人の気持ちを慮る、コミュニケーション

昨今の報道などで、誰かがミスを犯したときに、全力で攻撃する様な風潮をよく目にする。
攻撃する人は自分がミスを犯さない完璧な人間とでも思っているだろうか?

 

人間は誰でもその中に数%かいくらかの割合でそういった危険の種を持っているかもしれないのだ。
普段通りに運転しても事故を起こしてしまうかもしれない、人に当てられる事だってかもしれない。
罪を犯す人も何かその日の流れや経緯、理由があって、そうなってしまったはず、勿論罪は絶対に償わなければいけない。
罪を犯した人はしっかりと謝罪して、同じ間違いを繰り返さないようにその後の行動で示す。

 

社会としてはそう言った人をただ責めて村八分にしないで、団体責任じゃ無いけど、そう言った人が出て来た世の中のシステムや政治を検証する必要があるんじゃなかろうか?
原因を究明しない限りまた誰かが同じ過ちを繰り返す。

そう、人がそうなったのは自分にももしかしたら回り回って責任の一端があるかもしれないと思う気持ちだ!
全体の中の一部だという気持ち。我々の社会。

 

スウェーデンの刑務所は収監された後、勿論罪を償わないといけないが、社会復帰するための設備が物凄く整っていて、例えば音楽関係の罪人だったら、レコーディングスタジオなどもあるそうだ。
そこで作曲したり、社会復帰にむけて練習したりするというのをある映像で見たことがある。

北欧(ヨーロッパも)ではルソーの哲学が民の心にバックグラウンドとして根付いているようで、我々日本人には遽に理解できないが、基本的に人は善だという考えに基づいているそうだ。
まさに人を憎まず、罪を憎むというわけだ。

 

これこそ罰やムチで言うことをきかせるという様な、外からの圧力なのではなく、自分で気づいて、深く考え、自ずから変わっていくという最も健全な形での更生だ。
日本ではまだまだこう言ったことは難しい。
地方に行けば(行かずとも)まだまだ権威主義的体制下で物事や社会が構成されていると感じることが多いからである。

 

上に立っている人は責任重大だ、何でもかんでも権威でいう事を聞かせるのではなく、自分もひょっとすると脱線する可能性はあるのだから、もっと謙虚で人に優しくなって、常に検証、軌道修正、そして部下や後輩に本音で尊敬される様な人になっていかないといけないのでは無いか?

 

全体で物事を捉える大らかさ、コミュニケーションが取れているってそう言った意識なのではないだろうか?

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