| IKECHAN STORY 4 |
| アイオワ? とにかく、お金がなくて(こればっか)、「もう日本に帰るしかないのか」と思っていた頃。その頃友人(彼はボストンでは有名なドラマーで別のオーディションに受かりニューヨークに移ることになっていた。)がやっていた、滞在芸術家(地方に住んで大学で教えながら、演奏活動をして、給料を貰うというもの)の代わりを探していて僕にやらないか?と話がきた。 それはアイオワ州のルーサー大学のキャンバス内にバンドのメンバー達で協同生活し、地域の音楽の活性化をはかる目的で政府から任命されるもので。ジャズ教育を中心として、大学、小中高校、老人ホーム等色々なところで演奏するもの。これもテープを送り、オーディションがあった。勿論クレクレでゲット! アメリカは外国人の僕にもお金を出してくれたのだ、日本のお偉方達!日本もこういうの作らないと才能のある若者はみんな国を離れるぜ! 最初アイオワと聴いて全く何処にあるのかノーアイデアだった。友人にその話をしたら、「なんで、アイオワやねん?豚とトウモロコシの他になんかアルか?」、、と勿論英語で言われた。 ケビン・コスナ−出演のフィールド・オブ.ザ・ドリームスという有名な映画があるが、その中でボストンとアイオワが舞台になっているが、その頃の僕は豚とコーンのアイオワに何の興味もなかった。 これは引っ越しが面白かった。つまりボストンからアイオワのデコラというところまでレンタカーを借りて(愛しのプリマスとは既にお別れしていた)一人でドラムと最低限の生活用品を積み、まる2日以上運転した経験。 途中五大湖のエリ−湖の近くのモーテルで休憩したのを除き、トータルで40時間はハンドルを握っていた事になる。マサチュセッツからニューヨーク、インディアナ、オハイオ、イリノイ等を経てやっとアイオワに入って、ガソリンスタンドから電話をしたら、コインが足りない(市や州が代わると一気に料金が跳ね上がるのだ)という、オペレイターのアナウンスが入る、「おかしいな、同じ州の筈なのに」と思って、スタンドの店員に聞いたら、まだだいぶ先だという。アイオワに着いたと喜んでいたら、そこからまだ、なんと8時間以上も先だったのだ(ひょえー)。 地図で見ると少しが、実は遠いのだ。アメリカはデカイ!地図で見て近道をしたらなんかとんでもない田舎道にまぎれてしまった。 時期は新年明けてすぐの1月3日。ラジオから大雪に注意と警報を促していた。しっかりした車(レンタカー)だったので、途中でエンストする事はなかったが、周りがだんだん雪に囲まれて暗くなって来た時はビビった。 まわりに明かりが一つもなくなってしまったのだ。ダダッ広い、どこか知らん民家もない道、勿論始めて通る道。一面雪が凄まじく降る中、自分一人、、、しかしこのワタクシ、今まで苦労しただけあって、こういう危険な時に何故か楽しくなって来るのだ。 「ひょっとしてココで今、迷子になって雪に埋まってしもたら、誰も助けてくれへんやろなー、誰も日本人がこんな所に来てるとおもわへんやろーし、」「明日の朝刊に謎の東洋人車の中で凍死とか出るンかな−」とか想像してワクワクしてくる(やっぱ変)。 冒険家の気持ちはとても良く分かる、必ず抜けだせる自信が何処かにあるのだ。真っ暗やみを道に沿ってひたすらまっすぐ進んだ。すると、、やっとかすかな光が、、、遠くに見える民家か店らしき明かりめがけて、「とりあえず方向はあってるから、見えてる道を進もう」と言う感じ(こういう時、人間って独り言というか自分で自分に喋って一人ボケ&突っ込みをやってしまうのだ)。ワクワク。 途中トイレに行きたくなって困った。だれも見てないはずなのに。ポリスに見つかると逮捕されるので、我慢した(そんな雪の時に居るかいな!でも立ちションについては厳しいユナイテッド・ステイツなのだ)。3時間くらい走ったか、やっと明るい所に出て、レストランみたいのがあったので、そこに車を止め中に入った。 トイレで用を足して、クラムチャウダーを注文。そこは相当田舎みたいで、恐らく東洋人もあまり見た事ない風で、NYやボストンの街中のそれとは違い、店員が不思議そうにジーッとこっちを見ていたのが印象に残っている。 そんなこんなでデコラに着いたのはもう2日目の深夜を回っていた。ガソリンスタンドでサポートファミリーと待ち合わせてたのだが、メーター等凍りついていて、ウルトラQに出て来た、なんでも凍らす怪獣の一シーンを連想した。当人達(サポートファミリーのサック夫妻)に会った時は、感動のあまり抱き着いてしまった。サック夫妻のお家は暖炉があってとっても暖かかった。 ユニファイ・ジャズ・アンサンブル 滞在芸術家(ビジティング・アーティスト)としてアイオワのデコラという小さな町にやって来たバンドの名前はユニファイ・ジャズ・アンサンブル。 メンバーは5名、(後列左から)ジェフ(サックス担当カナダ人)、レイ(ベース米国人)、マイク(ヴィブラホン、トロンボーン担当米国人)、(前列)ティム(ピアノ、フルート担当英国人)、に僕(ドラム担当関西人?)という編成、全員ピアノが弾けて、作曲もバリバリ出来る、ツワモノ揃いだった(僕はついていくのに必死)。同居している一軒家(ベースのレイだけは別の家に住んでいたが)にダーツがあって、各自のマイダーツを持ち寄って(ちなみに、それぞれの国旗が旗のところに付いている)順番にブルースを弾きながらダーツを続ける。要するに休んでいる人がその先のソロを弾きながら自分の番になったらまた戻って打つ。曲は途切れないと言う訳。 とにかく寒い時期だったので、部屋の中でやる遊びのダーツやプール(玉突き)をみんなでよくやった。ここはボストンよりずっと寒く真冬にはマイナス30度まで下がる事もある。大学のキャンパスのすぐ近くに家があって、僕達、講師用のリハーサルスタジオまであった。夜中でもピアノを練習したり出来た。 昼間は近所の中学や高校に教えに行ったり、大学でクラスがある時はメンバーが順番に交代で教えた。なんと、この僕も教えたのだ。(勿論英語で。しかも、よその国の総合大学のクラスやで〜、ええんかいな)。おかげで僕は「サ−」と呼ばれて上機嫌、、、だったのは、少しの間ですぐ、情けないやつという事実は見抜かれた(笑)。でも、言葉が他の英語圏の人に比べると遅いので。「ティチャー、カズミはシャイ」と近所で評判になってしまった。 でも僕が一人でちゃんとクラスをやったのは、今考えると驚き!でも自分の好きなトピックを持っていって、ジャズの楽しみ方を教える、、、ふりをして、自分が楽しんでいたのだ。はっはっはっはー!その内容はメチャメチャマニアックなもの(だれがそんなもん知りたいかー?)その内容については、いずれ叉の機会に、、。 それから、生徒証ならぬ講師の証を貰って、カフェでは食い放題!衣服も支給して貰い(ただサイズがでかく、ちょーダサイ、でもそれを着ていた)。アパート代もタダ、給料も、チャンと頂いてた。ええやろ、ええやろ、クレクレ!そのうちその学校に3人だけいた日本人の生徒(とにかくでかい大学だったが、、全校学生何人いたか忘れた)とも知り合いになり、「芸は身を助けるわよねー」としみじみ言われたことがあった。 校内放送用のビデオ撮りで、ユニファイ・ジャズ・アンサンブルのドキュメントを作る企画があったんだが、たまたまリーダーのマイクは面白いやつで、何故か僕を「タップダンサーの達人」と言ってしまい。僕はそおいう事になってしまった。彼が一応リーダーで、面倒見が良かったので、僕は困った時はヤツに色々と質問をしたのだが、僕はよくからかわれた。 例えば、講師の証明を貰いに、学長の入る部屋に来るよう通知が来て、自信がなかったので手続きの事をマイクに訪ねたのだが、ヤツは「そんなの簡単だよ、まず部屋に入るでしょう、書類を書いて、サインして、国旗に向かって敬礼!そして学長の前でタップダンスをやれ!、、、、」とここで奴が、ふざけてるのを知る(おそい)といったパターン。こいつ、日本に来たら憶えとけよー。 やっぱり僕はどこか抜けているのか、女子の学生にもよくからかわれた。特に自分では気付いてない所で発音がおかしかったりして。可愛い子が少なかったのだが(特にアメリカの田舎は太めの人が多く、日本のテレビコマーシャルで見るようなモデルタイプの子は居ない。その中でもそれなりに楽しみを見つけようとしていた)、その中で一人だけわりと癒し系の子が居た。 ある日その子がカフェで4、5人の学生と食事をしていて、僕はその日が彼女の誕生日なのを知っていて、会うなり思わず、「ハッピーバースデイ!」と言ってしまったのだ。そこに居た彼女や彼等は何故かクスクス笑う「なんでやねん?」と大阪弁でなくて英語で聴くと、どうも発音が違うらしい、正しくはヘアッピブウ−ス(ここは舌を噛む)デイと言わねばならぬらしい、そのコーチを受けるフリをして彼女と2ショット(なんと姑息な、、、)なんて事もあったな−。 英語は現地で女性との会話で学ぶのが一番(でも気がつくと自分の英語が女言葉になっていたりして、、)僕の友人のアメリカ人は日本人の女性とデートするのが趣味で日本語を喋るのだが、「マジー」とか「いやだ〜」とか「やめてよ〜」などと、なんか女子高生的フレーズが出て来て、聞いていて眉間にしわをよせてしまう事がある。 ユニファイ・アンサンブルのメンバーは全員が作曲もアレンジも出来て、教える事もできるエリート揃い。僕はやはりついていくのは大変だった。イギリス出身のティムは、やはり故郷の、ブラックユーモアが恋しいらしく、バンドカーでの移動の時に、よくイギリスのお笑い(?)のカセットをかけ、皆を洗脳していた。 この頃ふいにラジオから聞こえるビートルズが自然に聴けた、というか歌詞が日本の歌を聴いているかのように「すっと」入って来たのには驚いた。特集で何曲もオンエアーしていたが、彼等の言っている事全てが理解出来たのだ。(わおー) そんなこんなで、毎日音楽漬けの生活は過ぎていく、 まあ、でも楽しい事だけでもなかった。僕はあまりの寒い気候に少し体調をこわし始めていたのだ、、、、、、。冬は町のあちこちにツララが垂れ下がっている。といってもそれは相当逞しいものだ。部屋の外に出た瞬間寒さで鼻の中が凍るのが分かる。 ツッという感じ。フンハ−フンハ−しても凍ったものは、部屋の中に入らないと治らないのだ。とにかく僕はそのせいか否か定かではないが、首のリンパ腺辺りが痛くて腫れているような感じが続いていた。やる気が出ず、いつもの自分ではない。 ひょっとしてマズイビョーキにかかったか?心当たりは、、、と考えたが、、、。 自分で勝手に薬をやめていたせいか?近くの薬局に備え付けの血圧計で測ったら、なな、なんと血圧246/126?ゲロゲロゲーこれはマズイ!しばらくバンドは僕抜きのドラムレスで演奏活動することに。 この頃の僕はタバコを吸っていたのだが。雪深いアイオワのデコラ、他のメンバーがいない時は自分の部屋の窓からタバコを燻らせて外を眺めては、物思いに耽る事が多かった。僕はよく周りから、アメリカの方が合ってるんじゃない?と人から無責任に言われるのだが。確かにオープンになれるのだが、全く違う生活習慣と寒さのためどこかで体にストレスもたまっていたのだろう。 アメリカに定住する、或いは出来る人は、僕に言わせると食べ物への執着がない、日本食にこだわらない人だと思う。僕は食事制限もあるし、塩分はさほどでもないが、油やコレステロールの摂取量がアメ公のが断然上、あのそろばんのタマのような体系(キョウツケ−が出来ない、)の人もアメリカに行き始めて見たが、あの食生活を知ると頷きざるをえない。 仕事から戻ってきたり、オフの日などは皆居間に集まって、映画を見たり、スターウオーズを見るのだが。そんとき彼等が口にするのが毎回ポップコーンやビーフジャーキーなのでスグに嫌気が刺し、御飯と日本から送られてきたお茶漬けの素で参加しようと思ったのだが、周りを見渡しても誰も、自分の気持ちを理解できる雰囲気ではない。 話をゴマ化し、一人こっそり二階に上がり、自分の部屋でお茶漬けをすすることも何度かあった(さみしー)。彼等とこのへんの気分を共有出来ないのが、非常につらい、、。ただ相槌を打ってくれるだけでいいのが、、、。「やっぱ日本食やねー」と。 海外に住んでいる日本人のかかえるストレスのなかに、食事文化の違いというのは、気づかないところで実は大きく関わっているのだと思う。体格がまるで違うし当然体力も違う。何人かの国際結婚をした人たちからも聴いた事が有るがアジア人は西洋人に比べるとやはり繊細に出来ているらしい。アメリカに移住した日本人が成人病にかかる割り合いは2倍という話も聴いた事が有る。 日本食というのは本当によく出来ている。白米というカロリー源としては良いがそれだけだと酸性でバランスの悪い食品をその主食に置いた為、副食であるおかずが充実したらしい。 話がまたそれたが、体は謎の痛みと、重くだるい感じがずっと続き、アイオワの病院に行き診察も受けたが血圧の薬を飲まないとダメだといわれた。そうとう疲れがたまっているのだろうとも言われた。僕は帰りたくなかったが、体はもう限界に達していた。 地元のコミュニティーの人たちがお別れ会をしてくれたが、やはり田舎の人たちは暖かい(メンバーは全員里帰りしていて、電話で「じゃーな」くらいのあっさりしたものだったが、、、)。帰国当日は空港まで(国際線はなんと隣のミネソタまで行かないと乗れないのでデコラからクルマで8時間)コミュニティーの代表のカーバー夫妻に送って頂いた。「またいつでも帰っておいで」と言ってくれ、抱き合って別れた。 その時またアメリカに戻る為、往復チケットを買ったのを憶えている。 検査、検査、検査 帰国してからは大変だった。あれは確か関西国際空港が出来た年だったと思う。京都駅に着いた時に母親が迎えに来てくれていて(めったにそういう事はしない母だが)、思っていたより老けた母の姿にぐっと込み上げるものがあった。 結局、僕の症状は変わらず、相変わらず首の周りが痛く、痰には血が混じり、すぐに疲れる状態は続き、血圧はひどい時は200近くあった。取りあえず昔通っていた京都の国立の病院へ行ったら、やはり薬を続けないとマズイと言われ、また降圧剤を飲み始めた。 ドラッグからは離れられんのかー。 色々な検査を受けたら、なんと胃にも異常があるらしく、調べたら十二指腸に潰瘍が出来ていて、穴があいて自然に治っていたと言うのだ。「ああ、そういえば、痛い時があったなー」と呑気なヤツ。でも問題は首の痛みと、血が混じる事。その他持病の血圧以外にも検査をしたが結局それらの解答は出ず仕舞いだった。 僕はだんだん不安にかられた。ひょっとしたら、、、。 そうその頃日本でも話題になっていた病気、、、、の検査までした。健康食品で良いと言われるものを試したり、謎の宗教のお呪い師みたいな人の所に行ったりしたが(その頃は真剣だった)症状は変わらず。血痰の正体を突き止める為、内視鏡を肺に入れる事になった。 僕の知人の看護士さんによるとこれは数ある検査の中でも最も、辛いものらしい(あ−全然うれしくなーい)。しかもその人が言うには、あの辛さで今までタバコをガンガンすっていた人が止めるらしい、、、、と。これはとんでもない事になってしまった。 僕はさんざん悩んだが、これをクリヤーしないとアメリカに戻れないのだと己に言い聞かせた。検査日がち近付くにつれ夜が眠れなくなっていった。夜中に何度も夢で検査をされているシーンが出て来た(もうー、それでなくても当日やらなアカンのになんで何回も夢で検査されなアカンのやー!と己に怒る)。 今でも忘れない、まづノドに麻酔をするのだが、中に薬が入るようにお医者さんが左手でベロを引っ張りながら右手で不味い麻酔薬をシュッシュッシュッと、、。お医者さんが頭にかぶっている、まーるい鏡のまん中が穴になっているやつを目にかかるようにして、あの細い穴からこちらをみているのだが、その目付き、悪魔のように無気味に光っているのだ(おーこわ、おーこわ)。薬は不味い、舌引っ張られて痛い。もうそこは地獄絵図。 それが終わると、まるでスタートレックに出てきそうな、ロボットの実験台のようなのの上に乗せられ、口から管を差し込まれる(これは胃カメラの比ではない)喉元を通る時(飲み込め、飲み込め)といわれるのだが、飲み込んでもそれはずっと繋がっているのだ。管を入れる人、モニターを覗き込んでいる人が数人。しかも看護士さんは僕の血圧を測りながらの皆、総勢5、6人スタッフ動員での検査だった。 「ふーっ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」僕は、もぬけのから状態になっていた。「もうどんな、検査でも受けてやるー!」といいたいところだが、実際は「検査もう勘弁しておくんなせー」と言いたかった。 そんなこんなで今度は結果を聞く恐怖、、、しかし、結果は「肺の一部に切れやすい血管があって、空気が悪かったり、ストレスがあると切れて痰に血が混じる、、」と、どうもそれは、重大な病気とは関係ないと言うことだった(なーんや、心配したのに)。 と言う事で、今だに僕は空気の悪い所にいるとよく血が混じる事があるのだが、最近はあまり気にしていない(チャン、チャン!)。あの苦痛の日々は何だったんだろう、、、。 この間京都にいた僕は、他人のライブに顔を出したり、ドラムソロやクリニックをライブハウスや公民館、学校などでやったが、皆、僕に会うなり「元気そうやなー、メチャメチャ太ったんちゃう?」 体に持病以外の異常が認められなかったので、またアメリカに戻れる事になった。でもこの頃の僕は飛行機も恐かったのだ(現在は平気ですハイ!)。一難去ってまた一難。オレの人生って何? 飛行機大好き? だからボストンまでは直通がないのでニューヨークまで行って、電車でボストンへという手段を使っていた(少しでも乗っている時間を減らす為)。僕は離陸前から、心臓はもうバクバク状態(顔はでかいが心臓はちいさい)。離陸したら最後、飛行機が揺れるたび、お祈りしたくなって来る。 でも人間の心理とは面白いものである時 東南アジアのどこかから来たおばさんの隣に乗り合わせた事があった。息子さんが、仕事の関係でアメリカに居て何度も往復しているとの事、、おばさんは飛行機が離陸する前から落ち着かん感じで、飛行機が揺れるたび両手を合わせて、途中から座席に正座してお祈りしだした。 強いものには反抗するが、弱いものの味方、優しいイケチャンとしては、黙っていられない。己の恐怖も忘れて、おばちゃんを励ましにかかるのだった。本当に人間の気分的なものって面白いものだ。自分より弱い人を見ると己の立場を忘れる。 僕は自分の事を話して、まず安心感を持ってもらい、そしておばさんの話を聞いた。おばさんは本当に飛行機に乗るのがイヤでイヤでたまらんらしいけど、息子には会いたいとその事情を説明してくれた。その間も、機体が揺れるたび、手を合わせそうになるおばちゃんだったが。そのたび「大丈夫、大丈夫、全然平気やから」(勿論大阪弁ではなく、英語です)と、「オレは一体何者やねん?自分がないんかい!」という感じで、恐怖感が無くなってしまったのだった。 飛行機に乗っての楽しみと言えば外の景色と隣り合わせる人との出会い。あまり美しい女性とは隣り合わせる事が残念ながらないのだが、どこかの会社の偉いさんとか、脱サラして事業を始めた人など、今まで何人かがライブに来てくれた。あの腰を据えてゆったりとお話をするのはとても楽しい。おーっとまた話がそれてしまった。失礼。 ボストンふたたび 時は冬の12月ニューヨークJFKに着いたイケチャンは、ブルックリンの友人の家にお世話になる。そこは今をときめくニューヨークの若手ミュージシャン達(スペイン人ドラマーのマーク=彼は今国で最も忙しくしているドラマー、カナダ人サックス奏者のシェイマス=NY若手ナンバー1テナー)が生活を共にしているアパートだった。そこに一晩だけお世話になり、翌日ボストンへ。 電車の中から眺める景色はボストンが近くなるにつれ、心に滲みて来た。市のまん中にあるプレデンシャルビルが、京都タワーのように街の中心にある。子供の頃、やむなく夜の仕事に出ていた母の帰りを京都タワーのてっぺんのチカチカを見ながら待っていたのを思い出す(あー滲みるう)。あの灯りのチカチカってなんか色々な思い出の中に刻まれてるのよね。でしょう皆さん?悪い事してへんかー? 久しぶりのボストンでは、また学校の近くにアパートを探したが、昔一緒に通っていた友人の殆どが、卒業して国に帰ってしまっていた。以前帰国前に知り合った友人宅にアパートが決まるまでの間、転がり込んだ。そこは地下で、住民2人ともドラマーで部屋で練習出来るという、日本では考えられない環境。しかしムチャクチャ暑い!! アメリカは北海道のように、冬になると部屋の中に温水のヒーターが通る仕組みになっていて、外は寒いが、部屋の中に入ると即、着ていたコートを、脱がないと汗だくになってしまうのだ。 そこは、アパートの地下なので、ボイラー室から上の全ての部屋へいくパイプのもとのデカイのが天井を縦横無尽に走っている。北海道と同じ緯度のボストン、冬はマイナス20度近くまで気温が下がるので、外から帰ってくると「ありがたい」と思うのも束の間、暑くて寝られん!勿論パンツ一丁だが、汗だく。練習などする気にはなれん! その年はロス地震があった1994年、ちょうど阪神淡路大震災の一年前の1月17日、ボロの白黒テレビで、極暑のなかニュースを見ていたのを思い出す。もうあれから8年も過ぎたなんて、、、 その頃はお金がなくて食費をうかせる為に、毎日冷蔵庫の残り物ばかりでごまかしたカレーの日々が続いた。4日ぐらい朝晩続いた事もあった。ある日冷蔵庫が壊れていて、カチンカチンに凍っていたコンニャクが溶けていたのをみつけた。「これも入れてまえ、ないよりましやー」ところがこれがルームメイトや隣人に大ヒット! 中に細かい空気の穴がいっぱい空いていて、歯触りが、コリコリして、ちょっと油揚げっぽいんだが、味はやっぱりちょっとこんにゃく!カレーの味でなかなかいける、、、、と思っていたんだが日本に帰って流行らそうと思ったが流行らんかった。 皆さん、もし誤ってコンニャクを凍らせてしまったら試してみて!僕はいけると思う。 スカンジナビア・ツアー 練習を続ける為学校にパートタイムで復帰、スタジオを借り個人練習をしていたら、「トントン」とノックする人がいた、振り返ると昔少し、セッションした事の有る、スエーデン人の歌のねーちゃんだった。「バンドのドラマーが辞めて困っている、スカンジナビアツアーも近いので、急で申し訳ないが、やって貰えないか?」とのこと。 戻って早々の棚ボタ!スグに快諾するのも芸がないと思い、「んー?どんな音楽?条件は?」ともったい付けたかったが、その頃とても貧乏だった僕はスグにオーケーしてしまった。 ピアノがフィンランド人、ベースはブルガリア人、歌はスエーデン人、そしてドラムは 関西人?!このバンド僕と歌をのぞく2人が長身でピアニストは180センチ、ベースは190センチ以上、歌のネーちゃんも女性の割には小さくはない、僕は日本人では標準の170センチ。 普段一緒に、喋ったりしている時は一切気にしてないのだが、ツアーの時やら、皆で連なって街を歩いていてショーウインドウなんかに順に鏡に移った時、自分の番が来て、その姿を見て、あまりの体格の違いに、「えーっ、オレ、こんなチンチクリンかいなあー?」とビックリ! 日本では普通サイズでも北欧やロシア系の人たちと比べると、子供サイズ、しかもビッグフェイス!アンド ショートレッグ!アンド ガニーマーター!ちなみに日本人の中では僕の年代では顔もさほどデカクないし足は長い方だと思う(いや、ホンマの話が、、)。しかし彼等は超ビッグサイズ。 このビッグサイズの2人がしばしば音楽性のことでもめて、けんかをおっぱじめるのだった。お互いに一歩も引かないタチ、一度、ある曲の構成がAABA形式かAAB形式かでもめて、お互いがそれぞれ信じて疑わないサイズで一曲演奏しきった事があったが(リズムはあってるが構成が8小節ずれて輪唱状態)、間に挟まれた僕は凄い勢いでイレギュラーにサビが左右からやって来てエグイ状況に耐えて、ひたすらタイムをキープしていた記憶がある(エグイでーこれ)。 フィンランド公営ラジオのライブ放送では、本番収録中に二人がもめた、なんと歌のネーちゃんとも、もめ出して三つどもえ状態。体は小さいが一番年長の僕はオトナに徹して様子を見ていた(つもり)。 意外とこういう時にテンションが良い意味で上がって、良い演奏になる時もある。僕はアイオワのユニファイ・ジャズの時もそうだが、彼等のようにケンカしてまでハッキリ自分の主張を通す態度を見ては、自分も見習いたいと思っていた。まず、お互い言いたい事をぶつけあって、そこから始まる。みんな価値観も経験して来た事も違う訳だから、ぶつかって当たり前なのだ。日本ではまだまだこういうやり方が出来にくいと思う。 スエーデンのジャズフェス、フィンランドのジャズフェス、ライブハウス等、各地で演奏した。 |
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