある中の協和な音列としてのスケールは、その一瞬一瞬のシチュエーションに対して、12半音のうち6〜8音ぐらいの音を許容していて、それはおおよそ全てのケースに当てはめられるけど、、、、、

問題は、

「理論的には合ってる音だけを使ってるのにでる違和感」

に関してだ。

そういう時には、

「う〜ん、これは不文律の域になってくると、それは『個人的な感覚』なんじゃないか、と言われちゃうかもしれないし、それを100%否定もできないことになっちゃうけど、ここでは、おそらく、直前のコードスケールにこの音があるでしょ。これが悪さして、ここでの大胆な展開を邪魔してるんだと思う、、、、、ぐらいしか言えないんだ〜」

「しかも、もし、これらの全てのコードの進行の前後関係のシチュエーションまでを理論書に書き起こすべく作業をすることもできなくもないけど、それでなくてもこのbook CPJだって一体何人の人が最後まで読んでくれたかな、っていう惑星に、また極限的に重たい理論書をこしらえることになるよりは、このへんはそ都度対処した方が早いかなあと思うんだ。いつも覚えていて欲しいのは、
理論は、
『素晴らしい音を生み出すのにあたって、いいショートカットができる為』
にあるもので、遠回りになっちゃ意味がないからね。」


☆49 右脳の暗譜と左脳の暗譜


僕は個人的にはライブは暗譜でやる主義を貫いています。

ただ、僕のやっているCPJという音楽は、ジャズというには大変なテーマが書かれていて、テーマだけで譜面にして17ページもあるJunky Funkという曲なんかは、ライブで何度も暗譜で演奏しているのに、よくよく考えてみると未だにちゃんと暗譜ができているとは言えないんです。

いや、極論を言えば、暗譜が完全にできている状態、というのにたどり着くことはなかなかないのです。

何度も譜面を置かないで人前で演奏している曲ですら、なんです。

というのは、人間は素晴らしい右脳の力を持っていて、曲を譜面なしで弾ける状態になるのに、まずは、右脳で暗譜しているものです。

つまり流暢に弾けている状態だけど、実は左脳では覚えていないので、53小節目でとまってしまったら54小節目から弾けなかったりする恐怖と隣り合わせなのです。

それは、演奏家の精神状態に悪影響を及ぼしかねないレベルの暗譜です。

そこで、「左脳での覚え直し」というのをやるようにしています。

それは、譜面を凝視して、細部まで想いを巡らせ、1音1音の音程やリズムやコードやニュアンスを覚えて、曲のどの小節からでも弾けるような状態なんです。

ところが、右脳での暗譜に比べて、おそらく100倍ぐらいかかる作業なので、やはりこれはどの曲に関してもなかなか、100パーセントの左脳暗譜は達成できないのですが、、、それがたとえ23パーセントぐらいでもかなり安心感、そしてその楽曲への親近感も増幅して、楽しんで演奏できる度合いが増えるので、できる限りそのクオリティーを高め続けるしかありません。しかも、ジャズの場合、そのコード進行上で縦横無尽に演奏できる、というのも暗譜のうちなので、やれることに際限はないので、楽しみは永久に続きます。

つまり、「あなたはこの地球で6億年過ごさないとならないです」と言われても、全く退屈しないほどできることはあるのです。


☆50 超知覚的感覚(ジャズはアドリブなのか)


ジャズ、と言えば、もちろん大前提としてアドリブ、ということになっていますが、いろいろと突き詰めてゆくとほとんどの物事って深くって、たとえば、蝶と蛾の違いにしても、羽を開いてとまるか、とか、夜行性か昼行性か、とか、美しいか、とかの線引きではいずれも例外が出てきて、深〜いものになるらしいように、ジャズがアドリブなのか、というのも、やればやるほどわからない面も出てきます。

 

僕が以前に勤めていたジャズスクールでは、朝から晩までアンサンブルクラスの音が個人レッスンのブースにも漏れ聴こえてきていました。だいたいのアンサンブルはかなり上手い感じだった印象ですが、それが、どのアンサンブルなのか全くわからないぐらいに判で押したように似ていることが気になりました。「Charlie Parker Omnibook」という譜面集などがあるように、ジャズのアドリブ集の譜面というのがたくさん出ているので、それをきちんと演奏している状態のようでした。

 

それはジャズの習得における結構早い時点でのぱっと聴きの完成度と充実感が得られる方式なのですが、逆にもしかしたらそこから抜け出すのも大変になる可能性も秘めている習得方だなあ、と思っていました。松井はこれを、

「お経ジャズ」

と呼んでいます。ある意味、まる暗記したお経を唱える方式だからです。

 

さて、お経ジャズ方式の場合でも、ジャズのジャズらしいフレージングをお経から掴み取って、だんだん崩して自分のものにして、いつでも調性感を反映したフレーズを卒なく繋いでいけるようになったらそれは最終的にアドリブに達するでしょう。

その後独立して、ニュージッククリニックJJを立ち上げて、自分のスクールで教え始めた時には、それと真逆の方式を始めてみました。

 

「お経」を使わずに、最初から各コードのスケールを割り出す方法を習得してもらって、特性音を割り出して、あらゆるハーモニーに対処する方法です。これはある意味ストイックな方法と言われる傾向があるかもしれないし、最初の何年もの間結構下手に聴こえるというディメリットがありますが、そもそもジャズなんて、最初の何年かなんて聴けたもんじゃないということがわかっていればそれはなんともないと思うのです。まあ、ある意味、どっちの登山口から登るかの違いとも言えますが、こちらは明らかに男坂に相当すると思われます。

 

しかし、どちらの方法でやっていても、コルトレーンチェンジや、それ以降のマルチモーダルなど、調性の変化の頻度が高いものに対峙した時には、難易度に比例して、それをほぼ書き譜に近い状態まで追い込まないと、流暢に聴こえる繋がりのよいフレーズを作れないことを痛感させられるところにくるでしょう。そういうことに悩んでいる時間が自分の人生の大半を占めていますが、そんな時に、

「ジャズのソロってやっぱり書き譜にはかなわないよね」

という人がいても、、、、、

「う、、、う〜む」と、悔しいながら押し黙ってしまいます。

 

ただ、程度問題ではあるでしょう。ある程度の常識範囲(?)の難易度の進行までに関しては、言えると思っています!

「ジャズはアドリブだ!!!」


   

6. 音楽の3要素(メロディー)

 


☆51 美しいメロディーという概念はあるのか


「あの曲のメロディーって美しいじゃない?」「あのメロディーって綺麗よね〜」

などと言う表現をよく耳にしますが、
本当に絶対的に美しいメロディーというのは存在するのでしょうか?
暴論かもしれませんが、そんなものはないと思います。
例えば、多くの人が「美しい」と言うメロディーで、僕には美しく思えないものはざらにあるし、その方が多いです。
「とっつきやすさ」を「美しさ」と定義するか、
それとも「深み」を「美しさ」とするかなど、「美しさ」の定義は抽象的であるからいろんな可能性に満ちているのです。
そしてしかも、音楽に普段触れていない人にとってのいいメロディーと、
音楽を四六時中頭の中で鳴らしている人にとっての究極のメロディーと、
の間には大きな乖離があることは容易に想像できると思います。
つまり、「美しいメロディー」という概念は絶対的なものでは決してない筈です。
敢えてやや具体的な例を出すとすると、
メロディーの中にトライアド(1度、3度、5度)や
メジャースケール(1度、2度、3度、4度、5度、6度、7度)などのわかり易い構造を順番に上がったりさがったりする部分がある場合にも、多くの人はそれがキャッチーなことから「いいメロディー」「美しいメロディー」と言う場面も見受けられます。ただ、僕は逆にジャズの教育の場面においても、執筆したジャズ理論書でも、そのような流れは「禁じ手」にしています。わかり易いけど、使い尽くされているし、少なくとも究極のメロディーを日々編み出して行こうとしている音楽家たちにとってはそれらは「陳腐で辟易としてしまう」メロディーで、今更この時代でまたやりたいことではない、というケースはザラにあるのです。
なので、そういう表現をする時には、ぜひ、
「私はこのメロディー好きです!」

と表現してあげて欲しいと思っています。


☆52 ドレミファソラシドの不自然性


ジャズのアドリブの中でも、

古いジャズでは、
スケールの中の音を順番に、
ドレミファソラシド〜 とか、
ドシラソファミレド〜 という具合に、
キーは違えど
順番に弾いている瞬間がありました。
しかし、モダンジャズ、
そしてコンテンポラリージャズと進化してゆくに従って、どんどんそういうアドリブはなくなってゆきました。
それはなぜでしょうか?
それは、飽きっぽいのが特徴とも言えるジャズマンの精神の中では、すでに他のジャンルで使い尽くされたスケールワイズのフレーズは陳腐なので避ける対象になる、というのはあります。
しかし更には、
その様なフレーズはあまりに不自然だと思う気持ちがあるプレイヤーも多いかも知れません。
それはなぜなのか?
まず、
スケールの言うのはこう言う音列になっている、という知識があって初めて出てくる音の並びであり、更には、
例えばピアノや木管楽器などのように、
ある限定されたキーにおいては最初からその音列が演奏しやすい構造になっているものもあり、
そういう音列が導き出されるような要素が非常に多いというのがあります。
そういう中で、しかもその音列を順番に弾いてこそ出てきたような音楽が、
本当に、完全解き放たれて自由な発想で、
特に、文明も知識もない時点で、
出てくる可能性はかなり乏しいと思われます。
ジャズの中ではこういう根源的なところ以外での様々な次元においても、
例えば普通のメジャースケールが合うところでとってつけたようにリディアンを使うとか、
ロクリアンのところでとってつけたように理由もなくロクリアンナチュラル2を使うとか、
うっかりすると知識から来てしまっただけの不自然なサウンドが生まれる危険に満ちていて、

不自然さを回避するのには繊細な配慮が必要なものです。


☆53 音の順番へのこだわり


松井秋彦がバークリー音大で受けていた授業の中で、
名物先生の、ハーブポメロイはある時こう言いました。
「スケールワイズ(スケールの順番)の音は3音までにしよう!」と。

その時、
『まさに自分もそう思っていた!ドンピシャリだ!』
と思い。自分以外にもそう思っている人はいるもんだと、嬉しい気持ちでした。
「ドレミファソラシド」のスケールの順番で弾くこと。
「ドミソ」、「レファラ」などトライアドの順番で弾くこと。

これらは音楽の長い歴史の中で、
すでに太古の昔の時点で散々行われてきたことでしょう。
クラシックの時点で、当然ながらそれ以外のメロディーの展開もたくさんでてきていました。

そして20世紀になって出てきたジャズでは、
コードに合った音で、
即興で音を紡いでゆくということになったのですが、
幾らその瞬間に思いついた音という前提でも、
「飽きっぽく」
「進化し続ける」
というのがジャズの基本姿勢ですから。
使い尽くされた流れはもう使いたくないのです。

しかし、その瞬間瞬間に、12半音の中で使って良いと言われる音は基本的にたったの7つな場合が多く。
意外とその7つの音だけでいろんなフレーズを作ってゆくのに、
「ドレミファソ」でなくて、
「ドレミソファ」「ドミレラソ」とか順番をこねくり回したり、
ちょっとインターバルを変えて、
「シドミラソレシラ」「ソレドソファミラ」
などなど、どんどん聴き覚えのない音列を創ってゆく努力をしました(book CPJ JT071)。

それでもなかなかに、それだけでは、
ずっと飽きないようにするのは難しいものです。
そしてまたジャズは進化を遂げてゆきます。
どうやったら問題なくスケールから外れた音を取り込んで行けるのか(book CPJ JT072〜JT080)!?!


☆54 温度や状況で微妙に変化する味


全く同じ豆で淹れたコーヒーでも、
日によっては、
ものすごく美味しく感じたり、
まあまあな感じがしたり、
印象に残らなかったりする。
ということはないでしょうか?

それが音楽に於ける気持ちいい音の順番や、
もしくはそれ以外のあらゆる要素にも当てはまる時があるような気がします。
それが、
ジャズ理論書を書くものとしては、
そこはかなり悩むポイントとなるところですが、
人間の感覚は、
その時の天気、気温、雰囲気、体調、気分、によって左右されることがあるのは、
それが人間らしい、
ということでもあるので、
しょうがないどころか、
素晴らしいことだと思います。

それなので、この後に話題に出てくるような、
スケールから外れた音を使ってゆくような話題に関しては、
そして、個人差もあったり、
本人の経験値も関わって来たりするので、
100パーセントいつでもなんの問題もなく当てはまるのかどうかは、
完全にはわからないのです。
でも、それでも、
ある程度一貫した価値観があることは確かなことでしょう。


☆55 アプローチノートの不思議


さて、正しいスケールの中の音だけでは、
12半音ある中の7音とか8音しか使えないことになってしまう中で、
どうにか飽きないように、
何か違う音を!
という流れで使われ始めたのが、
アプローチノートでしょう!

アプローチノートにもいろいろと種類がありますが、
ただ半音下の外れた一つの音から、スケール内の音にアプローチするシングルアプローチ(JT072)、
スケール内の全音差の部分を上下いずれかに向かって半音で繋ぐ経過音(JT073)
そして、外れた音で上下両側から一つの音にアプローチするやや際どいディレイドレゾルーション(JT074)
におよそ大別されますが、
これらの音がどうにかその調性にあっているように聴こえて、
他の音とぶつかっていない、
と思うのには、
ちゃんとそれらの外れた音がすぐにインサイドにアプローチする!
というのが絶対条件です!
そうでなければ、12半音いつでも使っていいことになり、
スケールでもなんでもなくなります。
つまりそれはフリージャズ。
つまりフリージャズに陥るのは簡単なことであり、
普通のジャズとして成立するには常に絶妙な配慮が必要です。

そして更には、
「時間の長さ」
が絶妙に関わってきます。
アプローチノートを正しく使っているシチュエーションでも、
外れた音にある程度以上長居してはそれは不快な音になるのです!
極端に言えば、
アプローチノートを全音符の長さ伸ばしたら、それはアプローチではなく、
完全にぶつかった音になります。
が、それすら、屁理屈を言えばテンポ次第です。
譜面はいかようにでも書けるので、
bpmが600とかなら4拍子の全音符でも0.4秒となり、まあまあ短くなります。
どちらにしろ、アプローチノートはある程度以上伸ばすとただの間違った音に聴こえるということなのですが、
例えば、0.5秒以上伸ばすとぶつかって聴こえるのか、はたまた0.7秒までOKなのか?
その基準は特にないということになります。
個人差もあるかもしれないし、
そもそも機能調性に興味ない人もいると思うし、
その時のコード楽器のvoicing次第でも違うし、
音量のバランスでも違うし、
また、超高音域だと許容範囲が俄然広がってある意味どうでもよくなるし、
正誤のはっきりした理論はあるものの、
「アプローチノートの長さの限界」
はよくわからない!
ということになるのです。


☆56 似ていることから代用できるもの


さて、正しいスケールの中の音だけでは、
12半音ある中の7音とか8音しか使えないことになってしまう中で、
どうにか飽きないように、
何か違う音を!
という流れで使われ始めたのが、
アプローチノートでしょう!

アプローチノートにもいろいろと種類がありますが、
ただ半音下の外れた一つの音から、スケール内の音にアプローチするシングルアプローチ(JT072)
スケール内の全音差の部分を上下いずれかに向かって半音で繋ぐ経過音(JT073)
そして、外れた音で上下両側から一つの音にアプローチするやや際どいディレイドレゾルーション(JT074)
におよそ大別されますが、
これらの音がどうにかその調性にあっているように聴こえて、
他の音とぶつかっていない、
と思うのには、
ちゃんとそれらの外れた音がすぐにインサイドにアプローチする!
というのが絶対条件です!
そうでなければ、12半音いつでも使っていいことになり、
スケールでもなんでもなくなります。
つまりそれはフリージャズ。
つまりフリージャズに陥るのは簡単なことであり、
普通のジャズとして成立するには常に絶妙な配慮が必要です。

そして更には、
「時間の長さ」
が絶妙に関わってきます。
アプローチノートを正しく使っているシチュエーションでも、
外れた音にある程度以上長居してはそれは不快な音になるのです!
極端に言えば、
アプローチノートを全音符の長さ伸ばしたら、それはアプローチではなく、
完全にぶつかった音になります。
が、それすら、屁理屈を言えばテンポ次第です。
譜面はいかようにでも書けるので、
bpmが600とかなら4拍子の全音符でも0.4秒となり、まあまあ短くなります。
どちらにしろ、アプローチノートはある程度以上伸ばすとただの間違った音に聴こえるということなのですが、
例えば、0.5秒以上伸ばすとぶつかって聴こえるのか、はたまた0.7秒までOKなのか?
その基準は特にないということになります。
個人差もあるかもしれないし、
そもそも機能調性に興味ない人もいると思うし、
その時のコード楽器のvoicing次第でも違うし、
音量のバランスでも違うし、
また、超高音域だと許容範囲が俄然広がってある意味どうでもよくなるし、
正誤のはっきりした理論はあるものの、
「アプローチノートの長さの限界」
はよくわからない!
ということになるのです。


☆57 調性間の潤滑油リックリンキング


突然ですが、

リックリンキングと言われてもピンと来ない

かもしれません。

リックとは、ある意味フレーズのことですが、よくジャズにおいては、それぞれのプレイヤーに固有のフレーズのネタ、悪く言うと手癖、歌い癖、という感じの意味があります。

ということで、リックリンキング(JT089)は、

「フレーズを繋ぐ」

ということになります。

繋ぐ、と言っても、それは、

調性が変化している中で繋ぐということになるので、

ここまで一つ一つのスケールの中でいかにカッコいいリックを作ろうと、努力して来た人が、

今度はスケールがポンポン変わってゆくコード進行の中でいかに綺麗にそれらのスケールを繋いで、

それぞれの調性の特徴をちゃんと反映しながら、

しかも違和感のない流れるようなアドリブラインにしてゆくのか。

というのがリックリンキングで、

これはある意味ジャズマンの夢であり、

真骨頂であり、

松井秋彦のbookCPJの中でもそれが記載されている89課はある意味結論のような部分です。

しかもあの壮大なジャズ理論のストーリーの結論がそこであっても、

大変な思いをしていかなるコード進行においても自在にそれを反映するリックが繋げたとしても、

実は、そうなった暁には、

まだまだ他の旅が始まるスタートラインに立つことになるんだと思っています。


☆58 宙に絵を描いたり水面を歩く


さて、あらゆるコードに対して縦横無尽に、

緻密に、

違和感なく流れるように、

フレーズを弾いてゆく為のあらゆる努力は、

スケールのインサイド絡んだものに関しては、

スケールの中で順番を変化させ(JT071)

あらゆるアプローチノートを加え(JT072〜074〕、

更にはスケールをより進化した出世魚に置き換えて(JT075)、

それらを変わりゆくコード進行に当てはめて繋ぐという、

リックリンキング(JT089〕をもってほぼ最終目標を達成!

するのですが、

ジャズの進化は止まらず、

それはインサイドのハーモニーの中のこと、

それ意外にアウトライニング(JT076〜JT080〕があります!

アウトライニングとは、

その時のコードのスケールに合わない音を、

敢えて法則性をもって使うことで、

更なる緊張感をもたらす離れ業です!

これはどんなことなのか?

音楽をやっていない人でも想像つくような例えをするなら、

空中に絵を描くような感じであり、

湖の水面を歩く感じです!

そして、

歩く時に足が沈む前に、

もう一方の足を出して、

その足が沈む前にもう一方の足を出したら、

あら不思議!

まるでアメンボのように、

人間ても水上を歩けた!

そんな感じのテクニックです!


☆59 周波数の正則分割


音楽の中でのCPJが、

美術の中でもっとも似ているものがあるとすれば、

版画家のエッシャーの作品でしょう。

細密描写の技術に裏打ちされた、

両者ともちょっとトリッキーな手法が散りばめられているからです。

CPJのことを、

「音のトリックアート」

と評した人もいたりします。

そして、エッシャーが一つのモチーフの上に、同時にもう一つの方向や次元や、違うモチーフをも認識させる、

「平面の正則分割」

を成立させる時に用いるのが、

認識しやすいシンプルなモチーフです。

それがあることによって、

人々が比較的確実にその多次元性を理解できます。

音楽の場合は、

瞬間芸術であるのもあって、

美術の場合程の認識し易さは得難いのですが、

やはりエッシャーと同じように、

アウトライニングなどを正当化させるのには、

認識しやすいモチーフを使うことが多いです。

普段の基本的なメインの調性感を打ち出す時点では、

スケールには7、8音、

更にはアプローチノートを使いますが、

アウトライニングに同等のものを使うと、

不思議と埋もれてしまって、

成立せず混沌として、

機能調性が破壊されてしまいますが、

アウトライニングのアウトサイドの部分は、

3音しかないトライアド(JT076)、

3音しかない四度フレーズ(JT077)、

5音しかないペンタトニックスケール(JT078)などのように、

シンプルで認知しやすいものにすることで、

メインの調性とまざることなく、

クッキリと緊張感をもたらしてくれるのが、

本当に不思議なことなんです!

これはまさに、

スキージャンプにおいてある時期からV字型飛行をすると更なる浮力で浮き上がることができるようになったことにも似ているし、

湖に石を投げて、

「水切り」

をすると、奇跡的に石が何度も不思議な浮力を持つのにもすごく似ています!


☆60 ボストンとエルサレムの意外な共通点


人々がバークリー理論と呼んだりしているジャズ理論は、

おそらく特にバークリーに特有の理論というよりも、

クラシックの楽典を礎として発展してきた保守的な普通の理論だと思います。

それをどこまで細分化したり進化させたかによって、ちょっとマニアックな理論に見えることもあるかもしれません。

それどころか、

book CPJに綴った松井秋彦のCPJの理論ですら、かなり保守的であり、そのいわゆる普通の理論を礎にして、その機能調性が破綻しない範囲でとことんまで進化させたものです。

ボストンのバークリーで勉強している頃、

その理論と違う、

「Lydian Chromatic Cocept」

というものがあることを知りました。

普通の理論の勉強中であり、

あらゆる楽器を練習するので手いっぱいだった中でも、なんだか気になるので、

Lydian Chromatic Concept の本

を購入して熟読してみました。

その本の続きは、

その理論の創始者であるGeorge Russel本人のレッスンを受けないと学べないことになっているようでした。

本から学べる範囲では、

まず、普通の理論がメジャースケールを起点として考えているのに対して、

太陽系の惑星を地球からでなく、例えば

土星から見渡すように、

Lydian を中心として全体像を見ていること、

そして、近親調との関係性がアウトライニングの形成に与える影響などを分析しているようでしたが、

それをもう一度アイオニアン(メジャースケール)から見渡すように置き換え直すと、結局大体の線ではあらゆるスケールは普通の理論とあまり変わらない。ただ違う星から見ているだけ、のような感じでした。

ただ、そのスケールの一部は、違うものが入っているけど、サウンド的にちょっとえぐみのあるもので、一部アプローチノート的な音を認めているようなあまり歓迎しないものもありました。
それでも、

「いろんな複雑なことを唱えているけど、結局似ている」

という概念って?

ふと思い出すのが、

宗教です!

あらゆる宗教の教義は、比較的道徳的なことを一通り唱えており、細部の違いはもちろんあるものの、似ている部分がかなり多いと思っていました。

エルサレムに、

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教

とあらゆる宗教の聖地が集中しているように、

なんと一般的ジャズ理論の聖地、

バークリーがあるボストンに、

George Russelは住んでいて、

バークリーと目と鼻の先にある、

New England Conservatory にてLydian Chromatic Concept の教鞭を取っていたのです!

ボストンはまさにジャズ理論界のエルサレムです!


 

7.音楽の3要素(ハーモニー)

 


☆61 相対音感と絶対音感


「わ〜すごい演奏ですね?絶対音感があるんですね?」

と言われることがあったりします。

そんなとき、どうやって端的にこれに答えたらよいのか瞬時に答えが出せない歯痒い気持ちになります。

よくあることですが、

世の中でいろんな言葉が、

その定義とどんどんずれて一人歩きをしていることがありますが、

この、「絶対音感」という言葉もそうでしょう。

おそらく人々に刷り込まれているかも知れないイメージは、

「絶対音感」は、

「なんだかすごい究極の能力だ!」

「これを得るのは大変なことだ!」

「これがある人は滅多にいない!」

「これがあればなんでもできる!」

 

というところになっている感じがする発言が多いです。

しかし実際には、絶対音感というのは、

『究極だったり、そうでなかったりする』

『これを得るのは子供のうちなら容易だ』

『意外とそこらじゅうにいる』

『これがあってもできないことは沢山ある』

というようなものでしょう。

楽器も何も持たずして、ある音が、

ドだとかレだとかミ♭だとかわかる、

というのが基本的な絶対音感です。

基本的な絶対音感の一長一短は、

『その瞬間に何の音を弾くのかの判断を間違えない為には有効ですが、例えば移調して同じ曲を弾くとかいうときには混乱をきたす可能性があります。』

『幼児期からピアノなどの教育を受けていれば、そんなに意識していなくても得られるので、音楽を専門にしない人でも持っている人はザラにいますが、10歳を過ぎて、大人になればなる程後からつけるのはどんなに努力しても不可能になってきます。』

それに対して、

『相対音感』

という概念があります。

これはあまり一般的に話題にならない能力ですが、

ドだとか、レだとか、一つの音がわかったら、そこを基準にして、

ドの短六度上のラ♭の音だとか、

増11度上のファ♯の音がわかったりする能力です。

その音がコードの中でテンション9になっている、とかを把握する為の

『垂直的な相対音』や、

調性がある曲のトーナルセンターからみて今はどの位置にいるかというのを把握する

『並行的な相対音』をとるのに向いていて、

同じ曲を違うキーでやっても混乱はないことと、

二十歳を過ぎても鍛えてゆけばどんどんつけられることと、

「ある」とか、「ない」とかでなく、

『どれぐらいある』

という概念なのです。

特に調性があるジャズをやるのにはかなり便利な概念であり、能力だし、

いくらでも伸ばしてゆけるというところがポイントです!

そして、『絶対音感』があれば、

『相対音感』はそれを使えば求められるので、同時に持っていることになりますが、

根本的に絶対的な音の捉えかたをし易くなる為、『相対音』を意識しにくくなります。

そして更には、

『絶対音感』にも更に種類とレベルがあります。

一つは、十二半音の間の微細な周波数の違いまでわかる人、

この場合、人によってはチューニングのズレた音を聴くのがより苦痛で耐えられないという辛さがあります。

もう一つは、音楽的な音でなくて、

雑音、ノイズなんかの音程もわかるタイプです。

これはある意味面白い感じですが、

実際に音楽を演奏するのにはあまり関係ない気がします。

自分の場合は、

音楽を始めたのがあまり早い時点でないので、

『絶対音感なく、相対音感を生涯高め続ける』という立ち位置です。

ジャズなどは相対音感が非常に役立つ音楽なので、ある程度人生過ごしてからでもプロにまでなるケースもあるのは、

後からでも鍛えて伸ばせる相対音感でできる音楽だからでしょう。


☆62 テンションやハイブリッド


ハーモニーには、

垂直的なハーモニーと、

平行的なハーモニーがあります。

垂直的なものは、同時発音になるので、

コードと言われる場合が多いですが、

平行的なハーモニーとは、コードから次のコードへの関係性の話しになってきます。

まずはここでは、垂直的なハーモニーである、コードのことに関してのお話です。

コードの中でシンプルなものは、

トライアド(三和音)(JT011)と呼ばれる

1.3.5度で成り立っているもの。

これらの1.3.5にもいろんな種類があるので、それでコードの明るさが自在にコントロールできます。

そして、

セブンスコード(四和音)(JT012)と呼ばれる

1.3.5.7度で成り立っているもの。

1.3.5.7度を使うと、もっと細かい変化がつけられます。

しかし、それでもジャズマンは満足せず、飽き足らず、その間の音も入れられないかと検討を始めたようです。

1.3.5.7が、コードによって1,♭3, 5, 7であったり、1,♭3, 5,♭7だったり、変化する中で、コードの種類に応じて、

1,3,5,7の間の2,4,6を変化させながら入れてもおかしくないし、ぶつからない音を探して使い始めたのが、

テンション(JT013)です!

テンションは一般的には9,11,13などの数字を使って表します(個人的には2,4,6でいいと思いますが)、

それにコードの種類によって、♭9, #9、#11などシャープやフラットをつけたものを使って繊細に調整します。

そして更にはコードにテンション入れても飽き足らないと、

ハイブリッドコード(JT014)なども使ったりします。

これは上部のコードに対してずれたルートを入れることによって意外性のあるハーモニーを繰り出すものです。

こんな風に、ジャズマンは垂直的ハーモニーの中で、

機能調性を破壊しない範囲での限界はどこにあるのかを探究し続け、

ものすごい種類の色のパレットを作ってきました。

それは、絵具のパレットで、繊細にあらゆる色を混ぜて調整して、

それの混ざり方を絶妙にコントロールして、

いつでも必要な色が描けるようにして行ったということですね。

なんと貪欲なことでしょう!


☆63 転調をなるべく認めないジャズ理論


「ここは転調で、そしてここも、ここもまたまた転調してるんだ!」
高校の音楽の授業で、音楽の先生が生徒に、
「帰れソレントへ」を歌わせる授業で、
各セクションに関して、そう言っていたことがありました。
でも、その時点でも、なんだか転調という言葉が結構安っぽく使われていないか?
と疑問を持って、
『これらの調性感にはなんらかの繋がりを感じるので、
どうも転調という感じがしないなあ』
と漠然と思って、何か引っかかっていたものでした。

その後留学してジャズ理論を学んだら、その理由がわかりました!
「ジャズ理論では転調をなかなか認めない」
という傾向があったからなのです。
その高校の音楽の先生の解釈では、
ジャズ理論で言う完全なダイアトニック(JT031)の、全くスケールが変わらない部分、
つまりは臨時記号(アプローチノート以外の)が出る度にそれを転調としていたのですが、
クラシックですら、調号を変えた時が基本的にな転調とするでしょう。
そして、クラシックではマメに調号を変えるであろうと思われるいろんなケースまで含めて、
ジャズでは、セカンダリードミナント(JT032)、サブスティテュートドミナント(JT033)、モーダルインターチェンジ(JT034)、アプローチコード(JT035)などの、ジャズでよく出てくるハーモニーの構造の中で、もともとのキーから外れた、というところまでは、
調号を変えずに、それらのトニック(キーの中心)との関係性を把握して進んでゆくでしょう。
簡単に転調を認めないからこそ、
最終的にマルチモーダル(JT039)な世界に入って行った場合までコントロールが効いて、
深い並行的ハーモニーの温かみを感じられるのです。


☆64 バターノートのエネルギーは化石燃料


「あの〜、松井さん、地球以外の他の星でも、みんなドミナントの解決感を感じるんですかねえ?」
と、出し抜けに聞かれたことがあります。
あまりのことにすぐに答えられず、
『う〜ん、どうなんだろう〜?そうなんじゃないかなあ。』
とでも言ったような気がします。
ジャズが進化して来て、コンテンポラリージャズに差し掛かって来た頃、
同じvoicingを弾きたくないことで息詰まっていたハービーハンコックにマイルスが、
「もうバターノートはやめよう!」
言いました。
この時のバターノートとは、3度や7度、コードの特性を出す重要な音のことを指して言ったそうです。
特に、ドミナントコードの3度と♭7度を限定して指していたのか定かではないですが、
ドミナントコードの3度と♭7度のインターバルがトライトーン(増4度)で、
そのトライトーンがあると、
自然とそれが解決するハーモニーの流れに、
地球上の人間はまずほとんど例外なくなんとなく、
『解決感』
なるものを感じるのが不思議です。
感じているからこそ、
特に音楽を専門的にやっていない人でも、
イントロで何かしらのドミナントコードのトライトーンを聴くと、
次のトーナルセンターを感じとり、
自然と正しい音程で歌い出したりできるわけですからね。
そして、そのトライトーンというか、バターノートを含んだドミナントコードというのもはそれだけコードの流れを作る不思議な力がありますが、
それ以外のメジャー系のコード、マイナー系のコードなど、
起点や終点になりうるコードは、
動く必要を感じされるバターノートが入っていないので、
ある意味、エネルギーがありません。
別にコードが変わらなくても良い。
という雰囲気が出ています。
自分のFJJの100曲の中には、その例外のような、ドミナントを一切排除した割にたくさんコードが出てくる
78.JJ008.Crystal Skyscrapersという曲がありますが、
これは相当珍しいでしょう。
もし、作曲や編曲をする場合に、
コードが進む必然性をもたらしたかったら、
ドミナントのコードを投げ込んでバターノートを響かせれば、
コードは進んで行くでしょう。
なんせ、バターノートは動きたいというエネルギーに満ちた化石燃料ですから!


☆65 ビバップを要約すると「勝手にマイナードミナント」


「先生、マイナードミナントってなんでしたっけ?」
JJの自動ドアを開けるなり、
こんにちはも言わないうちに、
こういう質問を投げかけてくる生徒もいます。
book CPJをベースにした、
最も近道で、
最も効率が良い、
と自負しているこの松井式のジャズ理論の中で、
かなりの概念を端折る為の唯一のつっかい棒がこの、
「マイナードミナント」
という概念でしょう。
それなので、
「マイナードミナントって結局なんなんですか?」
という質問は非常に多いです。
あらゆることを非常に楽にする為に、ここだけはちょっと痛い思いをしないとならない。
それがマイナードミナントです。
ただ、マイナードミナントさえ理解すれば、
そこには桃源郷が見えてくるのです。
これは、ある意味、ひどい風邪を弾いて熱もあって苦しい時に、
手軽に石油由来の毒でしかない解熱剤を飲んで大事な自然免疫力を下げないで、
寝て治して、最終的に何一つ病気をしない体を得るのに似ているでしょう。
さて、簡単に言えば、マイナードミナントは、もともとはマイナーのキーのトニックに対して解決するドミナントの構造であり、
実際にも基本的にはマイナーコードなどの暗いコードに解決する時のドミナントの構造なのですが、
ある意味、
ビバップ(ある時期の快活なジャズ)のあらゆる特徴的なフレーズでは、なんと、
メジャーに解決するドミナントのところでも、
わざとマイナードミナント由来のリックを使って、
メジャーに解決する時に衝撃的な明るみの開け方をもたらす傾向がありました。
ある意味この、
『勝手にマイナードミナント』というのがビバップの歴史と言っても過言ではないと思っています!


☆66 ジャズの奇跡「裏コード」は因数分解


「先生〜ジャズの12キーのコードが全部入ってる曲ってないんですか〜?」
『ええ〜っ、そんなのあるわけないじゃん〜』
「じゃあ、先生そういう曲作ってください〜」
『ええ〜っ、そんなの作れるかなあ〜』

自分のラフな分類での普通のジャズのコードは12キーで60個。
それを全部入れて曲を作ると言っても、
もちろんどんな曲でもいいなら簡単この上ないですが、
ある程度演奏する気になる程度に曲っぽい曲を、
そんな制約で書くのは大変だと思いながらも、
なんとなく悔しくて結局すぐに書いてしまいました。
それがCPJのFJJの48.FJ008.Labyrinth という曲となり、
その後あらゆる生徒に、いっぺんに横着にコードを覚えてしまいたい場合には使ってもらっています。
どうにか曲のフリをしています。

さて、よくジャズピアノの初心者に最初にvoicingを覚えてもらうのに、
その60個×2の120個のvoicingを最低限覚えてもらう時に、
120個でも意外と大変なので、
『Major DominantとMinor Dominantは増4度ずらせば同じになるから、
とりあえず、Minor Dominantはやらなくていいよ!
そうするとなんと96個でいいことになるでしょう?』
というようにしています。
これがジャズの真骨頂、表コードと裏コードの関係です。
コードのバターノート、トライトーン(☆65)である3と♭7以外のテンションは、
例えば、表コードの方が3, ♭6(♭13), ♭7, ♭3(#9)のコードのルートを増4度ずらして裏コードにすると、
あら不思議、♭7, 2(9), 3, 6(13)に完璧になるし、
表コードが♭7, b3(#9), 3,♭6(♭13)なら、裏コードは、
3, 6(13), ♭7, 2(9) になるので、
奇跡的な完璧さなんです!
これは、数学での式の展開と因数分解の関係にそっくりで、あまりにも美しくできています!
これだとスッキリしないという場合、
スケールで考えればよりスッキリします!
裏コードのMajor DominantでのスケールがLydian ♭7とした場合、
それは1,2,3,#4,5,6,♭7ですが、例えば、C7のC Lydian Dominantの場合だと、
C,D,E,F#,G,A,B♭となり、増4度ずらして、F#+7(Minor Dominant)にすると、
F#,G,A,B♭,C,D,Eは、1,♭2(♭9),♭3(#9),#4(♭5), ♭6(♭13),♭7という具合に、
完璧なF#Altered Scaleになるのです!
なんとも美しいでしょう!
(ちなみに、Altered Scale自体は別の意味で松井自身はあまり推奨していないですが)


 ☆67 琴線に触れるモーダルインターチェンジ


「琴線に触れる曲でした!」
という言葉を聞く時があります。
もし、琴線に触れる曲を書いて万人受けするとしたら、
他にももっと色々キャッチーな要素もありますが、
深いところで、ちょっとバレないようにそれをもたらすハーモニーがあります。
それがモーダルインターチェンジ(JT034)です。
ジャズが転調を認めない中に、
モーダルインターチェンジというコード進行の並行的構造があります。
一番代表的なモーダルインターチェンジというのは、
メジャーのキーの明るい曲に、
同主調のマイナーからコードを借りてきて、
少し影がさしたような感じにして陰影を出すものです。
そして特に、機能的にサブドミナントマイナーと言って、
キーの中の♭6の音がコードやメロディーに入ってくると、
少なくともこの星に住んでいる人に共通する、
ウルっと来るような感じが簡単に出るのです。
コンテンポラリーだ、CPJだと言って、変わった音楽をやっていると思われがちな松井でも、
これは好きではあるし、
何か不思議なノスタルジーを感じます。
だからと言って、調性がある曲は書かないので使わないですが。
多くの人に好まれる曲をみんなの為に書くならこれがオススメです!


☆68 紅葉の青とマルチトニック


「な〜んだ?こんな青い色なんてどこにもないだろう?」
小学校の写生大会で、紅葉を写生していた時に、
担任の先生が自分の絵を見て言った言葉でした。
それでも、確信犯であった自分は、そのまま自分の写生を続けながら、
『なんだかつまんないこと言う先生だなあ。』
と思いました。
紅葉が大好きで、毎年の紅葉にやや不満すら感じていて、
その年も紅葉があまり色付きのよくない年で、
しかも、ベストなタイミングとは程遠く、
くすんだ色の紅葉や、もうすでにやや枯れてきているのを描きたくない気持ちでいっぱいになり、
赤と、オレンジと、黄色と、黄緑と、緑を入れ、しかも、ついでに、葉っぱの色としてはありえない
青まで入れて描いていたのです。

「こんな調性は、感じることはできないよ。」
それから大分経って、バークリー音大に留学している時の、
Advanced Modal Harmonyの授業で、マルチトニックシステム(JT036)を使って作曲する宿題を提出した時のことでした。
先生はそう言って自分の曲の譜面を突き返しました。
自分はもともとすぐに究極的な結論まで持って行きたくなる方なので、
3トニック、4トニック、6トニックに飽き足らず、12トニックの曲を、
しかもシンメトリックではない形で書いたので、
そう言われても驚きはしなかったのですが、やはり
『つまんないこと言うなあ〜』と思いました。
よかったのは、どちらのケースでも全く怖気づくことなく、
方針は変えなかったのですが。

もし自分が教育者でこういう場面に対峙したら、
『なんだ?すごいね?こんな真っ青な色の葉っぱ見たことないよ。面白いね。どんな作品になるか楽しみだ!』
『おお〜12トニック?これは今すぐは先生は感じ取れないけど、もう3トニックとかやってられないぜ〜って感じだね?芸術は飽きることから進化するわけだから、最終的にはここだよね!』
と、理解できてもできなくても、ポジティブなことを言うに違いありません。
可能性の芽を摘むのは良くないことだと思っています。


☆69 無調性と多調性の違い


「素晴らしかったです!今日のはフリージャズなんですか?」
と言われることがたまにあります。
もちろん楽しんでいただけることは嬉しいことだし、詳細がどうでもいいのですが、やっぱりチラっと言ってしまいます。
『ありがとうございます!あ、フリージャズとは真逆なんですよ〜。』

「現代音楽なんですね!」
と言われることもあります。
そう言う時は、現代音楽の定義も、全く五里霧中ではあるけど、
『う〜ん、おそらくちょっと違う方向だと思います』
と言ったりします。

なんとなく大半の人の共通見解としてある現代音楽の定義はおそらく、
「クラシックから派生してきた、無調性な音楽」
という感じでしょう。

フリージャズも無調性なので、
「現代音楽=無調性音楽(主に書き譜)」
「フリージャズ=無調性な即興演奏」
というのがより正確な定義でしょう。

しかし、CPJの音楽は、無調性とは対局の位置にある
『多調性な音楽』
です!
一瞬一瞬の調性はあるけど、それがどうせかなりの頻度で目まぐるしく変わり続けるので、
調号などは使う意味がないぐらい、
絶えず転調していたり、部分的には複調性だったりします。
でも、無調と違って、一瞬一瞬はいろんな調性感の中に、完全にコントロールした状態でいることになるので、
多調なのです!
これは、赤、朱色、橙、黄、黄緑、緑、青、青紫、紫、赤紫、などという具合に、
あらゆる色合いの特性を把握した上で、前後関係も含めてコントロールして使うことで成り立っています。
ただ、あまりに頻繁に調性が変わると、それらが混ざって聴こえたり、
あたかも、いつでも何の音でも出していいという自由な音楽、つまりフリーをやっているのに、
うっかりすると非常に似ているサウンドになるでしょう。
これが、細密描写と抽象画が意外と似ているように見えたりする要因です。

つまり、
制約を取っ払った『無調性』と
制約をとことんまで増やした『多調性』は、
両者とも12半音を使っている音楽ですが、
CPJの多調性はかなり制約を増やしている音楽、
フリーは制約をなくしてゆく音楽、
なので、対照的なのですが、
両方とも極端な音楽であることは間違いなので、
似ているように聴こえることがあると言うことです。
が、実際には構造上、
「真逆の中の真逆」
というぐらい違うものだということです!


☆70 ハーモニーの限界


 ジャズがニューオーリンズで萌芽して以来、
あらゆる要素を取り込んで進化し続けてきました。
その進化の速さたるや、
クラシックの歴史に比べればたかがせいぜい100年ぐらいのヒヨッコな割に、
あっと言う間に壮大なジャズ理論を、
あらゆるジャズマンが試してきたことによって構築してきました。
初期のジャズから、モダンジャズ、コンテンポラリージャズ、と進化してゆく中で、
ハーモニー的には、
ブルースから、普通のダイアトニック(JT031)、セカンダリードミナント(JT032)、サブスティテュートドミナント(JT033)、モーダルインターチェンジ(JT034)、アプローチコード(JT035)、マルチトニック(JT036)、ペダルポイント(JT037)、モーダル(JT038)、マルチモーダル(JT039)、ポリモーダル(JT040)とどんどんハーモニーを進化させていったのですが、
すでに、1980年台にここの地点にたどり着いています。
それからというもの、なかなかこれ以外の選択肢は登場してきません。
もちろんこれより不協和なところ、すなわちフリージャズには当然かなりの人が到達していますが、
フリージャズは、これらの秩序を壊す方向性なので、
多調性と無調性が真逆(☆69)だったように、
それまでの進化とは真逆なので、これも進化どころか破壊、というのか退化というのかわかりません。
これらの進化の段階の一つも理解しない状態でもフリーはできてしまうので、
まるで、これらのハーモニーの進化の先にあるから、全てを凌駕したような雰囲気を感じている人もかなりいますが、
それとは真逆で、
ジャズができなくてもできてしまうのです。
本来はフリージャズをやるには、上記の全てを網羅してから初めてフリーをやる権利(☆90)が発生する筈だと思っています。
具象画を描いたこともない人が抽象画を描く問題に似ています。

そうして考えてゆくと、ジャズ、ひいては、音楽、の少なくとも地球上での進化は1980年代にすでに天井を打っている感じがします。
そして、ハーモニーと密接な関係にあるメロディーも、
野球で言えば、三冠王を取ろうとする場合に、ホームランと打点は結構連動するのと同じように連動しているところがあって、
やや進化の限界は来ている感じがします。
すると、あと残された進化はリズムにあるのか?そこでCPJの真価が発揮されるのでしょう。


 

 

8. 音楽の3要素(リズム)

 


☆71 リズムには進化の余地が


さて20世紀で天井を打ったハーモニーとメロディー(☆70)に対して、
残るはリズムですね。
リズムの場合はどうでしょうか?
リズムにおいては、
ジャズが始まった時点から、
Swingにしろ、タテノリにしろ、
裏の音符をどんどん増やし、
シンコペーションをし、
ポリリズムでずらし、
それでも飽きたらなければ、
ジャズの場合は貪欲に他のジャンルとの垣根もどんどん壊し、
ロック、ラテン、ボサ、サンバなどあらゆるところからリズムを導入して、
フュージョンとして進化させてきました。
その進化はとどまるところを知らぬまま、
変拍子も導入し、
変拍子の中でも、7/8などの8分系から、15/16などの細密な変拍子へ、、、、、、。
ただ、そのあたりでやはりリズムの進化もやや座礁しているところで、
1996年頃、CPJが萌芽しました。
ジャズへの導入は非常に困難な為、今だに試されていなかった、
変拍子ならぬ、変連符の概念を使って、

1.JF001.Junky Funkや、12.LD002.Flamboyance13.LD003.Clairvoyance

などの曲がこの頃にすでにライブでも演奏されていました。
それからというもの、
5連符と7連符を行き来しながらでもかなりポップなサウンドになっている楽曲

 

34.GX004.Oceanfront35.GX005.Ondo Ondo

などもどんどん増えていきましたし、
5連符や7連符の上でまたポリリズムを展開して、7/5拍、11/5拍、13/5拍、5/7拍、11/7拍、13/7拍、など、
かなり刺激の強いポリリズムが入っている曲としては、

 

32.GX002.Jive Five33.GX003.Jive Seven

などが登場してきました。
その全ての要素は、基本的には、

1.JF001.Junky Funk2.JF002.Funky Junk

にすでに十分に盛り込まれていますが、、、、、。
そして、この形式での進化に限界はありません。
現代物理学、量子力学が、分子では飽きたらず、素粒子、超弦理論と駒を進めるように、
細密描写的な進化に限界と言うのはなく、更に細かくしているのは、
演奏こそより困難にはなれど、
やればやるだけ進化を続ける泉なのです。


☆72 グルーヴがなければ意味がない


「グルーヴってなんなんですか?」
「グルーヴってどうやると出るんですか?」
などという質問がよくあります。
確かに、
『グルーヴ』
という言葉はかなり一人歩きしていて、
その定義がかなり漠然としてしまって、
更には変遷もしてしまっている言葉の一つでしょう。
ただ、インテンポのリズムがある音楽では
クラシックのようにテンポを揺らす音楽と全く違って、
グルーヴを出すのが大きなポイントになります。
テンポが一定なのはグルーヴを出す為だと言っても過言ではなく、
グルーヴを出さなければインテンポというのは非常に単調になってしまうので、
グルーヴを出さないなら、やはりクラシックのように自由にアッチェルかけたりリタルダンドしたりして変化をつけないと機械のようになってしまいます。
なので、
『グルーヴがなければ意味がない』
と言えるでしょう。
例えば、
「グルーヴのあるヴォーカルだねえ」
ということを言う人がいたとしたら、
それはグルーヴの意味を理解していないで言っている可能性が高いです。
簡単に言えば、ウワモノ(ヴォーカル、管楽器など)の単音楽器が、
単独でグルーヴを出すのはほぼ無理だからです。
正確には、
「このヴォーカルは、ちゃんとドラムやベースが出しているグルーヴを反映してるね!」
ということである可能性が高いです。
稀に、ボビーマクファーリンのように、一人きりでもグルーヴを出すヴォーカリストもいますが、
それは彼の中でも主にヴォイパー的な部分のみです。
例えば、
「ルバートの中にもグルーヴがある」
という表現をする人もいます。
言いたいことはわかる気がします。
ルバートの中にも何か必然的なうねりがある。
クラシックがテンポ自体を揺らすのは、裏だけの音符の部分が基本的にないので、
揺らしていないとつまらないから必然的に揺らすのでしょう。
ただ、ここで「グルーヴ」という大事な言葉を抽象化して転用されていくと、
この言葉の定義がぼやけてしまって、
本当に「グルーヴ」の話をしようとしても無理になってしまうので、
できれば違う言葉を使って欲しいです。
もしくは、百歩譲って、どうしてもグルーヴという言葉を使うなら
グルーヴという言葉は、インテンポにおいてもある種の
「うねり」をもたらすものなので、
『インテンポグルーヴ』と、『ルバートグルーヴ』など、
グルーヴという言葉を細分化してはっきり使い分けるようにしていけると助かります。
定義が浸透していない言葉をレトリックに使ってしまうと、
その言葉がどんどん埋もれてゆくのです。
さて、これだけ「グルーヴ」という言葉が混沌としてしまった理由は、
その乱用により定義が曖昧になってゆく中で、
誰もその定義を言語化しないので、同じ概念について掘り下げるのが難しくなっています。
また、松井はグルーヴが出しにくい複雑な曲ばっかりやってるから、
グルーヴには興味ないんだろうと思われていて、
「もっとグルーヴ系の曲やろうよ〜」
と言われることもありましたが、
松井の持論では、
ドラムやベースはグルーヴを出す為にあり、
シンプルな曲がグルーヴ系なのではなく、
グルーヴが出し易いだけであり、
意外にも松井がCPJでやりたいことの中で、
グルーヴに関して言えば、なるべく進化して、敢えて
「グルーヴが出しにくい曲」
において、グルーヴを出そうと頑張ることなんです!
それは異常なことではなくて、
例えば、身近なところでは、
そこらで売っている数独の本でも、超難問集があって、
極限的難問集の著者は、
「できる限りヒントを極限まで少なくしました」
と書いているぐらいですから!

さて、その混沌に対しての解決法は言語化です。
チラッと書いてしまうと、
グルーヴの定義と創出方法は、

『グルーヴは単純に「ノリ」であり、
インテンポで正確にテンポを守っている中で、
裏の音符をなるべく入れて、
「一音一音の音量差」と「スタッカートとテヌートのアーティキュレーション」
に配慮する』

これだけのことなんです。


☆73 ゴーストノートには不思議な魔力が


さて、グルーヴという言葉の定義と獲得方法を前回(☆72)簡単に書きましたが、
グルーヴを出す為のアーティキュレーションの中で、和製英語ですが、
『ゴーストノート(英語ではgrace notes)』
というものがあります!
ただ、ゴーストノートという言葉もややわかりにくい感じがします。
基本的に何の楽器でも出せる筈の音ですが、
もっともゴーストノートが出し易い楽器は、おそらく、
ドラム、ギター、ベースでしょう!
例えば、ドラムでのゴーストノート(educational JJの動画)は、
極端に小さな、ちょっと打面に触れる程度の音をコントロールして出します。
もちろんいずれの場合もゴーストノートだけではグルーヴは出ないので、その間に、
アクセントの音を入れることで、
『浮き上がるような感じ、うねるような感じ、もしくは踊りたくなるような感じ』
であるグルーヴ(☆72)が生まれるのです!
ベースの場合(educational JJの動画)は、指板に弦を押さえつけない状態で、
弦に触れることでミュートした音をゴーストノートとして使って、
実音との音量や質感の違いでグルーヴを出します。
ギターの場合も基本的に同じ弦楽器なのでベースに似た形で出せます。
ただ、ピアノの場合は、音量差は出せるものの、
音の質感をこういう雰囲気で変えるのは比較的困難なので、
ピアノだけでゴーストノートを出すのは難しいですが、
ゴーストノート以外のいろんな概念で、
強弱と、伸ばすか切るか、のニュアンスでグルーヴを出すのには案外向いています!
ただ、それ以外の楽器で、
単音楽器である管楽器類や、ヴォーカル、
そして更にはヴァイオリンなどの擦弦楽器は、
スタッカートな音が自在に出せないので、
グルーヴやゴーストノートにはもっとも向いていないでしょう。
ヴァイオリンが、特にSwingしているジャズには向いていないことや、
インテンポグルーヴの音楽と、テンポを揺らすクラシックなどの音楽での、
楽器の選択肢がかなり異なることの要因でしょう。


☆74 タテノリヨコノリナナメノリ


『ここはタテノリだからね!』とか、
『ここはSwingしないと変だよ〜』とか、
生徒に言わないとならない時がしばしばあります。

『世の中のインテンポの音楽のほとんどはこの、
タテノリとヨコノリのどちらかに当てはまります』

 

が、
これらが混在すると、グルーヴは半減してゆくでしょう。
なので、その場面場面でどちらでやるのかハッキリさせたいところなのです!

でも、そもそもタテノリがあるなら、ヨコノリがある筈なのに、
あまりヨコノリっていう言葉は聞かないですね。
おそらくそれは、
『Swing』とか、『Shuffle』もしくは『Shake』という言葉でヨコノリを表現するからでしょう。
『Swing』だけは、ヨコノリの中でも、ジャズの4ビートのことを指します(英語では4ビートのことはただ、Swingと言うだけです)。
ロックやフュージョンなどの、ウォーキングベースのない中でのヨコノリが『Shuffle』というだけです。

さて、そのヨコノリの定義は、
『8分音符、もしくは16音符などの単位の「ウラ」が、後ろにずれて短くなっている』ということです。
これは意外にも結構普通なことで、
あまりインテンポ音楽が普及していたとは思えない日本のお祭りの音頭なんかでも、
普通にそうなっていて、ヨコノリ、というかSwingしてるのです。
つまり、
『ウラを遅らせて出すグルーヴは人間にとって気持ち良い』
と言っても過言ではない気がします。
問題は、どれぐらい遅らせるかですが、ある時、スタジオミュージシャンとしての仕事の現場でのことを漏らしていたドラマーがいました。

「〇〇ちゃん、この曲はちょっと跳ね方が違うんだよね〜。ちょっと75パーぐらいのシャッフルでよろしく〜」
と言われ、幾らプロでも、機械ではないので、そんな絶妙な跳ね具合の調整をできるわけないので、
適当に跳ね具合を変えて叩いたら、
「いえい〜バッチリだね!」←んなわきゃない
という具合に仕事は終わったそうですが、
コンピューターで打ち込みをするならこの跳ね具合は数値で指定できますが、
実際に演奏する場合は、基本的には『Shuffle』の跳ね具合は、譜面に書けるぐらいに、
ウラが3連符の3つ目、という具合にするのが一般的でしょう。
そこにきて『Swing』がかなり独特だと思われるのが、概ねテンポに合わせて自然に変える傾向があります!
テンポが速ければ跳ね具合が少なくなり、激速になると、Swingしなくなってゆき、最終的にはタテノリに飲み込まれます。
テンポが遅くなれば、裏は3連符の3つ目だったのが、4連、5連、、、、どころか7連、8連の最後の音符の長さへと変化して行きます(この場合の連符は目安に過ぎないアバウトなタイミングのことなので、後述するCPJのナナメノリとは違います〜ああ紛らわしい〜)。
逆にテンポが超のろいのに3連の3つ目にすると変な感じすらします。
ただ、これはドラムなどの場合で、ウワモノのソロのフレーズがそこまでSwing度合いを強めると、すごく変な感じになるので、
のろいSwingでもそこまではウラを遅らせないでしょう。ということは、つまり、
『Swingでは、ウワモノとシタモノ(ドラムやベース)で、違うSwing度合いをして共存している!』
という謎な現象があるのです!
不思議ですね〜。

さて、最後に、CPJ特有の概念に関して触れてみます!
それが、

『ナナメノリ』

です!
これはある意味、CPJ名物の一つでしょう!
何せ、冒頭に述べたように、世の中のインテンポの音楽はまず、
『タテノリ』か『ヨコノリ』のどちらかに分類できますが、
CPJに特有な、変拍子(これは以外とほぼタテノリです)ならぬ、
『変連符』
という概念における、
5連符、7連符、11連符、13連符などの素数連符の中の音符は、
まず、『ウラだオモテだ』という概念からすら解放されるのです。
例えば7連符の2つ目は裏っぽい感覚がありますが、4つ目がどうなのか?6つ目なんかに至っては何だかどちらかというとオモテっぽい感覚になったりする、というぐらい、明確なオモテとウラというものは全くなくなります。
ここで一句、

『CPJ ウラオモテない ナナメノリ』


☆75 キメやブレークによるメリハリ


インテンポの音楽には、あらゆる手法でグルーヴがもたらされて、
それが生き生きとした感じを出すのですが、
そのグルーヴが成り立っている上で更にそのスリルを向上させる仕組みが、
キメとか、ブレークではないでしょうか?
ジャズでも、たまにキメがある曲があり、
ブレークに関しては、ソロイストがソロを取り始める前にパっと2小節ぐらいリズム隊が止まって突然無音になるブレークを作って、
突然ソロイスト一人きりになる瞬間をもたらすことが結構やられていました。
元のテンポが速ければ速いほど、そのブレーク感は格好いいものになります。
そして、キメに関しては、これが圧倒的に増えたのは、
やっぱりジャズが他の音楽と融合して、フュージョンと呼ばれる音楽がで始めてから、俄然増えたような気がします。
人によってはギミックって言ったりするこれらの仕組みを最大限に活かす為にも、
それまでのグルーヴのクオリティーが大事になります。
それは、もちろんキメやブレーク自体のクオリティーも大事で、
全員のタイミングがバッチリ合っていればいるほど効果が倍増します。
その為に日々プレイヤーたちがタイム感を、演奏技術を磨き続けているのです。
CPJはキメが多いと言われる音楽です。それはもちろん松井がキメが好きだということと、
グルーヴの成果を如実に増幅する構造だからです。
「松井くんってキメが好きだよね〜」
と言われたら、
『そうです!キメが大好きですね!』
と言ってしまいます。
キメが好きで何が悪いっ!


☆76 たかがシンコペされどシンコペ


さて、あらゆるポリリズム、変拍子、変連符などの、難易度の高い概念がありますが、
以外と舐められない伏兵がもう一つあります。
それは、もう大昔からある概念であり、当たり前のリズム的構造なのですが、それが
『シンコペーション』です!
これがかなり頻繁に用いられる音楽の代表格は、
キューバのアフロキューバンでしょう。
アフロキューバンもさすがに最初はシンコペーションはなかったようなのですが、
今では、へたすると毎小節のベースラインがシンコペして、
元のテンポが速ければ速いほど、かなりの紛らわしさと緊張感をもたらします!
でも、それを正確にやってのけた暁には、やはりとてつもないうねりが生まれ、それがグルーヴになってゆくのです。
しかも、そのベースラインにおいて、シンコペをやるかやらないかは、決まっていない場合は、
ベーシストが思うままに、シンコペしたりしなかったりすることが許されていて、
逆にたまにシンコペしない、ということが効果をもたらします!
シンコペも全ての小節がシンコペした場合、へたすると聴き方によってはシンコペでなくなってしまうので、
たまにシンコペしないことの効果は絶大です。
さて、難易度で言えば、譜面で見た感じは大したことないこのシンコペですが、
裏から伸びたまま小節線を越えた場合に、モトテン(元のテンポ)が揺らいでしまったり、
感覚がずれたりすることが起きます。
そういうことがないようになるまではやはりトレーニングが必要なのです。
実は、変拍子を難なくやっていたり、変連符までこなしているプレイヤーですら、
場合によってはこの伏兵、シンコペに幻惑されてしまうことは意外によくあるのです!


☆77 変拍子と変連符とポリリズム


さて、リズムのお話の中で何度となく話題に出ている「変拍子と変連符とポリリズム」という、
3大変リズム、というべきでしょうか?
変なリズムと言えば思いつく3つの要素はどんなものなのか、ということに関してのお話です。
この3つは似て非なるものであり、
意外と世の中であまり認識されていないものです(意外でもないかも)!
よく、松井と言えば変拍子、というレッテルを貼られている場面がありますが、
そういう意味では、変拍子というのは松井の中では一つの要素に過ぎず、
本人の中では、
『う〜ん、そういうことでもないんだけどなあ』
と思う場面は多いです。
もちろんハーモニーなど他のことに関してもめちゃこだわっているので、という側面もありますが、
例えば、変連符の曲の感想として、変拍子と言われる時、何だかモヤモヤします。
なぜなら、変拍子と変連符は、似て非なるものであり、
ある意味、全く別の概念だからです。
『変拍子』は、一小節の中の音符の数が変なもので、13/16拍子であれば、それは、一小節に13個の16分音符があるので、
13個進んだ瞬間に次の1拍目が来るという感じで、小節の変わり目の一拍目をダウンビートとしてドスンとそこにのっかかる感じです。
『変連符』は、一拍(もしくは二拍や他の長さ)を幾つで割るかを変えていくものなので、
例えば、7連符であれば、一拍(など)を七等分して、それでも一拍一拍を普通に感じ続ける感じです。
ただ、大きな違いは、変拍子だと、小節の最後に来てちょっと足りなくなったり、増えたりしてガクっと来るのが楽しい感じですが、
変連符の場合はそのガクっがない変わりに、最初から一拍の中を正則分割する技術を問われています。
正則分割した上でその中を抜いていろんなリズムを構築した暁には、とてつもない浮遊感のある不思議な新しいリズムが生まれる新鮮なリズムの宝庫でしょう。
そして、ポリリズムは、ある一定の違う周期で繰り返すリズムで、あらゆる形でずれてゆきます。
普通の拍子の上でももちろんズレられますが、複合的な複雑性を得るために、
『変拍子』の上でも、『変連符』の上でも、『ポリリズム』を導入することができます。
一番究極なのは、この3つを同じ小節の中に統合することは、どうにか可能で、
変拍子の小節の中で、途中まで変連符で来て最後(もしくは最初や途中でも可能)を半端にして変拍子にした上で、その上にポリリズムも乗っける、ということも可能です。そういうことを実践した曲はCPJの中でのみ、例えば、31.GX001.Groove Xの冒頭などにあります。
どれだけマニアックなんだ〜?


☆78 時間の正則分割


さて、ここまで何度か話題に出てきた
『変連符』に関してですが、
この概念ほどわかりにくいものはないようなんです。
ただ、この概念はCPJの中では非常に重要な概念なんです!
松井がバークリーで勉強していた頃に、
「ポリリズム」という授業がありました。
そのクラス自体はドラム専攻の生徒以外でもとるような傾向がありましたが、
より専門的な、
「ポリリズム2」というクラスとなると、
学期の最初の段階で3人しかおらず、
最後まで受講して課題をこなして単位を取ったのは松井一人でした!
それぐらいマニアックな概念なのかもしれません。
さて、この概念も、インテンポとそうでないものでは、全く意味が異なります!
昔からクラシックの譜面の中にも、
10連符だとか、かなり大きな数の連符が書いてることもありますが、
これはある意味、全くインテンポでなく、
ある一定の音符の期間に10個の音が入れば、各音の速さは自由なのです!
そうでなければ逆に相当に演奏の難度は高いものになります。
さて、CPJの場合の『変連符』の場合は、
11だったら11で、一拍などの長さを完全に11分の1に正則分割します!
完全、、、
と言っても限りなく完全を目指しますが、
人間ができることではありませんが、
それが何らかの意味をなすレベルまでの正確さを目指して練習して、
11連符だったら11連符の感覚を身につけるのです。
これは並大抵のことではなく、
松井自身もそれを専門にしながらライフワークとしているレベルです。
そして、なぜ正則分割しないとならないのか!
それは
「間を抜いて休符などを得て新しいリズムを獲得すること」と、
「その上で違う連符に移動してとてつもない浮遊感を得ること」の為なんです!
それから得られる不思議感や浮遊感は、
変拍子のそれとは違う次元のもので、
グルーヴの桃源郷と言える境地でしょう!
あらゆるCPJの楽曲に変連符は使われていますが、
1連符から11連符まで全て使われている例として、81.фж001.Южен Фолк дЖаз(ユージェンフォークジャズ)なんかが、長い曲の間に同じテンポのあらゆる連符を旅する曲です。


☆79 抜けば抜くほど


変連符の重要なポイントとして、
「間を抜いて休符を作り新しいリズムを創る」
ということを挙げましたが、
これはそもそも普通の8分音符や16分音符に相当する2連符や4連符の、
一般的にどこにでもある音楽においても、
ずっと同じようなことが、
ジャズに限らず、インテンポ音楽では行われてきました。
例えば、クラシックの達人にもし真っ黒に埋まっている難しい譜面を見せたとして、
それに休符が一つもない場合は、
驚異的な読譜力で初見でバ〜っと演奏できてしまうでしょう。
それこそ、極限的な初見能力も、絶対音感と同じく、
子供の段階でしか身につかないものです。
それは完全なるバイリンガルになる為には、子供のうちにそれらの言語に触れていないと無理であることと同じです。
しかし、そのような達人でも、
もし休符が間にたくさん入っているとどうでしょう。
それは全く別次元に彼らにとって読みにくいものになることがほとんどです。
そういう時に、失礼ですが、少し安堵感を感じてしまいます。
何しろジャズマンのほとんどはそういう驚異的な読譜力はなく(例外はいますが)、
それ以外のところに存在意義を感じざるを得ない中で、
リズムが歯抜けになったものは、特にフュージョンが出てきてからは散々トレーニングするので、
それが生命線になっているわけです。
さて、たかが16分音符でも、歯抜けになっているもののあらゆるパターン、そして、それらがシンコペして繋がっているもの全てにおいて、全くモトテン(元のテンポ)がぶれずに演奏できるようにするには、
結局のところそれらのあらゆる組み合わせを網羅して練習していないとなりません。
「抜けば抜くほど」難しいのです。
全ては地道な練習によってなり立っています。
そして、CPJで登場する、
『変連符』の歯抜けと、
『変連符』から『変連符』へ移動する、『多変連符』の中での休符の正確さを磨くのが、
CPJプレイヤーのライフワークとなっています。


☆80 時間の正則分割にも認知しやすいモチーフ


「このバンド、練習不足なんじゃないの〜?」
これが、自分が若い頃、唯一なかなか辿り付けないようなリズムの精度で演奏していると思って聴いていたバンドの演奏を聴いた時の、
音楽は全くやっていない人の感想でした。
ここまで正確無比に、異常な精度で変わったことを演奏すると、下手に聴こえるのか〜と、
複雑な気持ちになりながらも、自分は迷わずその後も、人々に認知されるものとは甚だしく乖離している
「時間の正則分割」に邁進し続けましたが、、、、、。
さて、エッシャーが、複合的な次元や重力、もしくは、複数の全く異なったモチーフ自体を使う時に、
認知しやすいモチーフを使うという話を「周波数の正則分割」(☆59)のところで話しましたが、
周波数(つまり音程)の正則分割だけでなく、
時間(リズム)の正則分割をする変連符や、変連符上でのポリリズムに関しても、
やはり認知しやすいモチーフを使うのが効果的でしょう。
これはかなり専門家達ですらもともと元来認知しにくいような概念なので尚更です。
まず、普通の変連符の認知の助けになるモチーフは、
例えば7連符で言えば、7連符の7つの中で、どの位置に打点を置くかの組み合わせが128個ありますが、
その中でも、
「座りの良い組み合わせ」と、
「座りの悪い組み合わせ」があります。
これは不思議なもので、
スケールの中で創る音列にも
「座りの良いもの」と「座りの悪いもの」があるので、
音程に関しても、リズムに関しても、
正しい素材を使っていても、そこには、よくない使い方は潜んでいて、
素材の選択さえあって入ればそれで安心ということは全くないのです。
さて、7連符の中でのその「座りの良い組み合わせ」の例として、
7連符の「1,3,4,6個目」を打点とするモチーフについて考えてみましょう。
「たったたったっ」という感じ、もしくはこれは打点に過ぎないので、伸ばすポイントを創ると、
「たったたったー」とすることもできますが、
このモチーフは比較的埋まっているので、演奏はしやすい方です!
が、それでも、人間は親しんでいるリズムにどうしても吸収合併され易い為、
これが、「たったたったーー」(8連符)とか、「たったたった」(6連符)とかにうっかりなり易いのです。
逆に座りの悪いモチーフの例は、
7連符の「5個目」だけを演奏するとかです。
これでは、「ーーーーたーー」だけなので、演奏の難易度は極端に高くなりますし、
単にリズム感の悪い人が下手に演奏しているようにしか聴こえないでしょう。
まあ、そもそもこういう連符上での演奏全体が、
「ヘタクソに聴こえる可能性」に満ち溢れているのですが。
さて、前述の、7連符の「1,3,4,6個目」を使って、何拍か連続して、
「たったたったーー」「たったたったーー」「たったたったーー」「たったたったーー」と演奏すると、
さすがに一般的にも、これは、何かの意図があって、このリズムになっていて、
何だかどうやら正確に演奏しているっぽいぞ!
というぐらいには伝わるようになるでしょう。
そして、更にはポリリズムの場合ですと、
例えば、5連符の中の座りの良いモチーフの例として、
5連符の「1,3,4個目」に打点を与えた「たったたっ」というモチーフを取り上げ、
それを7連符上に7連符として乗せると、5対7のポリリズムになります。
これが、7分の5拍を周期とした5/7拍フレーズとなります!
以外と5対7はいろんな意味で相性がよく、混じり合わないことによって認知し易い為、
CPJのあらゆる楽曲に乱用していますが、
例えば、冒頭で11/7拍(7連符の11個取り)のメロディーでギターが弾き始める曲、18.LD008. Asteroid Beltなんかがあります!!
5/7拍ポリはあまりにあらゆる曲で使ってしまっていますが、古くは、11.LD001.Jubilanceなどで使いました! 


 

 9. 究極の音楽CPJへ

 


☆81 デタラメに見えること


フィンランドを放浪していたある時、
あまりにも暇だったので、
全くわからないけど、ある美術館に入ってみました。
そしてそこに展示してある作品を見て、なんとも不思議な気持ちになりました。
はっきりは覚えていませんが、
赤い三角の図形と、青い四角の図形と、黄色い丸の図形、
確かそんな作品がありました。

美術に関して、完全に門外漢である自分にとっては、
そこにある作品がなぜ、どう意味で素晴らしいと思われているのかが全くわからなかったのです!

そういうことから推察するに、
もしかしたら音楽においても、
音楽をやっていない人からみたら、
どんなに緻密なことをやっていても、
もしかしたら出たらめに聞こえているのかも知れない。
と、この時点でもなんとなく思っていました。

その後、何十年と音楽をやってきていて思うのは、
真逆の概念が似て見える、というシチュエーションがかなり多いというぐらいに、
人々の認識がかなり混沌とした中にある、ということです。
一番シンプルに言えば、
「同じもの見ても(聞いても)、それは人によって全く違うものに見えている」
ということでしょう。

例えば、極端な例で言えば、
「理論は全く無視してフリージャズをやった音楽」と、
「細密描写的にかなり細かく考えた上で複雑化したものを演奏した音楽」は、
結果的にはある意味ではかなり密なことをやって、
結果的にはハーモニー的にも12半音をコントロールした形と、コントロールしない形でではあれど、使っているし、
リズムにおいても、緻密に突き詰めて誰も取れないリズムを繰り出したものと、最初からリズムになっていないのでわかりにくいもの、
それらはかなり類似して聴こえているようです!
つまり、
努力して、「内容を緻密に高めることに成功すればするほど、聴こえ方はでたらめに近づく」
という傾向があるようです!
ただ、音楽を専門にしている側からすれば、
『ザ〜っと流れるコード進行に対して合っている1000個ぐらいの複雑なアドリヴフレーズがあったとして、一個でも間違っている音があれば(大体のケースでは)瞬時に分かります!』
ただ、美術がわからない松井が見た抽象的な美術作品がある意味でたらめに見えたように。
これは悔しいことですが、美術には、自分にはわかり得ない何かが潜んでいるようなのです。


☆82 意外と保守的なCPJ


世の中では、おそらくCPJ、つまり松井が創っている音楽は、
最先端をうたっているし、
トリックアートだし、
変態だ、って言われてるし、
よっぽど奇を衒ったもんなんだろうと思われている節があります。
が、結論から言うと、
「恥ずかしいほどに保守的」
だと思っています。
というのは、
ハーモニー的には、
クラシックから脈々と受け継がれてきた和声をベースにしたジャズ理論の上に構築して、そこから外れる場合は、理由があって外れるけど、滅多なことでは外れないようにしている音楽だし、
リズム的にも、インテンポのグルーヴを出すにはとても困難であたかもグルーヴに興味ないようなことをやりながらも、
常にそういう状況下ですらグルーヴを出せるように邁進しているのです。
しかも、それらが、
理論先行に少しでもなりそうな状況を徹底排除し、
その瞬間瞬間に、本当にその音が自然に耳に鳴るものか、というのを検証していて、
自然さを常に優先しているのです。
つまり
『砂上の楼閣』
からはほど遠い、
基礎工事にばかり何十年もかけるような感覚の音楽なんです。
それだけに膨大な時間を要しますが、、、。


☆83 変なようだが必然性と普遍性が


CPJという音楽は、ちょっと変なので、音楽の主な本質からそれているものに見えたりするかもしれません。
そして、何もそこまで進化する必要があるの?
というぐらいにとことんまで進化をしている音楽ではありますが、
意外と保守的(☆82)であるCPJで遂げられてきている進化というのは、
必然的であり、普遍性もあるものだと思っています。
というのは、例えば、リズムの進化一つとっても、
大昔のジャズで、
「表の4分音符を裏にしてみた」
という進化は、それまでの表だけの音符では飽きてしまった。
それだけのことで進化させました。
それでも飽きてきたら、
いろんな違うウラの音符を試してみたり、
シンコペーションを加えたり、
16分音符のウラも使い始めたり、
変拍子を使ったり、
ポリリズムを使ったり、
変連符を使ったり
次のステップ、また次のステップと、どんどん進化させていったのがCPJなだけで、
つまり進化した大元にあるものは非常にシンプルな必然的で自然な進化に遡ることができます。
ハーモニーでも同じことが言えます。
それらは何一つ突然突拍子もなく行われた進化ではなくて、
着実に一歩一歩自然に必要にかられて進化して行ったに過ぎないものです。
ただ、その度合いが極端にとことんまで進んでいるということです。
松井はなんでも極端なことを好むし、
どうせならなるべくできる限り人間ができる限界までやりたい、という気持ちがあるのは確かです。
ただ、進化のベクトルからは逸脱しない、
意外にも普通な流れなのです。

ただ、だからと言って、
「変態呼ばわりしないで!」
とは決して言わないです。
それは昔から単に褒め言葉と勝手に解釈する傾向があり、
全く不快には思わないのです。
『ヘンは最高に正直である証』だと思っています!


☆84 ナナメノリは地球を救う


タテノリヨコノリだけでなくナナメノリ(☆74)がCPJにはある話をしましたが、
ナナメノリなんて言葉を使う人はおそらく松井以外にはいないでしょう。
そもそもインテンポの奇数連符の中抜きを使っている音楽自体がほとんどないので、
それを表現する専門用語もないのです。
さて、日本人にある傾向としては、
ウラが苦手な人の比率が高いようです。
統計をちゃんととったことはないですが、
明らかに、ウラの感覚がない人は多いでしょう。
自分の生徒の中でも、かなり弾ける上級者の中でも、
かなりの数ウラが苦手が人はいます。
さて、松井は、希望する人が入れば、誰にでも、CPJの曲を演奏してみることは歓迎しています。
CPJに限らずもともとなにかすごく背伸びをしてチャレンジすることがある時には、
それがかなり無謀であっても歓迎しています。
それはポジティブなエネルギーが発生していることなので、素晴らしいことだという単純な理由であり、
音楽では失敗してもスポートなどと違って怪我をしたり、命を落としたりすることはないのです。
そしてそれが時期尚早だと分かった場合に、あとで微調整をすればいいだけのことです。
そこで、だんだん気がついてきた現象があります!
実は、以外とうちのmujik clinique JJのアンサンブルなどの生徒の中には、
『普通の4拍子の裏よりも、変拍子や変連符の方が得意な人が多い』ということです!
これは『嬉しい誤算』です!
もしかしたら、もともとウラがきちんと取れていてリズムが得意な人の方が、
変拍子や変連符に対して拒否反応を起こしやすいかも知れない。
というのは、表あってのウラというのを完全に刷り込んでいて、
それがどっちともつかない、ということには慣れていないからだと思います。
そこに来て、変拍子はまだ表裏を小節の途中までは感じたりすることもあるし、
感じようとすれば感じられますが、
そこにきて、『ナナメノリ』としている『変連符』ともなってくると、
ほとんと、1個目の音符以外は表とも裏ともつかない不思議な感覚になります。
なので、それまでに「ウラ」という概念の刷り込みがない人にとっての方が抵抗がないのでしょう。
もちろん普通の4拍子のウラも得意な上で両方できるに越したことはないですが、
ウラが苦手な日本人にこれは朗報かも知れません!
ただ、ナナメノリという概念自体がまだほとんど知られていないのですが(←そこだ問題は!)


 ☆85 プログレとハーモニーの両立は飛車角


さて、CPJのCはContemporaryで、PはProgressive、Jがjazzですが、
これらの言葉の定義も完全に浸透している共通見解のない言葉なので、
松井が意図している定義をここに書いてみると、
コンテンポラリーは、ジャズにおいて、モダンジャズまでの、トーナルセンターがあった上で、
そこから調性がジャズ的ないろんな構造を用いて変容する、というところまでのジャズだとした場合に、
その後発展した、ウエインショーターやチックコリアなどが使った技法である、
トーナルセンターはなく、一時的調性の集まりであるマルチモーダルなジャズを指す言葉がなかったので、
これを表す言葉として「コンテンポラリージャズ」を使う人が若干いるので、
「マルチモーダル」なジャズという意味合いで命名しました。
そして、プロフレッシヴは、基本的にはロックにかざされて、プログレッシヴロックというジャンルはかなり
共通認識としてありますが、その定義の中にはっきりと、「変拍子」という部分が定義されているかが未だに定かではないですが、
一応ここでは、「変拍子」や、中には「変連符」までを含む、という定義でここに入れました。
なので、簡単に言えば、
「マルチモーダルで変拍子なジャズ」
もっと専門用語を外して噛み砕くと、
「ハーモニーもリズムも変なジャズ」
ということになります。
さて、それにしても未だかって、このような音楽はなぜなかったのか?
よく不思議に思っていました。
例えば、プログレッシヴロックで変拍子な曲、もっというと、その中でも、
Frank Zappaなど、唯一変連符(基本的に埋まっているものですが)まで使っていたプログレ、
それらの音楽は、必ず、ハーモニー的にはかなりシンプルでした。
そして、コンテンポラリージャズのように転調激しい音楽は、大体リズムにおいてはかなりシンプルでした。
でも、松井の欲望は止まりません。
『これらの要素、なんでもかんでも同時に進化した状態を創ってみたい!』
というのが、松井にとって自然な欲望でした。
それはそもそも、高校ぐらいまでで、聴いた音楽のリズムやハーモニーが大体構造がわかってしまうものなので、
自分にとってもわからない、刺激的な音が欲しい!
ということで創り始めたという経緯がありますから。
ところがそれからやり続けてみると、
更に少しわかったことがありました。
なぜ、「コンテンポラリーでプログレなものが皆無なのか?」
それは「演奏が非常に困難である!」ということです。
飛車のような縦の動きと、角のようなナナメの動きを、両方極めて、チェスのクイーンのような動きをして、
全能にならないとならないというようなものだったのです。
でも、やはりその困難さを理解した上で、
CPJを実現する旅を続けています!
それが使命であるとか、そういう大袈裟なことよりも、
とても『ムズ楽しい〜』からなのです!


☆86 クロスカントリーが書き譜でジャンプがアドリブ


スポーツの競技で、かなり昔から行われている、
「ノルディック複合」
という競技がありますね。
これは、スキージャンプとクロスカントリーの合算で順位を競うものですが、
全く違う2つ競技に長けていないとならない競技で、
筋肉が必要なクロスカントリーと、
筋肉をあまりつけては体重が重くなってしまって向かなくなるジャンプとの組み合わせなので、
ある意味両立が大変なことなんです!

さて、なんでこんな話になっているかというと、
単に松井がスキージャンプが好きだというのもありますが、
CPJをやっていて、その大変さがこのノルディック複合とかぶるところがあるからなんです。
普通のジャズだと、決まっているメロディーの部分で書き符になっている
「テーマ」の部分は、
そんなに長くもないし、
一部難しいものもあるけど、そんなに難しくもないし、
しかも、フェイクしちゃってもいい、という温度感があり、
ジャズマンはとにかくテーマに関してはある意味で無頓着です。
自分のかっこいいアドリヴをとることに終始しているところがあります。
そこにきて、クラシックのほとんどは、
全てが書き符で決まっています。
それだけに、それが全てであるだけに、
その書き符の量も半端なければ、
難易度も半端でなく、
しかもそれに対して求める精度も目を見張るものがあります。

さて、相反する2つの要素である、
「書き符」と「アドリヴ」の両方に対して、
とことんこだわりたいと思っているのが、CPJの特徴です。
「書き符」の部分はなんだか堅実で、「クロスカントリー」に似ていて、
「アドリヴ」の部分はなんとなくちょっと博打でやんちゃなところもあるけど、実際にはテクニックも必要なのが、「ジャンプ」の部分に似ていると思います。
そして、この両方を鍛えるのには並大抵の努力では足りないし、
どちらかを強化していると、どちらかが劣化し兼ねない2つの概念なのです。
現に、CPJのプレイヤーでも、大概、得意分野がどちらかに偏っているので、
その苦手な方に重点を置くわけです。
ちなみにクラシックの教育を受けていない松井の場合は、学生の時点で、「アドリヴ」の方が圧倒的に楽な状態から始まっているので、
それから生涯かけて「書き符」を強化しています。


☆87 トライアスロン×ノルディック複合


さて、CPJがある意味、ノルディック複合(☆86.)だという話をしましたが、
更には、それ以前のこととして、楽曲の構造自体はそれ以前に、
トライアスロンのような感じです。
ノルディック複合よりだいぶ歴史は浅い割にやや知られているトライアスロンは、
「マラソン」「自転車」「水泳」という3つの競技を組み合わせたものですね。
CPJの楽曲の構造の中には、
全ての曲ではないものの、
「メロディー」「ハーモニー」「リズム」という音楽の基本的な3要素の全てにおいて、
できる限り進化したものを採用しています。

「メロディー」に関しては、そのメロディーの構造に関してもあらゆる工夫をしてリックリンキング(JT089)(☆57.)アウトライニング(JT090)(☆58.) までを導入して進化させています(ここは曲によりますが)!

「ハーモニー」に関しては、マルチモーダル(JT039) (☆69.)やポリモーダル(JT040)までの全てのハーモニーを導入していて、
調号は使っていないので、それまで基本的なハーモニーの構造は使っていないようで瞬間瞬間には反映しています。

「リズム」に関しては、再三話題に出ているように、変拍子、変連符、ポリリズム(JT093〜JT100)まで(☆77.)を頻繁に使用してリズムの極限を導入しています。

これらの3つの要素を実現するのは、そもそも、
ハーモニーとリズムを両立する時点(☆85.)まり前例がないぐらい大変なことですが、_
それにプラスして「メロディー」の要素を極めることの大変さが、
3つの異なった競技をやっているトライアスロンに被るのです。

そしてしかも、CPJでは、同時に別の階層にあるような概念である、
「書き符」と「アドリヴ」があることのノルディック複合的な部分があることを考えると、

『トライアスロンとノルディック複合』をかけ合わせたようなものであるということになります!

では、なぜそこまで大変な思いをするのか?

それはその先にある桃源郷、その桃源郷に到達する途中の絶景が素晴らしいからです!


☆88 全ての曲は難曲であること


「モーツァルトが一番難しい」
という言葉をたまにクラシック方面から聞きます。
最初は、一体どういうことなのか、なんとなくは想像つくけど、
と、クラシック門外漢の自分からすれば、想像するぐらいしかできない概念でした。
何しろ、譜面上、単純に「難しい」ということで言えば、
その譜面の音を全部その通りに弾くという難しさで言えば、
クラシックにはゴマンと難曲があり、
モーツァルトは比較的シンプルに見えるからです。

ところが、音楽を長くやればやるほど、
それがジャズであっても、同じような傾向があることに気がついてきます。
結論から言えば、
「難曲」というのはなく、言ってみれば、
「全ての曲が難曲」
であり、つまり全ての曲の難度が同じだとすると、
そもそも、
『難度という概念もない』
ということになってきそうです。

 

これはどういうことかというと、

一番極端な例で説明すると、
CPJの楽曲の中で、単純に具体的に難しい要素がてんこ盛りで、譜読みにかかる時間などで言えば、
最大の難曲は、
1.JF001.Junky Funkと、2.JF002.Funky Junkの姉妹曲あたりになるでしょう。
何しろそうなるように書かれていますから。
そして、ジャズの中でも、初心者がよくやることになる曲の一つが、例えば、
St. Thomasという曲がありますが、
これは、コード進行がシンプルで、厳密に言えば、幾つかのスケールが必要になりますが、
ほとんどピアノでいうと白鍵で弾ける曲です。
それなら簡単だ、ということに普通はなるわけですが。
『なんらかの充実したいいクオリティーの演奏をする』
というのが音楽に於ける目標だということを考えた場合に、
例えば、たくさん転調があって、スケールが変わり続ける曲というのは、
そのスケールをつないでリックリンキング(JT089)(☆57.)ことを散々練習していれば、
本人は何も考えなくてもそこそこのクオリティーで、そこそこ楽しい演奏になるのですが、
St.Thomas ぐらいまでにシンプルなコード進行の上で何かしら充実させる為には、
ほとんどまるっきり自分の発想力で紡いでいかないとならないからです。

では、他の側面である、リズムをとっても、
CPJの楽曲では、『変拍子』『変連符』『ポリリズム』(☆77.)などの極端に複雑で難しい要素がてんこ盛りなので、
具体的には難しさを欲しいままにしていますが、
それと比較して、極端にシンプルなこととして、
カウベルで4分音符をずっと叩き続けることが簡単なのか?
を考えると、
一つは、他になんの基準になる音符や、ウラの音符が入っていない中で、
機械のように正確に4分音符を叩くことは、
相当な集中力を要するということと、
もし仮にちょっとでもそれが不正確になったら、
誰にでもわかってしまう、という部分でも、非常に難しいなあ〜という気持ちにかられるのです。


☆89 幾多の難関を乗り越えて『ボーッ』の境地


CPJは、ジャズ理論的にも、リズム的にも、随分と細かく捉えていかないとならない音楽なので、
その時点では、完全に左脳をフル稼働していないとならないでしょう。
そして、下手すると、それに一生かかってしまうのではないかと思われるぐらいの量の情報をクリアして行かないとなりません。
なので、それではいつ右脳を起動するのか?
感覚に委ねられる日は来るのか?
と考えてしまうかもしれません。
松井自身も、どうにかこの具体的情報処理をいつか卒業して、
「感覚だけで演奏したい」といつも思っていましたが、
どうやら、具体的情報という方にも終わりはないことにある時点で気がついたのです(←遅い!?)

 

世の中のあらゆる概念がそうであるように、
機械的に、「ここからここまでがこれ!」という風にスッキリいくことはあまりないのだと思われます。
世の中の、地球上のあらゆる概念もそうだし、
政治も、宗教も、科学も、意外とそんなにスッキリいった試しがありません。
ジャズ理論のモーダルインターチェンジなんかでも、
あらゆるモードからとってきたコードを投げ込むことはできますが、
その、どこまでがOKで、どこからは変であるとかの境界線などは特にありません。

そういうことから、この、右脳に委ねるタイミングも、
左脳で考えることがすべてクリアしてから、というのは、
可能であるとすれば、せいぜい、
『楽曲ごと』
になら、人生の中で、「この楽曲では具体的情報は寝ていても出てくるぞ」というところまで慣らした上でなら、
『ボーッ』としたような状態で、
具体的情報ももちろんクリアしている状態で、
解き放たれて、
充実した演奏をいいクオリティーで実現する!
という境地も可能であると思います!
まずはその境地を目指して邁進したいものです!


☆90 フリー券の獲得


 「あ〜あれね。ただのスタンダードみたいよ。」
などという表現をする人の中に、フリージャズ至上主義があたり前だという感覚の人が一定数いる日本では、
意外とフリージャズが比較的早い時点から流行っている感じがします。
それは、ジャズの生まれたアメリカで勉強していたものからすると、ちょっと違和感がありました。
というのは、本来フリージャズというのは、
ジャズをやり尽くして辿りつく境地であるはずなので、
なぜ、ジャズ以上に流行っているのだろう?
ということと、
ジャズよりも難解な筈なのに、リスナー層にも拡がっている。
ということです。
初めてジャズをやろうと思ったきっかけは、
聴いたときに、自分にはわからないけど、「どうやら何かすごい法則性がある!」
と感じたからであり、
学んでみると、あまりにも素晴らしい、
「持続的発展性のある構造」になっていました!
なので、自分が思うには、
冒頭の、「ただのスタンダード」と言われるジャズの方が、
意外と、スタンダードを否定しているようなフリージャズ信奉者が崇めているフリージャズよりも、
「圧倒的に奇跡的な持続的秩序を満たすだけの努力をして辿りついた崇高なもの」
である場合が多いのは、明らかだと思います!
そもそもそのフリーをやっているプレイヤーは、
スタンダードなジャズをちゃんとできているのでしょうか?
スタンダードを通ったこともなく、
面倒くさいから途中でリタイアして
「おれはフリーしかやらない」
となった人もいるし、
それどころか、ある時、例えば、ベルギーでは、初心者がフリージャズをやるのが流行っていて、
つまりは最初からフリージャズをやっている、とかいうことがザラにあります。
ただ、「ジャズができないのにフリージャズをやる」というその状態は、
「具象画」を描けない画家による「抽象画」ということになります。
そう聞いたら、ちょっと半信半疑、もしくは無意味なことに思うのではないでしょうか?

そもそもフリージャズ、という言葉だと、「ジャズ」という言葉がついていますが、
かなりの秩序があり、意外と非常に制約も多いのがジャズの隠れた特徴です。
「ジャズは即興だから自由だ!」
と思うのはジャズのインプロヴィゼーションを通ったことがない人が言う場合が多いです。
そして、日本で流行っている
「インプロ」
という言葉は、もちろん「即興」の約に当たる、インプロヴィゼーションの略なので、
即興という意味ですが、
暗黙の了解で、その定義は「フリーインプロヴィゼーション」を指すことになっているようです。
ただ、元々のジャズの中での「インプロヴィゼーション」という言葉の定義の中には、すでに、
『持続的発展性を持ったジャズ理論に基づく、機能調性を破綻させずに進行してゆく為の奇跡的秩序を実現しながらの即興演奏』
という意味合いが込められているのです!

なので、強いて言えば、
ジャズでなくて、「フリー」という、ジャズと関係ない「即興演奏」であるとすればいいのでしょう。
最初からジャズなんかを通っていない、
「即興演奏=フリーインプロヴィゼーション」
というものであれば、
あらゆる制約を最初から取っ払って、
本当に感覚だけで演奏することができて、
それはそれでジャズとは違う楽しさと芸術性があると思います。
即興は、作曲であり、それを瞬時にやる為、
『瞬間作曲』なのです。

ジャズのインプロヴィゼーションはそういう意味では、
『コード進行がある中での制約ありきの瞬間作曲』
ということになります。

「フリージャズ」に関して言えば、
本当の意味で、
必然性を持ってフリージャズに対峙するのには、
「あらゆるジャズを極めてやり尽くして」
自然に辿りつくのが正しい流れだと思っています。
ジョンコルトレーンのように、
『あらゆる秩序で自分を鍛えぬいたのちに辿りつく境地』
その境地になるまではフリージャズをやる権利はほんとはないというのが松井自身の感覚です。
なので、生涯を通してあらゆる秩序で自分を鍛えていますが、
いつになったら、自分は「フリー権」が得られるのかはわかりませんが、
一回のライブの中で一曲ぐらいのフリーをやる回数券程度の、
『フリー券』
ぐらいはたまにもらえている気がします。


 

 

10. CPJの啓蒙への旅

 


☆91 プロとアマの定義


世の中には、プロだとかアマだとかいう言葉があります。
ここに関しても、いろいろと不思議な気持ちを持って関わっています。
松井の場合は、
対外的には、「プロ」でないとクオリティーが低いと思われてしまう傾向があるので、
一応プロとして活動していますが、
本心は
『アマ至上主義
です!
それはなぜなのか?
簡単に言えば、
アマこそが素晴らしい!
アマこそが芸術だ!
と思っているからですが、そもそもプロとアマの定義でなんなんでしょうか?
そもそも英語からきているので、英語の定義で見てみると、
プロは「職業的な」で、アマは「未熟な」という定義が一番その単語の定義としてはメインのものとなるでしょう?
この時点で同一路線上にない、意外と混沌としちゃっている概念だということが分かりますよね。
なんせ、プロの方は、基準は経済にあり、アマの方はクオリティーにある状態ですから。
日本でこの定義に混乱をきたしたのも無理がないと思います!

とりあえず、日本での「プロ」という言葉のイメージはどちらかというと、
そのクオリティーの方になっている傾向があると思いますが、
敢えて、松井はここに関しては、経済の成り立ちの方の、ここでのプロの方の定義で一旦判断して基準を作ります。
それは松井の芸術論にも帰結するところですが、
『芸術』は自分の為、商業音楽は人の為、というのが持論でして、
音楽のプロというのは、商業音楽側ですから、
『人の為に音楽をやるもの』
そして、芸術家は、
『自分の為に音楽をやる』
ということで整理がつきます。
そうなってくると、本当に芸術に集中するのは、
『完全アマ志向』であり、
本当に純粋に長年の手練れで音楽を表現し、自分の磨いてきている耳で判断したところで、
本当にその究極の判断能力を持った上で、
「お客さんが喜ぼうと喜ぶまいと」
やってゆくのが、最もクオリティー高いものへの近道だと思います。
なので、松井はまめに、
『ちょっとでも「お客さんの為」ということを考えちゃったりしていないか』とマメにチェックします!
まるでひどい人のようですが、24時間365日何年もそのことを考えている本人の判断に委ねるのが一番だと思います。
何しろ専門的に何十年もやっていることに関しては、本人が良いと判断する能力が最もアテになりますから!
そういう意味で、深いところでは、
本人が素晴らしいと判断したものが、自分のことしか考えていない
「正しいアマチュアリズム」であり、
同時に、本来はこれこそが、
『真のプロフェッショナリズム』に繋がる、万人受けはほぼすることがない、
『本当のハイクオリティーな音楽』である筈なのです!


 ☆92 CPJを継続する術を模索する


CPJの活動を継続するのは、かなり大変なことです。
もちろん、ただ続けるなら、いくらでも方法はありますが、
なるべくそれはそれで高いクオリティーに保ちたいと思うと、

いろんな困難が待ち受けます。

これはジャズ全体、

芸術全体に言えることですが。

まず、大前提としてあるのが、

芸術は自分の為に!

商業音楽は人の為に!

ということで言えば、

本当の芸術=アマチュアリズム(☆91.)!

つまり基本的にその芸術的行為自体で収入を得るのは虫がいい、ということになります!

ただ、食べていく為には収入は不可欠(大富豪であれば別ですが)で、

音楽以外の仕事をすると、練習時間があまり取れなくなるし、

かと言って、音楽の中で、商業的な音楽のプロ活動をする場合でも、

芸術に活かす練習時間があまり取れない場合が多い上に、

芸術的感性を阻害するぐらい、本人の好みとは大きく乖離した音楽に携わらなくてはならないことが多いのです!

よくあるのが、

プロであるという状況を確保するあまり、自分の芸術的感性がなんなのかがぼやけてしまって本末転倒になるというケースです。

もちろん器用に、

これは収入の為の音楽、

これは自分の為の音楽、

と本人の中での棲み分けができて、

両立を綺麗にできている人もいます。

ジャズマンには非常に多いのが、

収入は先生業に委ねるというパターンです。

松井の場合は、

活動当初は、

音楽と関係ない方がよいと思い、

英会話講師や、通訳、翻訳をやりながらの活動をしました。

しかし、時間帯がジャズと被る為両立が難しくなり、やはり、

ジャズ自体を教えるようになりました。

最初は個人的に、

次は老舗のジャズスクールで、

そして大分経ってから、

自分のスクール、mujik clinique JJを立ち上げたのです。

それからやや落ち着いてCPJに取り組み始めました。


 ☆93 広島東洋カープ方式


日本のプロ野球でも、いろんなチームの運営のスタイルがありますが、

巨額の契約金や年俸を投じて既に活躍している大リーガーを取ったり、フリーエージェントになった一流選手を取るという、一時期批判されていたお金にものを言わせて強引に補強する方式とか、

一時期のオークランドアスレチックスのように、予算はないので、もっともコスパーの良い形して、記録的に低コストで優勝した方法とか、

そして、日本で広島東洋カープがやっているように、自前でドミニカにカープアカデミーを作って育てて、これもまたつまりかなり低コストで運営する方法などがあります。

 

そこである時、気がついたことがありました!自分がはじめていたmujik clinique JJのジャズスクールで、自分のCPJの楽曲を好んで演奏してくれている上級アンサンブルの弟子達を、すでに自分はかなり自分の仕事現場であるジャズクラブでの演奏にかなり引っ張りこんでいたのです。これはすでに、mujik clinique JJのカープアカデミー化かも知れないと!

 

ただ、野球の場合と異なるのは、ジャズの場合、外部のプロのギャラがべらぼうに高いから、ということではないのです。

ジャズマンという生き物は、一般的にはかなりわかりにくい生き物で、演奏の内容がプレイヤー冥利に尽きるものであれば、あまりギャラには頓着しないのです。もしそれが商業音楽的な完全な仕事でしかないもので、自分の個性を完全に封印しなければ成り立たない仕事だとかなりのギャラを求めることになります。ただ、そういうギャラのよい仕事は大事な収入源となっていたりするので、大々的に、「この仕事つまんないんだよね〜」とは言えませんが。僕には漏らしてる人が多数います。

 

では、ジャズのカープアカデミーが経済的な理由でないとすると、何なのでしょうか?

そこは、実はCPJに特有な部分なのですが、

音楽を生業にしているプレイヤーの多くは、あちこちであらゆる演奏をしないとなりません。そういう中で、一つ一つのライブの為の練習に裂ける時間は限られています。そういう中で、どんなに優れたプレイヤーであっても、CPJの楽曲群は、ものによりますが、まともに弾けるようになるのに、半月ならまだよく、一ヶ月、数カ月、もしくは、数年かかってしまう可能性があるものもあるので、忙しいプレイヤーはそこまでの練習時間を取れないところに来て、基本的にうちのカープアカデミーでは、毎月同じ難曲をリハーサルしているような状態で年中いるのですから、本人達の中にはプロもアマもいて、他の仕事に時間を取られている人がいても、流石にそれらの楽曲に特化した精通度は、外部のプロを遥かに超えてゆくわけです。

これがジャズ界における広島東洋カープ方式です!


 ☆94 クオリティープロという概念


プロとアマの定義(☆91.)の話しは意外と複雑でしたが、

我がカープアカデミー(☆93.)であるmujik clinique JJでのあり方の理想像があります。

それは、『クオリティープロ』という概念です!

今までに書いているように、

芸術=アマチュアリズム

であり、純粋な芸術を実現するには、

アマチュアであり、

自分の為に音楽をやった方がよい!

そこに来て、

「プロ」の一般的な定義は、

職業的、であり、つまり、

人様の為である、ということになってしまうので、

そういう意味でも、他の仕事をしている確率が非常に高い現在のうちのカープアカデミーのプレイヤー達は、アマチュアということになります。

しかし、そこで、

アマチュアの定義を再確認すると、

これはそのイメージ通り、

意外とプロの対義語ではなく、

「未熟な」どころか、「下手な」

というものまである、印象の悪い単語なのです!

そこで、立場がどちらであっても、

クオリティーだけはとことん突き詰めてプロを超えている状態をできる限り実現し、

立場や精神はアマ、

そしてクオリティーのみプロであるという、

『クオリティープロ』

という新しい概念を考えてみました!

CPJ軍団に関しては、これを目指して邁進します!


 ☆95 オヤジダンサーズによるノルディック複合


大分前に、パパイヤ鈴木という振付師が、

オヤジダンサーズというユニットを率いて活動していましたが、

これはなんともユニークな形態でした。

これは職業面でいえば、

CPJによるドミニカアカデミーのように、

あらゆる他の職業を持っている、

いわゆるアマチュアを引き連れての、

パパイヤ鈴木の活動でした。

それはまさに、松井によるCPJにおいてのカープアカデミーからのプレイヤーのライブシーンへの導入は、ややこんな感じでもあるのです。

そして、このCPJにおいては、

そのオヤジダンサーズに、

半端でなく複雑な最先端の踊り(この場合音楽)を演奏させてしまっているという、なんとも特異な状況であります!

なので、カープアカデミー的な、

mujik cliniue JJからライブシーンへ基本的に立場的にはアマの、そして、クオリティープロのプレイヤーの導入は、

『オヤジダンサーズによるノルディック複合』なのです!


 ☆96 暗譜の義務化から見えること


もともと松井個人としては、CPJに限らず、
ライブで演奏する曲は必ず暗譜した上で、
譜面を置かずに演奏する、
『暗譜至上主義』
なのですが、
2011年に、今のFJJF~Future Jazz Japan Festivalの前身、mujik CPJ Festivalと銘打って始めたCPJに特化したイベントで、
ほぼほぼカープアカデミー的な、mujik clinique JJからの精鋭で構成したライブにて、
『全員全曲暗譜』
というのを義務化する、ということをやってみました!

しかも、CPJの楽曲の情報量と言ったら、場合によっては、
1曲で、普通のジャズの曲の100曲分ぐらいあるのではないか、という曲もあるぐらいに、
暗譜には向いていない、暗譜するのが大変な楽曲群なのに、そんなことをやってみたのです!

それはなぜか、
もちろんお客さんから見た時の印象もあります。
ジャズの中でもスタンダードジャズの演奏なら、
全員が覚えている曲をやるような場合は、譜面台が一つもステージ上にない状態で、
リラックス感を持って演奏し、聴いている側もその雰囲気を安心感を持って視覚的にも見ることができます。
しかしCPJの楽曲はちょっとやそっと覚えられる曲ではありません。
しかし、そこでCPJのカープアカデミー方式を生かして、
散々毎月アンサンブルクラスで慣らし続けて長期間練習することで、
相当な情報量でも暗譜するということが可能ではないかと思ったのです!
そうでない限り、それまでのCPJのライブ演奏であったのは、
「難しい譜面にしがみつき、難しい顔をして演奏する」
という、お客さんから見て、楽しめない雰囲気が出てしまう傾向でした。
なので、このCPJイベントでは、これまでにない次元での暗譜をして、
超余裕を持って演奏するということを目標に掲げて、
『全員暗譜』
で臨みました。

それ以来、Future Jazz Japan Festivalでは、
今のところ12年連続で、CPJのあらゆる楽曲を、
『全員暗譜』
で演奏してきています。
やはり、かなりややこしい楽曲を、誰も譜面を見ていない状態で演奏している、ということは、
特に音楽への理解度が高ければ高いほど、かなりのインパクトがあるということが判明しました。
それには、マイナス面もあります。
それは、暗譜の状態がギリギリだった場合に、
うろ覚えの状態で演奏することになり、それはプレイヤーの不安感を誘発してマイナス要因になってしまいます。

なので、それを超えて、「完全にくつろいで演奏できるレベルの暗譜」を基本的に目指してやっているのが特徴です。
毎回の演奏の中で、楽曲毎にですが、その境地に達する時もありますし、
やはりそれは相当難度の高いことである為、
それを達成できていないであろう時もあるでしょう。
しかし、このチャレンジは、結果的に、あり得ないような難度の曲でも、
どうにかリラックス感のある形で提供できる可能性を探るもので、
深い次元での暗譜をすることによって、
音楽の深い次元への旅は続いている気がします!


 ☆97 CPJのPOP化


「POPだったよね〜!」
なんと、CPJを聴いた感想として、こんなことを言ってくれる人もいます。
彼にとっては、
「また、今日もPOPだったね!」
という感じに毎回そのように言ってくれるのです。

しかし、普段一般的にはそんな感想を得ることは当然ながらなかなかないものです。
CPJは、基本的にはほとんどの場合、
「難しい音楽」という印象を持たれる傾向にあります。
もちろん、譜面づらがこれほど難しい音楽はないので、当然のことではあるのですが、
ただ、それを
『ポジティブな難しさ』
に変えるには、
CPJのイベント、FJJF〜Future Jazz Japanにおいての、
『完全暗譜』(☆96.)で、
かなりの余裕を持って情報量も多い長い難曲を演奏するということでカバーできるかもしれないと思いました。
それは、クラシック音楽においては実現されてきたことですが、
それとは全く違った多次元的なハードルのある音楽においては、
未だかつてなかったことであると思います。

そういう次元での演奏を実現するのにも、
冒頭で、ある人の感想で出てきていた、
『CPJのPOP化』というのがあります!
それは、CPJの複雑な曲を深い次元で理解することによって、
極限的な余裕を持たせて、
結果的に、まるで普通で、寛げる音楽で、
POPにすら聴こえるように演奏するような境地なのです!
それは、悪く言えば、わざわざ大変な曲を死ぬ思いでやった結果、
「簡単そうな曲やってたね〜」
という感想を得るような境地なのですが、
深いところでは、
『自分の為に自分を最大限に発揮する演奏をしたのに、お客さんも喜ぶ』
という、芸術性と商業性が両立するレアな瞬間なのです!
それがスポーツであれば、視覚的に比較的わかり易いので、
「専門家が最大限に力を発揮=観ている人が喜ぶ」という正比例が可能なのですが、
音楽などの芸術においては基本的に、
『専門家が最大限に力を発揮=聴いている人はなんだかわからず楽しめない』という、
反比例現象が当たり前な中で、
『演る側と聴く側の双方が楽しめる』
という、相当レアで貴重な状況が期待できる概念なのです!


 ☆98 分業か弱点強化かの悩み


CPJが、『トライアスロン×ノルディック複合』(☆87.)というぐらいに、
『メロディ』ーと『ハーモニー』と『リズム』が極限まで進化した楽曲を、
『書き譜』と『アドリヴ』の両方の側面において実現するという音楽な話をしてきましたが、
それらの全ての要素を全て得意とするプレイヤーというのは少ないものです。

例えば、クラシック出身のプレイヤーは当然ながら、『書き譜』が得意であったりしますが、
もともとジャズ出身であるプレイヤーは『アドリヴ』が得意であったりします。

また、『メロディ』ーと『ハーモニー』と『リズム』の中でも、
リズムが得意で、ハーモニーは苦手とか、
その逆のプレイヤーもいます。

音楽に限らず、どんな分野でもそうですが、得意なことというのは、意外とかなり限定的だったりします。

それから考えると、例えば、
書き譜に特化したプレイヤーと、アドリヴに特化したプレイヤーが、
分業して全体を構成した方が、
全体を見れば素晴らしいのは明らかな感じがします。
しかし、その一人一人のプレイヤーの究極の可能性を引き出す意味では、ちょっと悔しい感じもします。

そこで、分業でないとすれば、
それぞれのプレイヤーが、それぞれの苦手な部分を集中的に伸ばすということもいいのかも知れません。
松井自身は、それをずっと実行していて、
「書き譜」と「アドリブ」では、苦手な「書き譜」にかなりわざとバイアスをかけて練習してきています。

さて、野球でも、長距離打者と、打率優先の打者にはかなり乖離があり、
ホームランバッターは打率が悪く、
打率が高いバッターはホームランが少ないです。
同じプレイヤーの中でも例えばイチローは、
打率が高いので有名ですが、
もしホームランに集中すればホームランバッターになれる素質があるぐらいに、
潜在的ホームランバッターです。
そして更には、3回も三冠王を取った落合博満に至っては、
「俺は打率に集中すれば打率上げられるし、ホームラン増やそうと思えばホームラン増やせるよ」
と言っていたように、その加減を自在に調整できるレベルにまでいれば、
三冠王を意図的に取る方向に、その2つのベクトルの調整をできるようなのです。

それを考えると、一番究極なのは、
全てのプレイヤーが落合博満になって、
分業などせずに、
「書き譜」と「アドリヴ」の両方に精通して、両方をこなす。
という次元になるという究極の理想も浮かび上がります。

この2つの方向性、
「分業の素晴らしさ」と「三冠王の素晴らしさ」の間で、
葛藤がある中で、今後も悩みながら、最善策を模索してゆくような気がします!


 ☆99 両脳開花への扉は重く楽しい


さて、様々な分野において言えること、
「三冠王をとるのは難しい」。
まあ、三冠王というのは極端な例かも知れませんが、
2つ以上の相反する概念において、
究極の技術、知識、もしくは感覚などを得るのは並大抵のことではないでしょう。
ジャズにおいても、CPJが目指すあらゆる要素、
『トライアスロン×ノルディック複合』(☆87.)なんて例えをしていた
究極の『メロディー』『ハーモニー』『リズム』×『書き譜』『アドリブ』
という全てに渡って熟練するのは、大変なことです。

そして、あらゆる究極の中でも、もしかしたら最終地点なのかも知れないと思うのが、
『左脳』と『右脳』
の両輪開花でしょう!
CPJの目指すところは、上記のあらゆる概念を左脳的に具体的にクリアして、
それをかなりの余裕を持って演奏できるレベルまで持っていって、
それを、
『具体的なことは全く考えていないような解き放たれた状態で演奏する』
ことです!
ただ、その境地というのは、
とてつもなく到達し難いものです。
その扉ですら非常に重たいものですが、
楽しく、やりがいのあることなのです!


 ☆100 ジャズネクシャリストとマルチリンガル


ネクシャリスト、という言葉はあまり使われる言葉ではないですが、
主に科学の世界に使われるようで、
科学の中だけでも無数の分野があり、
その細分化された分野にそれぞれ専門家がいる中で、
意外にも、少しでも分野がずれるとほとんど理解ができないというぐらいに、全く違うことを勉強している状態であったりすることから、
その不便さを解消する意味で、
その架け橋をする立場がネクシャリストです。
その場合、科学なら科学のあらゆる分野に満遍なく精通する為に、
やや、「広く浅く」にならざるを得ないですが、
勉強することになるでしょう。

 

よく自分が悩むこととしては、世界の、宇宙の、世の中の全体像を完全に俯瞰すべく、
人間の教育における無数の学科を全てを専門家レベルで理解して、
音楽にも美術にも精通しているような人間がいて初めてわかることがあるのに、
そんな人間はいないから、あらゆることで議論をして精査して掘り下げようとしても、
必ず、理解の深さにはある程度の差があることから、
なかなか究極の結論に達することはないということです。
それはもちろん全てのありとあらゆる分野を統括するレベルの話ですから、
一人の人間ではとても無理なので、諦めざるを得ません。

 

それはよく、地球上にあるあらゆる言語に関しても思います。
違う言語圏の人同士が話しても、もし相手の喋る言語を知らなければ、
極端な場合は1パーセントもわかりえないこともあるぐらいに、
世界中にはあらゆる全く異なった言語があります。
バイリンガルとか、トリリンガルとか、マルチリンガルという言葉がありますが、
例えば、「この人は言語を10言語喋れる」という場合でも、
それらの10言語に対しての評価をある一人の人ができることはほぼなく、
それどころか、そのうちの2言語以上を評価できる人という時点で稀なぐらいなので、
本当のところ、そのマルチリンガリストがどれぐらいのレベルでそれらの言語を操れるかはわからないでしょう。
3言語ぐらいはかなり完璧であとはガクッとレベルが落ちる、という可能性もかなりあります。
それでも十分素晴らしいことですが、、、。
それぐらいに多言語の習得は難しいですから。

 

さて、音楽の場合ですが、
日本語を知らないアメリカ人と、英語を知らない日本人が、音楽でセッションした場合、
言語は分かり合えてなくても、
問題なくセッションできることから、
「音楽には言葉はいらない」
と言われて、それは言語を超えたコミュニケーションとして素晴らしいことだと思います。
ただ、深いところまで、ということになると、やっぱり言語の場合に近いぐらい、
わかりあえていないことがたくさんあるのです。
ジャズでよくある編成として、
ピアノトリオなどがありますが、
ピアニストにとって、ベーシストやドラマーの考えていること、
ベーシストにとって、ピアニストやドラマーが考えていること、
ドラマーにとって、ピアニストやベーシストが考えていること、
が意外と深く理解されていない状態で演奏しているんだなあと思うことがありました!
それは非常にハイレベルなバンドでもです。
そう思ったのは、松井が生涯かけて、4つの楽器を均等に、何十年も懸命に練習し続けて、
各楽器においてかなりの回数の演奏の現場を経験して思ったことです。
もちろんジャズのいろんな仕組みを使って共演しているので、全くわかりあえていない、ということではないですが、
ピアノトリオなんかの様子を見ると、
「ドイツ人とフランス人とアメリカ人がそれぞれの言葉で話しあっている」
というぐらいのコミュニケーションであり、
お互いの思っていることの詳細は伝わっていないことが多いなあ、と思うのです。

さて、松井は趣味の言語でも日本語、英語、フランス語、ブルガリア語の4つを深く理解して話せるようになるように、
趣味でマルチリンガルを目指して勉強していますが、
キーボード、ギター、ベース、ドラムの『四刀流ジャズマン』として、
『ジャズネクシャリスト』
的な立場になっているので、
それを今後のCPJの芸術活動に生かして行きたいと思っています!