河瀬先生との思い出

今日は河瀬勝彦先生の命日。
早いものでもう20年が過ぎた、、

 
先生の写真はいつも練習室に入るとまず目につくところに掛けてある。
僕は20歳から22歳くらいまでの間先生のところに通っていた、、と言ってもあまり良い弟子ではなかったかもしれない。
後半は忙しくなって、定期的に行く事ができなかったが、久しぶりに伺っても先生はいつも温かくも厳しい言葉をかけてくれた。
(以下長文です🙇‍♂️)

 
「お前はなあ、中途半端に真面目やねん、
もっとなあ、祈るような気持ちで練習せえ!集中せなあかん。」
「練習用のスティックこそええのを使わなあかんねん、本番用は安モンでええのや、お前らは逆や。」
「池長はな、音色で勝負するタイプや、冨樫や菊池雅章みたいになるかそこはまだわからんけどな。」

 
今でも先生の言葉とその独特の口調、佇まいを思い出す、、
習っていた1980年当時、すでにゲイリー・チェイフィーのパターンズをレッスンの教材に取り入れて普通におこなわれていた。当時まだ日本で誰もやってなかったと思う。

 
先生は関西のドラマーの間では誰もが知っている伝説の人、前衛的なスタイルの演奏家。磨き込まれた艶やかな音色と打楽器奏者としての佇まい、演奏を聴いていてもいきなり奇数連符が突拍子もないタイミングで飛び出して皆がビックリする。
当時はクラシックの現代音楽ばりの譜面もレッスンで沢山出てきた。そのお陰か渡米して、バークリー音楽院でポリリズムのクラスでこのテキストをやらされた時も楽勝で叩けた。
当時のクラスの先生にベタ褒めされたことを覚えている。でも当時の河瀬スクールの上級クラスの殆どの人は叩けたと思う。

 
先生の教室は月火水かなんかの週3日の午後と夜があって、どの時間に行っても良いという道場のような感じだった。
(現在もお弟子さんがその教室を引き継いでいる)
先生がホワイトボードの前で実例を見せることもあったが、先生は生徒が10数名並んで座ってドラムパッドを叩いている席の間を
「さあ〜、練習せ〜よ、練習せ〜よ、お前ら、祈るような気持ちで練習せえよ。」
と手をすりすり擦りながら、まるでそろばん塾の先生のような雰囲気で我々を鼓舞していた。
内容はかなり高度で、芸に対する厳しさはあるけど先生のどこかユーモラスなところも共存して、こちらを心地よい気分にもさせてくれる、魅力的な方だった。

 
先生の住む自宅のアパートの屋上が教室になっていて、教室から下に降りると先生の居住スペースらしきところがあって、そこに休憩時間になると何人かの生徒がくつろいでいる先生から、為になる話を何か授かろうと、降りていったりしていた。
自分はあまりそこには行かなかったが、何かのきっかけで先生と二人きりになったりすると、先生は色々為になる事を話してくれた。全てが彼の経験から導き出した知恵のようなものだ。それらの全てが今となっては宝物。

 
先日関西のライブツアー中に生前の先生の事を特によく知るドラマーが僕のライブに聴きにきてくれて、興味深いというかとんでもない話を聞いた。
晩年の先生は闘病していて、お付きの生徒が何人かいて、いよいよ先生が具合が怪しくなって来た頃、色んな話を聞いたそうで、その中に、先生が長年教えてきて、今までの弟子でスゴいと思った人はいますか?と聞いたという。

(いかにも短絡的な聞き方だが、意味はわからない事もない。)
その話によると池長という奴がいてそいつが一番凄い。と言われたそうだ。
その話を聞いた時は流石に僕は気絶しそうになった、、
これは全く違うルートからも二人の別々のドラマーに聞いたので満更デマでもないかもしれない。
いや、そう思って生きていこう!

 

 

今まで先生に習った生徒はおそらく300や400を優に越えると想像するけど、、本当だとしたらそれはとんでもない事だ、、、
でも、思い返すと、20歳くらいの時自分のライブに初めて来てくれた時、先生はすごく嬉しそうだった。
「お前、よう叩いとったわ。」

 

それまでのレッスンでは一度も褒められた事がないのに、意外な反応に驚いた事があった。

 

実際先生は僕が留学の途中で一時帰国した時も、食事に招待してくださり。二人っきりで割と高級な中華レストランに入って、
一緒に中華料理を食べて結構長い時間色々お話ししてくださった事があって、、
その時も自分には持病の為食事制限があったのだが、
先生は店に入るなり開口一番お店の人に、
「あの〜、こいつねえ、血圧がむちゃくちゃ高いから、塩食うたら死んでまいよるから、塩はなるべく使わんとってな」
と仰って、店の人がちょっとびっくりされてたのを今でも鮮明に思い出す。

 
一緒に食事をしながら先生のありがたい話を受け止めてしっかり聞いていると、
「おい、お前、しょんぼりすんなよ、」
僕が大人しく話を聞いているので、その間が心配になるのか、自分が喋り出すまで待てないと言ったような感じで、その時今まで聞いた事がないような個人的な話もしてくださって、感激した覚えがある。
豪快なところと、色々細かく心配してくださるところとが共存するような不思議な方だった。根底にあるのはやはり人としての温かさ。

 
たまたま今朝、起きて久しぶりにFBをボーッと見ていたら同門のプロドラマーの方が投稿されていた。
そこには先生のお墓の情報も書かれており、今すぐお墓参りをしたいと思った。同じ気持ちの弟子たちが他にも大勢いると思う。
自分は習っていた時から気にかけていただいた思いが強いので、1日も早く1人前になって「先生のおかげでこうなりました!」
と早くお礼を言いたいとずーと思っていたが、20代後半に大阪を離れて上京してすぐに渡米して、帰国後また東京で慌ただしくして、不義理しているうちに、先生の訃報が飛び込んできて、その時はなんとも申し訳ない気持ちになった。
もう少し、もう少し上手くならないと、これじゃまだ先生に伝えられない、、と思っているうちに、先生は亡くなってしまったのだ。
それからは本当にお世話になった人には例えしつこく思われても定期的にこちらから連絡を取ったり、会いに行くようにしている。

 
先日、知人が先生の演奏が入っているビデオを貸してくれて、久しぶりに先生の音楽としてのドラムを聴く機会があった。
色々感じるところがあった、やはり意外なところに奇数連符が散りばめられたもので、アンサンブルとしては正直少し難しい感じがあった。

 
自分は今から10年以上前、変拍子の現在のトレンドとなっている感じ方をやり始めた若いジェネレーションの海外ミュージシャンとツアーする経験があって、そこからかなり苦労して今のポリリズム系の主流の形を身につける事ができた。これを先生が知ったらどう思っただろうか?って思った。

 
自分が習っていた頃は、5、6、7、9連の3、4、5、6、7取りなどを、数限りなく細分化して練習していて、「コレいつになったら使う時来るんだろうか?」って思っていたけど、今となってはそう言った先人たちの努力がようやく音楽の中で各所で身を結び始めているんだなって、すごく思う。

 
奇数連が特別な事ではないっていう事を自分は当時先生に叩き込まれたと思っている。
僕の世代だとそれはとてもとても貴重な体験だったと今改めて思う。

 
「不肖ですが、教わったことをまた弟子や後進に伝えたりしています。
ごく稀にですが、自分でもビックリするくらい良い感じな時があるのでそういう時はしっかり聴いててくださいね!」
と言ったら、
「常にそうやないとあかんのや!!」
と言われそうですが、、
先生、これからも精進します🙇‍♂️


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