ikechan story

19xx年夏 京都市にて、待望の長男として生まる。父、母、姉との4人家族。

 

追求心旺盛な幼少期

 

 

まだヨチヨチ歩きの頃、居間にいたイモ虫を追いかけていたはずが、行方不明になってしまう。実は母親が目を放したうちにずーっと追っかけて、トイレの近くまで行き、そのイモ虫をつかんで観察していて、もう一歩遅かったらそれを口に入れるところで見つかったらしい。母はそんな事が有るたび、「将来、何かを追求する仕事をするのでは」と思ったそうだ。
子供の頃から何かを見つけては一人でよく遊んでいたらしい。他の子と違って、近所の子を虐めたりしなくて、逆に一人で熱心に遊んでいるところを、ガキ大将みたいな上の子にコツかれて泣いて帰って来るくらい、、、(やはりリベラリスト)。
とくにクルマ遊びは、大人も吃驚するほどのテクでブイブイいわしてた(関西人的表現)らしい。近所の子供社会の中では、人望が厚く(?)後輩を非常に可愛がった。らしい(母曰く)。近所で遊ぶ時は大体僕が遊びを決めて、仕切っていたような気がする、、。意外にもリーダー格だったのだ。

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歌うことが大好きな子供時代

 

 

小学校の頃はドッジボールが流行っていて、御多分に漏れず、休憩時間には誰よりも先にボールを持って外へ、。その当時のNHKのドッジボールの特別番組に代表選手で出たこともあった(これが初のテレビ出演?)。教室ではよく、漫才のトリオを組んで(さすが関西人!)みんなの前で披露することもあった。「調子もん」と呼ばれてた。

 

人前でパフォーマンスする事に目覚めたのは小学校の四年生の時、当時担任だった先生がとても歌好きな女性で、今日は外で歌いましょうという事で、休憩時間、歌好きな5、6人のクラスメイトと先生とで砂場に座って順番に一人ずつ歌った事があった。それで、僕が歌うたびに皆の目がキラッと光るのを感じた(すごく、びっくりしたのを今でも憶えている)その時、皆が楽しんでいるのを、感じたのだ。

 

それから、ますます、歌うのが好きになって、よく近所ののど自慢大会かなんかに、西城秀樹のものまねで歌っていた(なんと!)。あの踊り付きで、「やめろっといわれてもー」ってな感じ(ふるー!)近所の追っかけの女の子もいたりなんかして(笑)。

 

うちは母親も姉も歌が好きなのだ。母は幼い時に両親を亡くしていて、小学校しか出ていない。若い時から苦労して働いてきているが大戦中、「軍事工場で働いていた時に蓄音機(今で言うレコードプレイヤー)を持っていたのはその工場で私だけやった、、」というのが本人の自慢。

 

母の話によると、ある日一人で電車に乗っていると鉄道公安の人が家出少女かと思って、心配して保護しようとしたらしい。そしたら母は部屋につれて行かれて事情を聞かれて説明しているうちに、本人の歌謡ショーになってしまったり、、、その母親のDNAが僕にも受け継がれていると感じる事が多々ある(ハッピーな人種)。

 

因みに、この人、僕が中学の時は子供を放っておいて、週末ディスコに行って、日曜の夕方帰ってくるなんて事をやっていた、ツワモノ! あの頃よく家の中でEPかけて踊ってたっけ、ディスコキッドとか(ふるー)。

 

子供の時ピアノがやりたくて、レッスンに通っている友だちが羨ましくて、「ピアノ買ってー」と、一晩中、泣いて頼んだ事もあったけど、「男の子はピアノなんか弾かんでええ、置くとこない」と言われ、貧しさを恨んだこともあった(ウグウッ、、)結局、その数年後 ある同級生と出会う事により運命は変わって行く事になるのが、、。僕が11歳の時、両親の離婚を期に、京都を離れるのだった。

 

地方への引っ越し

 

僕のドラムの原点は母と姉とで移り住んだ地、兵庫県豊岡のだんじり太鼓にある。忘れもしない昭和47年10月、そのころ現地ではちょうど、だんじりの時期。

毎年その時期になると、町内の公民館の至る所から太鼓を練習する音が聞こえてきてくるのだ。
引っ越して全く未知の土地で「これから一体どうなるのだろう、、」と荷下しが一段洛した時にふと、太鼓の音が聞こえて来た。

僕の気分とは裏腹に祭りのタイコがダン、ダダダン、ダン、ダン!!

 

僕は四季の中で秋に一番サウダ-ジ的フィーリングを感じるんだな、あまりこんな事いうと懐古趣味的に思われるかも知れないけど(笑)なんとなく寂しいんだけど嫌いではない、色々な感情がミックスしたような不思議な心地よさがあるんだわ、これが、

 

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特にこの豊岡の地は四季の移り変わりを感じやすい気候だったので、積雪も引っ越してから始めて体験した。1メーター以上積もるなんて、京都市内では経験した事がなくって、最初はものすご-く、嬉しかったのを憶えている。

 

生まれて初めて、姉とカマクラを作った時の事は今でも鮮明に心の中に情景として焼き付いている。嬉しくって母親をわざわざ呼びに行き中であのころ売り出しはじめてたカップヌードルを食べた。あの頃、そんなたわいのない事がものすっごく嬉しかったんだよな。

 

今思えば家族が母子3人になってしまったが、すごく幸せだった。母は本当に優しかったし。貧しいながら楽しく生きてた。

 

幼少の頃から、深夜に帰宅する母(母は子供2人を育てる為、僕が3歳くらいの頃から、夜働いていたのだった、、)を待ちながら、夜暗く窓越しに見える、星や遠くの明かりを何時間も見つめている事が多かった。そんな所に僕の音楽の原風景はあるような気がする。(ちょっとマイナーになってきた、でも7th入ってるよ)、、。

 

ロックへの傾倒と友との出会い

 

学校でカセットテープレコーダーが流行っていて、僕も御多分に漏れず母親に頼み込んで買って貰う。小学校6年生の時、最初はテレビのマンガや仮面ライダーなんかの主題歌を録音していたんだけど、中学に入って、深夜放送のエアチェックをやりだしてから、ビートルズやイギリスのハードロック等の洋楽に出会うようになり。

 

そのころTVのコマーシャルにビートルズのShe Loves Youが使われて

 

いてレコード店の店員さんに、「あのGパンのコマーシャルの、、、」と説明してEP盤を買って来たのを思い出す(お-懐かしー)。当時、クラスでロックを聴く人は自分の他には誰も居なかった(さびしい)。したがって情報もあまりなかった。

 

僕はクラス委員(なんと)をやったりして普通(?)のグループだったが、彼(同級生の友人D君)は悪ガキとよくつるんでいた。僕が帰ろうと思って机の上に置いた鞄を持って、立ち上がろうとすると前に立ちはだかり、鞄を手で押さえて、豊岡弁でいちゃもんをつけて来たのがヤツだった。でもこの経緯がよくわからないのだが、結果的に彼がその後の僕の人生を変える人物になってしまう。

 

彼とは、一緒に勉強したり、サイクリングに行ったり。そのうち、文化祭での先輩のロックバンドのパフォーマンスを観て、お互いが音楽にとても興味を持っている事に気付く。

 

バンドを作るのに必要な楽器編成にベースギターと言う楽器が必要な事もこの時始めて知った。僕がピアノで彼がドラム。そしてベースを誰にしようとクラスを見回した結果、責任感があって人望が厚く人のいいクリーニング屋の息子(大体ベースはいつもこんな感じ?で決まるみたい)。

 

ギターは隣のクラスからうまいと評判のS君、ボーカルには運動神経が抜群で女子から人気の高いH君(ルックスが良く、要するに客が呼べたのだ、次にいいルックスがワテ?)、この5人でバンドを結成した。12、3才の頃。

 

ドラムのD君の家にはレッスン室があり、常にドラムがセットアップしてあって、グランドピアノも家で弾けるような豪邸に住んでいた。一緒に練習しようという事で、よく寄せて頂いた。彼がドラムを練習している間に僕はピアノを練習させて貰った(勿論僕の家にはピアノがなかった)。コード譜を見ながら、鍵盤を探っていると、隣で楽しそうに彼が8ビートを叩いている音が聞こえて来て、単純なリズムの繰り返しなのに、人を鼓舞させる力があることにえらく、感動した。

 

そして8ビートを彼に教わったのが運の尽き!(笑)それからはドラムが叩きたくて、叩きたくて、、、家でも学校でも机から何から叩きまくってた。その頃机を合わせて四、五人位の班をつくっていたんだけど、一つ一つの机をタムに見立てて、フィルインで隣の人の頭をパーンなんて、、。それがクラスでも流行ったりして、皆よくやってたな(笑)。

 

ロックバンド「牛若丸」

 

初めはベース奏者でクリーニング屋のK君宅を練習場所にさせてもらっていたが、そのうち近所から苦情が出て、公民館に交渉に行ったり、隣の区の小中学の体育館や講堂を借りたり、行く場所場所の校長先生に直接交渉に行ったり、、、練習場所を求めて転々とする。

ただ、その若さゆえ、思いついた事は全て即行動に移していた。メンバー間の連帯感、結束は強かったー(われら青春!これもふるー!)。

そのバンドでは学園祭や楽器店主催のコンサートなどを中心に演奏した(結構追っかけも居た)。

 

僕が中学校時代にやっていたロックバンド。最初は英和辞典から見つけた名前で「プラクティス」(練習せなアカンという事で、、、なんやヒネリないんか!)そのうち、誰かが、僕が小さい体で頑張っているので、「牛若丸」というあだ名をつけ、それがそのままバンド名になった。 写真左端キーボード弾いてるのがワタクシ。

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練習場所がなくてやっと見つかった所がクルマで行っても30分くらいかかる隣町。そのバス道を、毎日曜のたびに、自転車で皆で連なって通った。2時間くらいかけて、、片手にギターやベース、荷台には食料のポテトチップスとコーラ。雨が降った時は、途中のバス停で雨宿りして小降りになって、また出ていく、、でももう既にビチョビチョ、、、でもめげなかった。(飛び出せ青春!だったっけ? これもまた、ふるー!)

 

ジャズとの出会い

 

高校に入ってからは、吹奏楽部に入部。部員に女子が多かったからだけ(?)ではなく実業高校だったため、音楽の授業がなく、中学から、続けていた剣道部に入るか迷った挙げ句、決めたのだった。この頃もプロになろうなんて事は全く頭の隅に無かった。ただジャズに興味を持ちはじめたのはこの時期。

 

風邪をひいて学校を休んでいた時に、寝床で聴いていたラジオからソニーロリンズのセントトーマスが流れて来て、そのドラマー(マックス・ローチ)に今まで聞き馴染んでいたドラムとは全く違うなにかを感じた。シンバルレガートがうねっていて、すごくうごめいている。なにかを訴えているような気持ちがした。

 

中学の時、自己流でコピーしていたロック音楽のオルガン奏者のジョン・ロードがインプロヴィゼイション(即興)ということをよくインタビューなんかで言っていて、ジャズオルガンのジミ-・スミスに影響をうけたとか何とかで、とても気になってはいたんだけれども、ジャズを始めて聴いた時に、「これなのかな?」と思った。

 

ブルーノートスケールを使ってのソロもロックのそれに比べると、かなり難易度が高そうで、家に鍵盤楽器のない僕は、やはりドラムの方に気持ちがいった。

 

マックス・ローチやフィリ-・ジョ-・ジョーンズのシンバルレガートを吹奏楽部の練習室でまねしてみたり、、、でも全然フィーリングが違う、、 どうすればその感じが出せるのか、、かなり悩んだ。

 

夢の中にそのフィーリングを出すコツを教えてくれる達人が表れたことも何度かあった(笑)夢のなかでは納得していたのに実際にやるとこれが全く出来ない。なんで夢の中では納得していたのか、、、?

 

そうこうしている間に、地元でジャズをやっている先輩の人たちのバンドに加わる。最初はなんと、ピアニストとして。今考えると、冷や汗もの!だって僕のピアノは超我流のインチキ・チンチキ、でもその時は必死でした。

 

ソニー・クラークのブルースソロをコピーしたりした。そのバンドのドラマーがその界隈ではかなりの腕前のリーダーで、この人から多くを学んだというか、盗ませて頂いた。

 

彼がバンドをまとめるために、他のメンバーにつきっきりでパート練習を見なくてはならない時、代わりに僕がドラムを叩いた。その後、ホンモノの?ピアニストが見つかり最終的には僕がドラムに落ち着くことになる。

 

この後も数年、何故かバンドに参加するたび、自分の本意とは裏腹にドラマーではなくキーボードとして呼ばれる事が多くなり、なかなかドラマーとして認識されなかった。

 

最近はさすがになくなったが、ドラムス 池長一美 とクレジットされてると これ、キーボード 池長一美 の間違いでは?と感じる瞬間がよくあった。

 

昔、牛若丸時代にバンドの中のきまりで担当楽器以外は練習しないというのがあって、その呪縛からも放たれなかった感覚もどこかにある。でもその後の僕は、ますますドラムに専念することになっていく。

 

 

 

ブラスバンド部での事

 

 

入部した時、すでに打楽器の人数は足りていて、僕はドラムが出来ないのなら「ジャズの花形であるサックスを吹きたい」と思っていたけど、部長はトロンボーン、指揮の先輩はトランペットと意見が別れ、二人がジャンケンをして、お前はトロンボーンをやれと、、、(どんな基準?)

 

最初の数週間はロングトーンばっかり。退屈だった。なかなか音が出なくて、外でロングトーンしていてもテニス部の女子がミニスカートで練習しているのをいつも「ええなー」と眺めてた(笑)。

 

なかなか上達しない僕に痺れを切らせた先輩が、やっぱりお前は打楽器を、という事になり、めでたく打楽器のパートにつく事を許される。ここでもまた、やりたいドラムに辿り着くのに障害を乗り越えたという感じ(こういうのって、なんか繰り返すね)。

 

それからというもの、朝から晩まで太鼓漬けの日々。授業中は練習内容を考えたり、曲のアレンジをイメージしたりして、学業の方はなんとかキープという感じ(いやキープ出来てたか?)。

 

3年生の時、僕は部長になり、うちの部の楽器があまりに古く、数が足りないので、行革して、部費を沢山取ってやろうと頑張ったことがあった。そのためには外での活動やら、なぜ必要かという事を示せという訳で、「ほんなら」と歴史を調べたら吹奏楽部創立15周年に当たった、というか無理矢理こじつけてコンサートを企画した。

 

隣町の高校の吹奏楽部にも賛助出演してもらい。色を添えた。その時は新聞社も取材に来た(これが初の新聞デビュー)。コンサートは大成功、しかもその年の予算の8割くらいを我が部の部費にして楽器を買いまくった(ええんかいなー、でも、これも青春や、時効、時効!)

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試験勉強のときは、集中するの大変!そういう時に限って、練習したくなる(生っ粋のアマノジャクときたもんだ)。ほんと情報少なかったので、ラジオでエアチェックをして、よい音源の情報を集めまくった(その頃、現在のようなテレビからの音楽番組は少なかった)。レコードとテレビに出て来る歌手のバックバンドを見て色々盗む。8時だよ全員集合はコント以外は後ろのビックバンドのドラマーを見ていた。

 

この頃、母親が「あんた寝ている時にも手が動いてドラム叩いてるよ」とよく言っていた。完全にビョーキ状態だったんでしょう(笑)これは現在もあまり変わっていない。

 

このままでいいのか?

 

 

そんなこんなで母子家庭に育った僕は、母親を楽にさせたいという気持ちから、就職の道を選び。地元の商事会社での就職が決まった。音楽は趣味で、、と思っていたのだが。

先輩や同僚に「東京に出て音楽やらないのか?、、」と会うたびに言われて。俺にやって出来るのかな~と思っていたのがだんだんとその気にさせられたというか、なんというか、、(だいたい周りに薦められる事が多いみたい)。

 

これからずっと一生サラリーマンかと思うと、「この仕事は自分をいかせきれていない、、」と。ほんと決断が遅いと思うけど、その時は、出来るだけ早くなにか親の助けになる事をしたかったというのが本音。でも自分の音楽をやりたいという気持ちはもう押さえられなくらい膨らんでいた。

 

2回目のボーナスを貰い、辞表を提出。母にはうまく説明できなくて「京都に戻って就職するわ」と言って2人で京都に引っ越すことに。その頃19歳。取りあえずアルバイトを探しクリーニング屋に落ち着き、8時から5時まで。音楽雑誌のメンバー募集の欄に「ドラム歴7年!なんでもやります」と書いて出したら、なんとどっさり返事が帰ってきて、少なくとも14、5組位の人達には会った。

 

バイトが終わったら、その足で大阪まで電車でセッションに行き、終わったらミーティング。最終の電車で京都に戻りその後はテープを聴いて復習と次回の予習。朝は6時半には起きて7時のバスには飛び乗って。そういう生活を2、3ヶ月続けていた。

 

とにかく、早く一人前にならなければという、気持ちから僕は焦っていたのだった。ある日の朝。いつものようにバス停まで走っていく途中に急に足が止まり、まるで向い風の中で上り坂を歩こうとしているかのように、だんだん歩く事も出来なくなり。倒れ込んでしまった。

 

ほんとに悪夢だった。次の日病院にいったら若年性高血圧症といわれ、薬をもらった 。「なに高血圧?年寄りじゃないぞ俺は!」と思った、、。

 

その薬(降圧剤)が一生飲み続けるものと聞いて愕然としたのを今も憶えている。医学書を読んだりして、「俺は何歳まで健康で音楽を続ける事が出来るんだろうか?」と凄くブルーになった。

 

勿論、薬は今でも服用し続けている。でもそのおかげで健康に気を使うようになれた。(周りからは色々言われたが、気を使ってくれる優しい人も沢山いた)

 

師匠との出会い

 

 

その頃の僕には、お師匠さんに当たる人がいて、京都のある楽器屋さんで先生をしておられた。Sさん。 現在は名古屋でドラムショップを開いているが、この頃は京都におられ、僕が最初にかかわりを持ったプロドラマーだった。

 

僕がバイトをしていたクリーニング屋のすぐそばに、その頃人気のジャズのスクールがあった。だが当時の僕には授業料が高すぎて、説明を聞きにいってパンフレットを持ち帰り眺めるのが精一杯で、たまにどんな練習しているのか、チェックする為に外から音を聞いたりしていた(映画ラウンドミッドナイトに出て来る、フランシスみたい)。

 

もっと安いスクールはないかとヤマハの教室をふらっと覗いた時にレッスンをしていたのがSさんだった。僕はレッスン中目立たないように5、6人のレッスン生の影に隠れて見学者として観ていた。僕のただならぬその時の気配を察したのか、なんと僕の側に近寄って来て「ドラム結構やっとるやろ。叩いてみー」と、、(オレ、鼻息荒かったんかな?)。

 

僕は最初びっくりしたけど、なぜか気付いた時にはもう叩きだしていて(やっぱ、調子もん!)どう終わったのかは憶えてないけど、Sさんは「叩けるなー。習いにおいで」と言ってくれたのだった。

 

でも貧乏人の僕はレッスン代が心配で、ドラムを叩かず、後片付けをやる代わりに、なんとか見学者として居残れないかと考えた。そして最後のクラス(6時から7時)が始まる前に毎週行くようになっていた。

 

しばらくして先生(Sさん)がもう一件別の所でその後も教えることになり、その移動の時間、僕はS先生にくっついて回った、「弟子にして下さい」といってもS先生は「弟子はとらない」と言いながらも色々と話をしてくれたのだった。

 

ある日の事、いつものように1件目が終わって2件目のスクールに向かう移動中、車に乗って移動するのだが、S先生はいつも途中でパンを買いに立ち寄る店があって、そこで僕も同じようにパンを買って、車のなかで食べていて、何気なしに缶ジュースの栓をポイと外へやった時。

 

「おい、お前今の拾ってこい!」と怒られた事があった。その時、この人の有り難さを感じたのを今でも思い出す。ドラマーとしては勿論、人としてもこの人の弟子として、近くにいたいと切望した瞬間だった。

 

 

入院とドラム講師

 

 

話が前後するが、僕が血圧の事で、入院をした時の事、何人かのバンド仲間や友人が見舞いに来てくれたのだが、S先生はお花を持って来てくれた。毎日お年寄り達との相部屋で消灯も9時、起床は6時という生活に、退屈でやりたい事が出来なくてウズウズしていた時。こんな体質を抱えてこれから、不規則で不健康になりがちな音楽生活をやっていけるのか?、、、、

S先生に相談したら、「やりたくない事をやってストレスをためることも体によくない、お前は音楽やめられんやろ。続けていればいつか必ずいいことあるよ。」といってくれた。そしてその後「実は名古屋に帰るんだけど、京都のスクールの後釜を探しているんだが、お前やるか?」とまだ20歳を前にした自分に声をかけてくれたのだった。

「えーっ、お、おれでいいんすか?」勿論、そんな責任重大な事が自分に出来るのか、中学や高校では後輩教えたけど、お金をとってプロとしてどうか?というのは疑問だった。自分よりも年上の人が圧倒的に多かったので、これは相当頑張らないとと危惧したが調子良く(笑)引き受けました。

 

 

練習場所

 

 

ミュージシャンは皆そうだが(特にドラマーはそう)、その頃の悩みも、リハーサルスペース=練習場所の確保だった。スクールに早めに行って授業が始まる前までよく練習した。それ以外は家だとすぐに苦情がくるので、外に練習用のパッドを持っていき練習した。

近所だと恥ずかしいので、自転車にパッド一式積んでちょっと離れた公園で練習していた。でも長くやっていると子供がよって来たりして、集中できないので場所をかえたり目を合わせないようにしたりしていた。ある日、老夫婦が散歩にやって来て、ジーッとこちらを見ていて、最初は無視していたんだけど、どうしても無視できなくて、こちらに話しかけてきた。

その時僕は両手足同時打の早いのをやっていて、そのお年寄り曰く、「あのう、それは体力測定かなんかやっとるんですかいな?」とマジで聞かれて、「えーっ はあまあ、そうですかねー」笑ってごまかしたことがあった。

夏などはパンツ一丁で首からタオル姿でやっていた(結構カッコ悪い)ので、素朴にそう思ったのかな?この頃は、食事と寝るのを除けば、ほぼスティックを握っていた、と言っても過言ではないくらい練習した。

 

 

はじめてのニューヨーク

 

 

24歳の時、貯金をはたいて(この頃は朝も夜もよく働いた)初めてNYへ。まったくの一人で。空港からブルックリン・ブリッジに差し掛かる時、初めて観たマンハッタンは物凄い緊張感があり今でも思い出すとワクワクしてくるー。

先輩達から「池長、NY行かなあかんでー」と度々聞いていたので、ここがメッカかーという感じで。マンハッタンでNYのジャズを毎晩聞いて、ジャムセッションにも参加した。ボストンのバークリーに知人が何人か行っていたので、そこにも泊めてもらいレッスンを取ったり、アンサンブルを見せて貰ったりした。彼等は日本にいた時よりも楽しそうに活き活きとプレイしていて、当時の僕にはすごく羨ましく見えた。

その滞在を期に、「日本であくせくするより、ここでのんびりしている方が、いい演奏できるんじゃないか?」と感じたのだった。

帰国してアメリカでの緊張感を忘れないようにと考えていたけど、何ヶ月か過ぎるとだんだん元に戻って、、。アメリカに行くのには航空券がその頃30万位かかったので、一文無しになった僕はしばらくアメリカ行きは我慢して、また働きだした。

「いつになるか分からんけど、いつか絶対アメリカでやってやる!」という気持ちを胸に残しつつ、25歳で上京するまで、バンド活動は京阪神中心に、プロとして色々広範囲にやり続けた。

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ジャズクラブでのギグからフュージョンのコンサート、ブルースバンド、歌手のバック、フリー・アバンギャルドまで、タイコを担いてどこにでもという感じ。 その頃の仲間で各々の分野でプロになった人は何人かいる。でも、そうこうするうち、「このままやっていてどうなるんだろう」という気持ちが頭をもたげてきて、もっと刺激のあるところにと東京行きを考え始めたのだった。

 

 

とりあえず東京に

 

 

上京してから、すこし遅れて友人のドラマーのB君も近所に引っ越して来た。東京での生活が始まった。それまで続いたティーチングの仕事もやめてアルバイトを6年ぶりに探した。弁当屋さんに面接に行き、さっそく来週から来てと言われていたが、B君と同時期に受けていたヤマハの講師採用試験に、なんと僕だけ受かってしまい。初仕事の数日前に弁当屋さんには断りを入れに行った。

 

B君が最初その情報を教えてくれたのに僕だけ受かって、すごく申し訳なかった、、。 来る前の貯金も底をついてきて、、。上京してからは大阪時代の友達で活躍している人も何人かいたけど、「俺は誰も頼らないぞ!」と変な強がった気持ちがあり、あまり外へ出ていかなかった。

 

その頃はヤマハの講師仲間でグループを組んだりして、自分の作った曲なんかをやっていた。そこでまた、講師仲間に声をかけてもらって、あるベテラン・ジャズベース・プレイヤーのセッションに顔を出したら気にいってもらい仕事を貰えるようになり、昔憧れていたプレイヤーの人達とも一緒に演奏出来るようになった。この時もメインで行った人ではなく僕の方に仕事が来てしまった。

 

その頃は4件ぐらいのドラムスクールで教えていたのでライブの時に生徒がドッと来て、僕の方だけを食い入るようにズ-っと見ていたり(やっぱり生徒だから、どうしても見るよね)、僕のソロだけ拍手が異常に大きかったり(ちょっと音楽的な聴き方ではない)、ベテラン・プレイヤーがバンマスの時などは非常に困った。

 

以前、一度うちの母が始めて僕のライブを観に来た時、友人とかなり気分よく酔ってたみたいで、僕のソロ(4バースの時)のたび、「ヒュ-!ヒュ-!」と盛り上がっていて(あれは、ホンマ恥ずかしかった)。その後「勘弁してーなー」と母にいったら、次の日来た時は、急に大人しくなっていたので、チョット可哀想に思った。(かわいいオカン)普通にしてたらいいんやけど、、、興奮してしまうんやろね。

 

 

ジャズって

 

 

その後色々なジャズメンから声をかけて貰えるようになって、演奏も少しづつ忙しくなって来たのだった。 ただどうすればよりジャズっぽくプレイ出来るのか自分では分からず。先輩達にアドバイスを求めても、核心をついて来るようなモノは得られなかった。

 

いつもなにか、まがい物のジャズを自分はやっているのでは、、という気持ちが強く、ドラムは少しは叩けても、ジャズに関して自信がまったく持てなくなっていた。

 

その頃京都時代から教えていたドラムスクールでジャズを教える先生が必要という事で、京都に2週間に一度戻って教えるということになり。教えた日の夜に母の住む京都の実家に泊まり、次ぎの朝東京に戻るという生活がしばらく続いたのだが。

 

普段めったに新聞を読まないんだけど、この朝はなぜか中身まで細かく読んでいた。そして広告の一面全部を使って、「バークリーの奨学金を取って1年留学の全ての面倒を見てくれる」というの内容の書いてある記事を見つけたのだった。5年前にその頃の友人で4、5人が行っていたので、僕は「これだ」と思いさっそくテープを送った。

 

その頃の自分には若さ結えの説明できない、変な勢いと自信があり「絶対行く」と信じて疑わなかった。その頃すでに28歳だった。テープオーディションを通過して選ばれた200人の中に入る。そしてめでたく浜松でのセミナー兼選考オーディションへ。

 

バークリ-・イン・ジャパンという名前で4、5日のカリキュラムだったと思う。200人の中から選ばれた10人が1年ただで留学の面倒を全て見てもらえるというもの。

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僕は必ず選ばれるという自信があった。でも表彰されるのはやはり嬉しかった(10人中最後から2番目に呼ばれた)。

 

行く前、仕事仲間や生徒達に「取って来るわー」と出ていって、帰ってきたら「取って来たでー」と、、(なんじゃそりゃ)。

 

日本で少しずつ名が知られてきて、これからという時に、何も今アメリカに行かなくても、という意見も周りの仕事仲間には多かった。

 

でも、どうしても行きたかった僕は1989年8月8日に成田を旅立ったのだった。

 

あの頃は見送りに沢山来てくれたよなー。母も泣いていたのを思い出してしまった。当時の僕的には飛行機に乗って海外に行く事はスゴイ事だったのだ。

 

 

 

 

ボストンで

 

ここから後はアメリカでの生活が5年数カ月続く事になる。

 

最初の1年は天国だったのだが、そのあとは貧乏との戦い!バークリ-・イン・ジャパンには往復の飛行機代から、1年間の授業料、アパート代、生活費、夏休みの生活費とお小遣いまで頂いた。いつか何かで恩返しをしないとと、思っているが、、(やっぱ律儀でしょ)。出来るだけ長くいたかったのと、とにかく貧乏性の僕は、出来るだけこれを使わないようにして学校の奨学金を取ろうと考えた。

 

またそのころイスラエル人の友人が沢山いた。御存じのとうり彼等は国が政治的、軍事的にもいろいろ大変で、勿論お金にも苦労していて、中には兵役を免れて来た奴もいたけど、、、。まあ基本的には音楽が好きで、頑張っていた。そんな彼等が僕の臭いを察して近づいて来た(?)。彼等は僕に何時も「カズミ、ネバ、ギブアップ!」と声をかけて励ましてくれた。

 

奨学金を貰う為には奨学金オフィスにいって、自分が学校外でどれだけ活躍したか、たとえば、コンサートのチラシや、新聞に記事が載ったり(要するに学校の名前を外部に知らせる事が重要)を持って行き、自分の活動を報告する訳だ。そしてそれに対して、学校側は校内での評判やいろいろな情報を総合して奨学金を出す訳だが。ある一定額を過ぎるとなかなか次が貰えなくなる。

 

「なんども足しげく通ったが、もう少し欲しかった」そんな事をイスラエルの彼等に話す。そうすると「もっと通わなければダメ!」という。もう2、30回よけいに行ってみろと。オーマイゴット!日本では考えられない。僕は「そんなん、逆に嫌がられて、終わりや!」と思っていたのだが。

 

ところが何度も通ううちにだんだん楽しくなって来るのだ、これが。家の事情なんかも話しだしたり、日本語のワンポイントレッスンになったり、担当者とエレベータの中でバッタリ会う事も増えた。

 

その担当者が女性の場合、「おお、今日のブローチいいねえ、おっ、それって新しい靴?良く似合ってるよ!」トカなんとか言って(英語やとぺらぺら出て来るんや、これが!)、まずタイコ持ち状態に持って行き、そして「実はまた、新しい実績が出来たんですけど、持って伺ってもいいですか?」と。そうすると「オーイェア!」といって。万事オッケー!てな事をひどい時は週に2回くらい通った事もあった。歴代日本人留学生の中では恐らく一番奨学金を貰ったんじゃないかな?因に僕は高校も奨学金を貰って通っていたのだ(人呼んで、クレクレ野郎!)。

 

アメリカに来て最初の年はとにかく英語が速くて聞き取れなかったりしたが、アメリカ人のクラスメイト(と言っても19、20才位のワカモノ=バカモノ、わたしゃそんとき28才)の家に遊びに行って、同じように遊んでマリトの朝帰り!この頃に会話を学んだような気がする。彼等とはいい友達になって、一緒にロックバンド(サイケ系)をやった事もある。その中の一人は現在NYでスタジオエンジニアになって活躍している。

 

音楽的には南米や北欧の人たちと意気投合することが多かった。イスラエル系は精神的に、(?)。ストレートアヘッドなジャズが上手い人はやはりアメリカ人。黒人がいるかいないかは大きな要因だと思う(これはブルースのフィーリングを持っているか否かと関係が深い)。とにかく毎日セッションした。

 

当時は音楽の他に遊んだりするお金や余裕もあまりなく、煮詰まった時は友人と飲みに出かけたり、挙げ句の果てには夜、通りを歩いていて、全然知らない人のパーティーに侵入して、「ハ-イ」とかなんとか、知り合いのようなフリをしてタダ酒やつまみをタラフク頂いたり、、、。

 

 

ジョ-・ハント氏との出会い

 

 

音楽理論やソルフェージュは苦労したが、授業でやる内容にあまり目新しいものはなかった。特にドラム関係の事は、大体が知っている事ばかりで少し退屈していた。僕はセッションと外でのギグと特定の人からのレッスンに重きを置いた。

 

ところが初めての実技の授業でその後の僕の運命を変える、ジョ-・ハント氏に出会うことになる。彼はジョージ・ラッセルのバンドで20代前半にデビューして、ドン・フリードマン・トリオ、ボサノバがブームになった往年のスタン・ゲッツ・クインテットを経て、ビル・エバンスのトリオに在籍した経験を持つドラマー。ドラマーと言うより、アーティストである。

 

実は、ワタクシ、ジャズが好きでやっていたのだが、ジャズと呼ばれるものの中にも色々あって、その中で底抜けに明るいオッチャンが「イエ~イ」というジャズが昔からどうも馴染めなかったのだ。僕はもっと、クールで落ち着いた音楽が好きだったのだ。当時の僕はECM系の音楽の影響が強くて、ビ・バップの良さも、今に比べると全く分かっていなかった。

 

ビ・バップ系のモノをやると、萎縮してしまい自分が出せなかった、その頃はとにかく自分の苦手なものを克服しようという気持ちで、ビ・バップを研究した。自然に演奏するとああはならなかった。そこにコンプレックスがあったし、それでも自分でそこをクリア-する必要性を感じていた。

 

自分の好きなフリーソロや景色の浮かぶECM系は素の自分の感性でプレイ出来た。それとビ・バップを繋ぐ何かを習得しないと自分の音楽表現は成就しないと思った。ひょっとしたら自分は「いわゆるジャズ」には向いていないから、他のモノに方向転換した方が良いのかと、迷っていた時期でもあった。でも逃げるのは絶対イヤだった。

 

ハント氏の初めてのレッスンの時は彼の事は何も知らなかったのだが(最初の年は学校が担任を決める)僕には彼に初対面から何か響くモノが感じられた。

 

初めて彼の演奏を聴いた時に、目からウロコが落ちた!「これや、これ!」グレッグ・ホプキンスという、これまた味のあるトランペットのビッグ・バンド。周りがいくら盛り上がっても自分を見失わず、小ボリュームで要所でビシビシ決まるギャグ!、、、ではなくてキック!優雅な世界。まさに「いとこい」(大阪のベテラン漫才師、夢路いとし、喜味こいし両師匠の略称)のジャズ版。そう後味の良い笑い、、、、ではなくて音楽なのだ。

 

「大人やなー」と思わせる、品格。「このクレクレ野郎がなにゆうとんねん!」とお叱りもあるとは思うが、意外にジャズメン、演奏と私生活は一致しない事がとても多いのであーる。

 

ということで糞切りではなくて踏ん切りがついた僕は、彼の後を負う事になる、ストークするという意味ではなく、彼のプレイについて研究するのだ。勿論そんなことは、それまでやった事がなかったが、レッスンでは友人のベースプレイヤーやヴァイブ奏者らを連れていき、僕とジョーのプレーを録音して聴き比べた。それはもう僕にとっては天国!!

 

彼は昔アルコール中毒から立ち直った経験が有る為、お酒は一切ビールでさえ、ひとくちも口をつけない。その代わりに、コーラを飲む。コーラといえばその成分のホトンドが砂糖。

 

その頃ジョーのあらゆる事を真似していた僕は、フレーズやアプローチをトライしても最後の最後で何かが大きく違い、「それなら」と食生活まで真似てしまったのだった(愚かなワタクシ)。結果は、、体型が似てきてしまった。

 

ジョーは昔はスリムだったのがある時期タバコをやめ、酒をコ-クにかえ、再婚した事もあってお相撲さんに近い体型になったこともあった。僕はジョ-の事をゾ-(象)と陰で呼ぶ事もアル(これは内緒)。写真右の赤シャツがジョー・ハント氏、中央ワタクシ、左は先頃惜しくも他界されたエド・キャスピック氏
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その頃学校の外で仕事をしたら他のプレイヤーから、「ジョ-の弟子かー、わかるわかる。」といわれて、ミーハーのように嬉しかった時期もあった。でもやればやるほど明らかに彼と自分は違うという事が分かって来るのだ。

 

そらそうだ、彼がブロードウエイやシナトラなどを聴いた時期、僕のバヤイは毎週土曜の吉本新喜劇を学校から急いで帰ってきて見てた訳やから、、。

 

「あーもう真似はやめよう」と思うのだが、、どうしても「あのCDのあそこの部分どうやったかなー、、、、ん~~~もっペん聴こ~う!」と禁断の世界に舞い戻ってしまうのだった。

 

そんなこんなで僕のボストン生活は学校の授業より、セッションや外でのギグ等中心だった。英語の為にも出来るだけ日本人の居ない所に身を置くように自分をプッシュした。

 

日本の学校での英語の成績は悪くなかったが、どうも言葉は生きたモノでないと学ぶ気になれない、結局ビートルズなどロックミュージックの歌詞が土台になっている。あとはブルースのリフを憶えるように、ラジオ英会話や竹村健一の世相を斬る(ふるー)の英語版カセットを聴き倒して憶えた、ということで池長クンの英語はブロークン。

 

一度こんな事があった。ボストン郊外の中学校でジャズのクリニックをやってくれと依頼が来た、しかも外国人のこの僕に、、。勿論喜んで、引き受け、学生達は変な東洋人が叩いてはジャズについて話し、叩いてはジャズについて話しするのをとてもエンジョイしていた。

 

一生懸命話しているうち生徒に受ける部分がたびたびあって、僕はその言い方を何度も繰り返した、そのたび生徒は大受け!僕は自分の英語に相当自信を持った。「ガリ勉で英語勉強するより、使ってナンボやで、理屈やない、経験や」と感じていた。

 

クリニックが無事終わり、職員室のようなところで、お疲れさまと言う事で、ティーを頂いていた。クリニックの間、教室の後ろで参観していた先生が戻って来た。「カズミ、本当に素晴らしかったよ。でも。一点を除いて、、、、、」僕は例のFから始まる4文字Fxxxを連発していたのだ(やばー)。

 

ブロークンで憶えた英語は全て、友人などが話していたのをそのままコピーしたモノ、Fxxxが文章のあらゆる所に、ちりばめられた喋りをしていたのだ。当然学生は大喜び!先生はしかめっ面。という事に、、What a fxxx!
ティ一チングの仕事。

 

少し仕事が貰えて演奏をしたりもしていたのだが、ボストン市内はミュージシャンの供給過多ときていて、仕事はホントに少ない、ギャラは殆どナシに等しい。

 

「このままでは」と仕事を探していたら。ドラムの講師募集。という記事を見つけた。ただしそこは、電車では行けない(乗り継いでも駅から遠く、レッスン時間に間に合わない)マサチュセッツの端の方。これは車がないと行けない所。ということで友人から中古車を200ドルで譲り受ける。友人は「色々壊れて金がかかる。」と言う事だったが、僕は一目惚れ!まあ車の話はまた後で。話を戻そう。

 

面接に行ったら、なんと僕以外にも10人くらい希望者が居たらしいが、「こら無理かなー」と思ったが。僕がツタナイ英語で喋るのが受けたのか、数日後、家の留守電を聞くと、僕に来て欲しい、、と言っているではないか。「やったアメ公に勝った!うーれちーな、うれちーな!」(桑原和男風)
そのスクールは私立学校の校舎で通常の授業の後、同じ教室を使って、絵画や図工、音楽といった専門分野に別れ、レッスンが行われていた。
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外国人の僕が卒業前の実習期間を前借りして、教えていた訳だが。そんなに大きなお金にはならなかったが、色々勉強になった。

 

上はパンフレットの表紙にそのころブタだった僕が、なんとも異様なインディアン風アジア人という感じで生徒を教えてる所(学校の名前もインディアン・ヒル・アート・スクールというのが笑える)。

 

そのうち隣街の私立高校でもドラムの先生が要ると言う事で、ハシゴ状態(?)になった。そこはハーバード等に進学する生徒が通う全寮制の有名なところで、食堂で昼食を食べる時、先生達が集まって来て、色々な話をしてくれた。僕も一緒に並んで座って食事をしてると偉い先生と思われていた、、のかな?

 

その高級で綺麗な所に愛車1974年製プリモスで乗り着ける訳だが、これが何とも、カッチョワルイと言うか、その場にミスマッチ!でもこの車といるのは、何故か楽しかった。

 

ここでチョットその 愛車=苦労を共にした同志のお話を少し。

 

貧乏生活を続けていてやっとありついたティーチングの仕事。ただしそこはおなじマサチューセッツ州でもクルマがないと行けない所。だから国外で始めて自家用車を購入。
なんとアメ車。

 

1974年製プリモスの勇姿。

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これがまたキャラクターなのだ。何と友人から200ドルで譲り受け約3年乗り倒し、100ドルで売った。といっても修理費はその間2000ドル以上はかけたと思われるが。なぜこんなに安かったかというと、助手席と後ろのどちらかの扉が空かなかった(楽器を積み込む時非常に不便だが、慣れると結構楽しかったりする)。

 

中はとても広く、シートはニューヨークのイエローキャブと同じ乗り心地。エンジンをかけるとなんとも言えない、これまた味わいのある音でゆったり動きだす。これがなんともいいんだよなー。 学校のロッカーにドラムを保管していたのだが、ギグに行く時、前に止めて楽器を積み込む時、よくみんなが「ワオー、チェック・ズィス・アウト!」と寄ってきた。

 

夏はたびたびオーバーヒートして見知らぬ方にずいぶん助けて頂いた。アメリカの一般人は日本人に比べてクルマのトラブルに慣れているらしく、ボンネットをあけて症状を見ると「おー、あれあれ」とか言いながら、近くのコンビニやファーマシーでベーキングパウダーを買ってきてそれを自分で入れて直したりする。

 

エンジン音痴の僕は、ジャパニーズ・ドラマーではなく、ただのタイコ持ちと化して、「オー・グレイト!」としきりに発して、バッキングに徹する。そうこうしているうち治って、目出たし目出たし!こんなことを恐らく、軽く20回くらいは経験した。ちゃんと走っている時は感謝感謝なのだ。

 

ある渋滞の時に、とても急いでいて、数台追い抜いて割り込み渋滞を回避したかったんだけど、反対斜線も車が詰まっていて動けなかった。困っていたそんな時になんと向いから「オーブラザー!」同じ機種の色違いがやってくるではないか!「イエーメ~ン!」あとはもう成すがまま、そして彼の車は僕の為に、しっかりストップ!そしてウインク!道を譲り僕は目的地に時間どうりに到着出来た!あの感じは、あの車乗ってる人同志しか分からんのよねーっと。

 

冬のボストンはマイナス20度以下にもなるので、ボロ車を朝に動かす時は大変で、1時間くらい格闘するのはザラだった。それでも最終的にはエンジンがかかるのが不思議!日本では考えられない。

 

こんな事もあった。この頃、車検のお金が払えなくて、困っていたら、インディアンヒルの校長が「近くの村に、車の整備士をしている、アマチュアドラマーがいる、彼にレッスンを数回やってそれを、レッスン代にしたらどうだ」とサジェストしてくれて、連絡も取ってくれてとても助かったことがあった。

 

結局5回レッスンをやる予定が、彼が忙しくて2回しか出来なかったのだが、正規のレッスンの後に彼の自宅の倉庫に行く。するとそこにはロック用のフルセットが組んであって、その時は「ボストンから日本人の先生が来る」というので「どれどれ」みたいなノリで彼の友人やら、子分みたいな人まで来て、レッスンを見学してたっけ。

 

僕が「じゃー少し叩いてみて」というと彼は少し照れたふうで(でも年は僕と同じくらいだが見た目が45、6に見える、逞しい感じの人)可愛かった。「都会の人しか知らないと、アメリカにこういう人もいる事をつい忘れてしまってるな」と僕は思った。田舎の人は素朴なのだ、これは世界共通。

 

僕がアメリカに残って音楽やりたいけどお金がないのを理解して、それに協力してくれた人たちに感謝。もうホントに有り難かった。(なんか僕ってそういう、雰囲気があるみたい、ええとこの出では無い事はすぐに分かるみたい、、これってなに?)。

 

でも、お金がなかったり、困っている時の方が、感動する事に敏感になる気がする。

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アイオワ?

 

 

とにかく、お金がなくて(こればっか)、「もう日本に帰るしかないのか」と思っていた頃。その頃友人(彼はボストンでは有名なドラマーで別のオーディションに受かりニューヨークに移ることになっていた。)がやっていた、滞在芸術家(地方に住んで大学で教えながら、演奏活動をして、給料を貰うというもの)の代わりを探していて僕にやらないか?と話がきた。

 

それはアイオワ州のルーサー大学のキャンバス内にバンドのメンバー達で協同生活し、地域の音楽の活性化をはかる目的で政府から任命されるもので。ジャズ教育を中心として、大学、小中高校、老人ホーム等色々なところで演奏するもの。これもテープを送り、オーディションがあった。勿論クレクレでゲット!

 

アメリカは外国人の僕にもお金を出してくれたのだ、日本のお偉方達!日本もこういうの作らないと才能のある若者はみんな国を離れるぜ!
最初アイオワと聴いて全く何処にあるのかノーアイデアだった。友人にその話をしたら、「なんで、アイオワやねん?豚とトウモロコシの他になんかアルか?」、、と勿論英語で言われた。

 

ケビン・コスナ-出演のフィールド オブ ドリームスという有名な映画があるが、その中でボストンとアイオワが舞台になっているが、その頃の僕は豚とコーンのアイオワに何の興味もなかった。

 

これは引っ越しが面白かった。つまりボストンからアイオワのデコラというところまでレンタカーを借りて(愛しのプリマスとは既にお別れしていた)一人でドラムと最低限の生活用品を積み、まる2日以上運転した経験。

 

途中五大湖のエリ-湖の近くのモーテルで休憩したのを除き、トータルで40時間はハンドルを握っていた事になる。マサチュセッツからニューヨーク、インディアナ、オハイオ、イリノイ等を経てやっとアイオワに入って、ガソリンスタンドから電話をしたら、コインが足りない(市や州が代わると一気に料金が跳ね上がるのだ)という、オペレイターのアナウンスが入る、「おかしいな、同じ州の筈なのに」と思って、スタンドの店員に聞いたら、まだだいぶ先だという。アイオワに着いたと喜んでいたら、そこからまだ、なんと8時間以上も先だったのだ(ひょえー)。

 

地図で見ると少しが、実は遠いのだ。アメリカはデカイ!地図で見て近道をしたらなんかとんでもない田舎道にまぎれてしまった。

 

時期は新年明けてすぐの1月3日。ラジオから大雪に注意と警報を促していた。しっかりした車(レンタカー)だったので、途中でエンストする事はなかったが、周りがだんだん雪に囲まれて暗くなって来た時はビビった。

 

まわりに明かりが一つもなくなってしまったのだ。ダダッ広い、どこか知らん民家もない道、勿論始めて通る道。一面雪が凄まじく降る中、自分一人、、、しかしこのワタクシ、今まで苦労しただけあって、こういう危険な時に何故か楽しくなって来るのだ。

 

「ひょっとしてココで今、迷子になって雪に埋まってしもたら、誰も助けてくれへんやろなー、誰も日本人がこんな所に来てるとおもわへんやろーし、」「明日の朝刊に謎の東洋人車の中で凍死とか出るンかな-」とか想像してワクワクしてくる(やっぱ変)。

 

冒険家の気持ちはとても良く分かる、必ず抜けだせる自信が何処かにあるのだ。真っ暗やみを道に沿ってひたすらまっすぐ進んだ。すると、、やっとかすかな光が、、、遠くに見える民家か店らしき明かりめがけて、「とりあえず方向はあってるから、見えてる道を進もう」と言う感じ(こういう時、人間って独り言というか自分で自分に喋って一人ボケ&突っ込みをやってしまうのだ)。ワクワク。

 

途中トイレに行きたくなって困った。だれも見てないはずなのに。ポリスに見つかると逮捕されるので、我慢した(そんな雪の時に居るかいな!でも立ちションについては厳しいユナイテッド・ステイツなのだ)。3時間くらい走ったか、やっと明るい所に出て、レストランみたいのがあったので、そこに車を止め中に入った。

 

トイレで用を足して、クラムチャウダーを注文。そこは相当田舎みたいで、恐らく東洋人もあまり見た事ない風で、NYやボストンの街中のそれとは違い、店員が不思議そうにジーッとこっちを見ていたのが印象に残っている。

 

そんなこんなでデコラに着いたのはもう2日目の深夜を回っていた。ガソリンスタンドでサポートファミリーと待ち合わせてたのだが、メーター等凍りついていて、ウルトラQに出て来た、なんでも凍らす怪獣の一シーンを連想した。当人達(サポートファミリーのサック夫妻)に会った時は、感動のあまり抱き着いてしまった。サック夫妻のお家は暖炉があってとっても暖かかった。

 

 

ユニファイ・ジャズ・アンサンブル

 

 

滞在芸術家(ビジティング・アーティスト)としてアイオワのデコラという小さな町にやって来たバンドの名前はユニファイ・ジャズ・アンサンブル。
メンバーは5名、(後列左から)ジェフ(サックス担当カナダ人)、レイ(ベース米国人)、マイク(ヴィブラホン、トロンボーン担当米国人)、(前列)ティム(ピアノ、フルート担当英国人)、にワタクシ(ドラム担当関西人?)という編成、全員ピアノが弾けて、作曲もバリバリ出来る、ツワモノ揃いだった(ワタクシはついていくのに必死)。
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同居している一軒家(ベースのレイだけは別の家に住んでいたが)にダーツがあって、各自のマイダーツを持ち寄って(ちなみに、それぞれの国旗が旗のところに付いている)順番にブルースを弾きながらダーツを続ける。要するに休んでいる人がその先のソロを弾きながら自分の番になったらまた戻って打つ。曲は途切れないと言う訳。

 

とにかく寒い時期だったので、部屋の中でやる遊びのダーツやプール(玉突き)をみんなでよくやった。ここはボストンよりずっと寒く真冬にはマイナス30度まで下がる事もある。大学のキャンパスのすぐ近くに家があって、僕達、講師用のリハーサルスタジオまであった。夜中でもピアノを練習したり出来た。

 

昼間は近所の中学や高校に教えに行ったり、大学でクラスがある時はメンバーが順番に交代で教えた。なんと、この僕も教えたのだ。(勿論英語で。しかも、よその国の総合大学のクラスやで~、ええんかいな)。おかげで僕は「サ-」と呼ばれて上機嫌、、、だったのは、少しの間ですぐ、情けないやつという事実は見抜かれた(笑)。でも、言葉が他の英語圏の人に比べると遅いので。「ティチャー、カズミはシャイ」と近所で評判になってしまった。

 

でも僕が一人でちゃんとクラスをやったのは、今考えると驚き!でも自分の好きなトピックを持っていって、ジャズの楽しみ方を教える、、、ふりをして、自分が楽しんでいたのだ。はっはっはっはー!その内容はメチャメチャマニアックなもの(だれがそんなもん知りたいかー?)その内容については、いずれ叉の機会に、、。

 

それから、生徒証ならぬ講師の証を貰って、カフェでは食い放題!衣服も支給して貰い(ただサイズがでかく、ちょーダサイ、でもそれを着ていた)。アパート代もタダ、給料も、チャンと頂いてた。ええやろ、ええやろ、クレクレ!そのうちその学校に3人だけいた日本人の生徒(とにかくでかい大学だったが、、全校学生何人いたか忘れた)とも知り合いになり、「芸は身を助けるわよねー」としみじみ言われたことがあった。

 

校内放送用のビデオ撮りで、ユニファイ・ジャズ・アンサンブルのドキュメントを作る企画があったんだが、たまたまリーダーのマイクは面白いやつで、何故か僕を「タップダンサーの達人」と言ってしまい。僕はそおいう事になってしまった。彼が一応リーダーで、面倒見が良かったので、僕は困った時はヤツに色々と質問をしたのだが、僕はよくからかわれた。

 

例えば、講師の証明を貰いに、学長の入る部屋に来るよう通知が来て、自信がなかったので手続きの事をマイクに訪ねたのだが、ヤツは「そんなの簡単だよ、まず部屋に入るでしょう、書類を書いて、サインして、国旗に向かって敬礼!そして学長の前でタップダンスをやれ!、、、、」とここで奴が、ふざけてるのを知る(おそい)といったパターン。こいつ、日本に来たら憶えとけよー。

 

やっぱり僕はどこか抜けているのか、女子の学生にもよくからかわれた。特に自分では気付いてない所で発音がおかしかったりして。可愛い子が少なかったのだが(特にアメリカの田舎は太めの人が多く、日本のテレビコマーシャルで見るようなモデルタイプの子は居ない。その中でもそれなりに楽しみを見つけようとしていた)、その中で一人だけわりと癒し系の子が居た。

 

ある日その子がカフェで4、5人の学生と食事をしていて、僕はその日が彼女の誕生日なのを知っていて、会うなり思わず、「ハッピーバースデイ!」と言ってしまったのだ。そこに居た彼女や彼等は何故かクスクス笑う「なんでやねん?」と大阪弁でなくて英語で聴くと、どうも発音が違うらしい、正しくはヘアッピブウ-ス(ここは舌を噛む)デイと言わねばならぬらしい、そのコーチを受けるフリをして彼女と2ショット(なんと姑息な、、、)なんて事もあったな-。

 

英語は現地で女性との会話で学ぶのが一番(でも気がつくと自分の英語が女言葉になっていたりして、、)僕の友人のアメリカ人は日本人の女性とデートするのが趣味で日本語を喋るのだが、「マジー」とか「いやだ~」とか「やめてよ~」などと、なんか女子高生的フレーズが出て来て、聞いていて眉間にしわをよせてしまう事がある。

 

ユニファイ・アンサンブルのメンバーは全員が作曲もアレンジも出来て、教える事もできるエリート揃い。僕はやはりついていくのは大変だった。イギリス出身のティムは、やはり故郷の、ブラックユーモアが恋しいらしく、バンドカーでの移動の時に、よくイギリスのお笑い(?)のカセットをかけ、皆を洗脳していた。

 

この頃ふいにラジオから聞こえるビートルズが自然に聴けた、というか歌詞が日本の歌を聴いているかのように「すっと」入って来たのには驚いた。特集で何曲もオンエアーしていたが、彼等の言っている事全てが理解出来たのだ。(わおー)

 

そんなこんなで、毎日音楽漬けの生活は過ぎていく、
まあ、でも楽しい事だけでもなかった。僕はあまりの寒い気候に少し体調をこわし始めていたのだ、、、、、、。冬は町のあちこちにツララが垂れ下がっている。といってもそれは相当逞しいものだ。部屋の外に出た瞬間寒さで鼻の中が凍るのが分かる。

 

ツッという感じ。フンハ-フンハ-しても凍ったものは、部屋の中に入らないと治らないのだ。とにかく僕はそのせいか否か定かではないが、首のリンパ腺辺りが痛くて腫れているような感じが続いていた。やる気が出ず、いつもの自分ではない。  ひょっとしてマズイビョーキにかかったか?心当たりは、、、と考えたが、、、。

 

自分で勝手に薬をやめていたせいか?近くの薬局に備え付けの血圧計で測ったら、なな、なんと血圧246/126?ゲロゲロゲーこれはマズイ!しばらくバンドは僕抜きのドラムレスで演奏活動することに。

 

この頃の僕はタバコを吸っていたのだが。雪深いアイオワのデコラ、他のメンバーがいない時は自分の部屋の窓からタバコを燻らせて外を眺めては、物思いに耽る事が多かった。僕はよく周りから、アメリカの方が合ってるんじゃない?と人から無責任に言われるのだが。確かにオープンになれるのだが、全く違う生活習慣と寒さのためどこかで体にストレスもたまっていたのだろう。

 

アメリカに定住する、或いは出来る人は、僕に言わせると食べ物への執着がない、日本食にこだわらない人だと思う。僕は食事制限もあるし、塩分はさほどでもないが、油やコレステロールの摂取量がアメ公のが断然上、あのそろばんのタマのような体系(キョウツケ-が出来ない、)の人もアメリカに行き始めて見たが、あの食生活を知ると頷きざるをえない。

 

仕事から戻ってきたり、オフの日などは皆居間に集まって、映画を見たり、スターウオーズを見るのだが。そんとき彼等が口にするのが毎回ポップコーンやビーフジャーキーなのでスグに嫌気が刺し、御飯と日本から送られてきたお茶漬けの素で参加しようと思ったのだが、周りを見渡しても誰も、自分の気持ちを理解できる雰囲気ではない。

 

話をゴマ化し、一人こっそり二階に上がり、自分の部屋でお茶漬けをすすることも何度かあった(さみしー)。彼等とこのへんの気分を共有出来ないのが、非常につらい、、。ただ相槌を打ってくれるだけでいいのが、、、。「やっぱ日本食やねー」と。

 

海外に住んでいる日本人のかかえるストレスのなかに、食事文化の違いというのは、気づかないところで実は大きく関わっているのだと思う。体格がまるで違うし当然体力も違う。何人かの国際結婚をした人たちからも聴いた事が有るがアジア人は西洋人に比べるとやはり繊細に出来ているらしい。アメリカに移住した日本人が成人病にかかる割り合いは2倍という話も聴いた事が有る。

 

日本食というのは本当によく出来ている。白米というカロリー源としては良いがそれだけだと酸性でバランスの悪い食品をその主食に置いた為、副食であるおかずが充実したらしい。  話がまたそれたが、体は謎の痛みと、重くだるい感じがずっと続き、アイオワの病院に行き診察も受けたが血圧の薬を飲まないとダメだといわれた。そうとう疲れがたまっているのだろうとも言われた。僕は帰りたくなかったが、体はもう限界に達していた。

 

地元のコミュニティーの人たちがお別れ会をしてくれたが、やはり田舎の人たちは暖かい(メンバーは全員里帰りしていて、電話で「じゃーな」くらいのあっさりしたものだったが、、、)。帰国当日は空港まで(国際線はなんと隣のミネソタまで行かないと乗れないのでデコラからクルマで8時間)コミュニティーの代表のカーバー夫妻に送って頂いた。「またいつでも帰っておいで」と言ってくれ、抱き合って別れた。
その時またアメリカに戻る為、往復チケットを買ったのを憶えている。

 

 

検査、検査、検査

 

 

帰国してからは大変だった。あれは確か関西国際空港が出来た年だったと思う。京都駅に着いた時に母親が迎えに来てくれていて(めったにそういう事はしない母だが)、思っていたより老けた母の姿にぐっと込み上げるものがあった。
結局、僕の症状は変わらず、相変わらず首の周りが痛く、痰には血が混じり、すぐに疲れる状態は続き、血圧はひどい時は200近くあった。取りあえず昔通っていた京都の国立の病院へ行ったら、やはり薬を続けないとマズイと言われ、また降圧剤を飲み始めた。ドラッグからは離れられんのかー。

 

色々な検査を受けたら、なんと胃にも異常があるらしく、調べたら十二指腸に潰瘍が出来ていて、穴があいて自然に治っていたと言うのだ。「ああ、そういえば、痛い時があったなー」と呑気なヤツ。でも問題は首の痛みと、血が混じる事。その他持病の血圧以外にも検査をしたが結局それらの解答は出ず仕舞いだった。

 

僕はだんだん不安にかられた。ひょっとしたら、、、。
そうその頃日本でも話題になっていた病気、、、、の検査までした。健康食品で良いと言われるものを試したり、謎の宗教のお呪い師みたいな人の所に行ったりしたが(その頃は真剣だった)症状は変わらず。血痰の正体を突き止める為、内視鏡を肺に入れる事になった。

 

僕の知人の看護士さんによるとこれは数ある検査の中でも最も、辛いものらしい(あ-全然うれしくなーい)。しかもその人が言うには、あの辛さで今までタバコをガンガンすっていた人が止めるらしい、、、、と。これはとんでもない事になってしまった。

 

僕はさんざん悩んだが、これをクリヤーしないとアメリカに戻れないのだと己に言い聞かせた。検査日がち近付くにつれ夜が眠れなくなっていった。夜中に何度も夢で検査をされているシーンが出て来た(もうー、それでなくても当日やらなアカンのになんで何回も夢で検査されなアカンのやー!と己に怒る)。

 

今でも忘れない、まづノドに麻酔をするのだが、中に薬が入るようにお医者さんが左手でベロを引っ張りながら右手で不味い麻酔薬をシュッシュッシュッと、、。お医者さんが頭にかぶっている、まーるい鏡のまん中が穴になっているやつを目にかかるようにして、あの細い穴からこちらをみているのだが、その目付き、悪魔のように無気味に光っているのだ(おーこわ、おーこわ)。薬は不味い、舌引っ張られて痛い。もうそこは地獄絵図。

 

それが終わると、まるでスタートレックに出てきそうな、ロボットの実験台のようなのの上に乗せられ、口から管を差し込まれる(これは胃カメラの比ではない)喉元を通る時(飲み込め、飲み込め)といわれるのだが、飲み込んでもそれはずっと繋がっているのだ。管を入れる人、モニターを覗き込んでいる人が数人。しかも看護士さんは僕の血圧を測りながらの皆、総勢5、6人スタッフ動員での検査だった。

 

「ふー、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、っ」僕は、もぬけのから状態になっていた。「もうどんな、検査でも受けてやるー!」といいたいところだが、実際は「検査もう勘弁しておくんなせー」と言いたかった。

 

そんなこんなで今度は結果を聞く恐怖、、、しかし、結果は「肺の一部に切れやすい血管があって、空気が悪かったり、ストレスがあると切れて痰に血が混じる、、」と、どうもそれは、重大な病気とは関係ないと言うことだった(なーんや、心配したのに)。

 

と言う事で、今だに僕は空気の悪い所にいるとよく血が混じる事があるのだが、最近はあまり気にしていない(チャン、チャン!)。あの苦痛の日々は何だったんだろう、、、。

 

この間京都にいた僕は、他人のライブに顔を出したり、ドラムソロやクリニックをライブハウスや公民館、学校などでやったが、皆、僕に会うなり「元気そうやなー、メチャメチャ太ったんちゃう?」

 

体に持病以外の異常が認められなかったので、またアメリカに戻れる事になった。でもこの頃の僕は飛行機も恐かったのだ(現在は平気ですハイ!)。一難去ってまた一難。オレの人生って何?

 

 

飛行機大好き?

 

 

だからボストンまでは直通がないのでニューヨークまで行って、電車でボストンへという手段を使っていた(少しでも乗っている時間を減らす為)。僕は離陸前から、心臓はもうバクバク状態(顔はでかいが心臓はちいさい)。離陸したら最後、飛行機が揺れるたび、お祈りしたくなって来る。

 

でも人間の心理とは面白いものである時 東南アジアのどこかから来たおばさんの隣に乗り合わせた事があった。息子さんが、仕事の関係でアメリカに居て何度も往復しているとの事、、おばさんは飛行機が離陸する前から落ち着かん感じで、飛行機が揺れるたび両手を合わせて、途中から座席に正座してお祈りしだした。
強いものには反抗するが、弱いものの味方、優しいイケチャンとしては、黙っていられない。己の恐怖も忘れて、おばちゃんを励ましにかかるのだった。本当に人間の気分的なものって面白いものだ。自分より弱い人を見ると己の立場を忘れる。僕は自分の事を話して、まず安心感を持ってもらい、そしておばさんの話を聞いた。

 

おばさんは本当に飛行機に乗るのがイヤでイヤでたまらんらしいけど、息子には会いたいとその事情を説明してくれた。その間も、機体が揺れるたび、手を合わせそうになるおばちゃんだったが。そのたび「大丈夫、大丈夫、全然平気やから」(勿論大阪弁ではなく、英語です)と、「オレは一体何者やねん?自分がないんかい!」という感じで、恐怖感が無くなってしまったのだった。

 

飛行機に乗っての楽しみと言えば外の景色と隣り合わせる人との出会い。あまり美しい女性とは隣り合わせる事が残念ながらないのだが、どこかの会社の偉いさんとか、脱サラして事業を始めた人など、今まで何人かがライブに来てくれた。あの腰を据えてゆったりとお話をするのはとても楽しい。おーっとまた話がそれてしまった。失礼。

 

 

ボストンふたたび

 

 

時は冬の12月ニューヨークJFKに着いたイケチャンは、ブルックリンの友人の家にお世話になる。そこは今をときめくニューヨークの若手ミュージシャン達(スペイン人ドラマーのマーク=彼は今国で最も忙しくしているドラマー、カナダ人サックス奏者のシェイマス=NY若手ナンバー1テナー)が生活を共にしているアパートだった。そこに一晩だけお世話になり、翌日ボストンへ。

 

電車の中から眺める景色はボストンが近くなるにつれ、心に滲みて来た。市のまん中にあるプレデンシャルビルが、京都タワーのように街の中心にある。子供の頃、やむなく夜の仕事に出ていた母の帰りを京都タワーのてっぺんのチカチカを見ながら待っていたのを思い出す(あー滲みるう)。あの灯りのチカチカってなんか色々な思い出の中に刻まれてるのよね。でしょう皆さん?悪い事してへんかー?

 

久しぶりのボストンでは、また学校の近くにアパートを探したが、昔一緒に通っていた友人の殆どが、卒業して国に帰ってしまっていた。以前帰国前に知り合った友人宅にアパートが決まるまでの間、転がり込んだ。そこは地下で、住民2人ともドラマーで部屋で練習出来るという、日本では考えられない環境。しかしムチャクチャ暑い!!

 

アメリカは北海道のように、冬になると部屋の中に温水のヒーターが通る仕組みになっていて、外は寒いが、部屋の中に入ると即、着ていたコートを、脱がないと汗だくになってしまうのだ。

 

そこは、アパートの地下なので、ボイラー室から上の全ての部屋へいくパイプのもとのデカイのが天井を縦横無尽に走っている。北海道と同じ緯度のボストン、冬はマイナス20度近くまで気温が下がるので、外から帰ってくると「ありがたい」と思うのも束の間、暑くて寝られん!勿論パンツ一丁だが、汗だく。練習などする気にはなれん!

 

その年はロス地震があった1994年、ちょうど阪神淡路大震災の一年前の1月17日、ボロの白黒テレビで、極暑のなかニュースを見ていたのを思い出す。もうあれから8年も過ぎたなんて、、、

 

その頃はお金がなくて食費をうかせる為に、毎日冷蔵庫の残り物ばかりでごまかしたカレーの日々が続いた。4日ぐらい朝晩続いた事もあった。ある日冷蔵庫が壊れていて、カチンカチンに凍っていたコンニャクが溶けていたのをみつけた。「これも入れてまえ、ないよりましやー」ところがこれがルームメイトや隣人に大ヒット!
中に細かい空気の穴がいっぱい空いていて、歯触りが、コリコリして、ちょっと油揚げっぽいんだが、味はやっぱりちょっとこんにゃく!カレーの味でなかなかいける、、、、と思っていたんだが日本に帰って流行らそうと思ったが流行らんかった。皆さん、もし誤ってコンニャクを凍らせてしまったら試してみて!僕はいけると思う。

 

スカンジナビア・ツアー

 

 

練習を続ける為学校にパートタイムで復帰、スタジオを借り個人練習をしていたら、「トントン」とノックする人がいた、振り返ると昔少し、セッションした事の有る、スエーデン人の歌のねーちゃんだった。「バンドのドラマーが辞めて困っている、スカンジナビアツアーも近いので、急で申し訳ないが、やって貰えないか?」とのこと。

 

戻って早々の棚ボタ!スグに快諾するのも芸がないと思い、「んー?どんな音楽?条件は?」ともったい付けたかったが、その頃とても貧乏だった僕はスグにオーケーしてしまった。

 

ピアノがフィンランド人、ベースはブルガリア人、歌はスエーデン人、そしてドラムは関西人?!このバンド僕と歌をのぞく2人が長身でピアニストは180センチ、ベースは190センチ以上、歌のネーちゃんも女性の割には小さくはない、僕は日本人では標準の170センチ。

 

普段一緒に、喋ったりしている時は一切気にしてないのだが、ツアーの時やら、皆で連なって街を歩いていてショーウインドウなんかに順に鏡に移った時、自分の番が来て、その姿を見て、あまりの体格の違いに、「えーっ、オレ、こんなチンチクリンかいなあー?」とビックリ!

 

日本では普通サイズでも北欧やロシア系の人たちと比べると、子供サイズ、しかもビッグフェイス!アンド ショートレッグ!アンド ガニーマーター!ちなみに日本人の中では僕の年代では顔もさほどデカクないし足は長い方だと思う(いや、ホンマの話が、、)。しかし彼等は超ビッグサイズ。

 

このビッグサイズの2人がしばしば音楽性のことでもめて、けんかをおっぱじめるのだった。お互いに一歩も引かないタチ、一度、ある曲の構成がAABA形式かAAB形式かでもめて、お互いがそれぞれ信じて疑わないサイズで一曲演奏しきった事があったが(リズムはあってるが構成が8小節ずれて輪唱状態)、間に挟まれた僕は凄い勢いでイレギュラーにサビが左右からやって来てエグイ状況に耐えて、ひたすらタイムをキープしていた記憶がある(エグイでーこれ)。

 

フィンランド公営ラジオのライブ放送では、本番収録中に二人がもめた、なんと歌のネーちゃんとも、もめ出して三つどもえ状態。体は小さいが一番年長の僕はオトナに徹して様子を見ていた(つもり)。

 

意外とこういう時にテンションが良い意味で上がって、良い演奏になる時もある。僕はアイオワのユニファイ・ジャズの時もそうだが、彼等のようにケンカしてまでハッキリ自分の主張を通す態度を見ては、自分も見習いたいと思っていた。まず、お互い言いたい事をぶつけあって、そこから始まる。みんな価値観も経験して来た事も違う訳だから、ぶつかって当たり前なのだ。日本ではまだまだこういうやり方が出来にくいと思う。

 

スエーデンのジャズフェス、フィンランドのジャズフェス、ライブハウス等、各地で演奏した。