| IKECHAN STORY 3 |
| ボストンで ここから後はアメリカでの生活が5年数カ月続く事になる。 最初の1年は天国だったのだが、そのあとは貧乏との戦い!バークリ−・イン・ジャパンには往復の飛行機代から、1年間の授業料、アパート代、生活費、夏休みの生活費とお小遣いまで頂いた。いつか何かで恩返しをしないとと、思っているが、、(やっぱ律儀でしょ)。出来るだけ長くいたかったのと、とにかく貧乏性の僕は、出来るだけこれを使わないようにして学校の奨学金を取ろうと考えた。 またそのころイスラエル人の友人が沢山いた。御存じのとうり彼等は国が政治的、軍事的にもいろいろ大変で、勿論お金にも苦労していて、中には兵役を免れて来た奴もいたけど、、、。まあ基本的には音楽が好きで、頑張っていた。そんな彼等が僕の臭いを察して近づいて来た(?)。彼等は僕に何時も「カズミ、ネバ、ギブアップ!」と声をかけて励ましてくれた。 奨学金を貰う為には奨学金オフィスにいって、自分が学校外でどれだけ活躍したか、たとえば、コンサートのチラシや、新聞に記事が載ったり(要するに学校の名前を外部に知らせる事が重要)を持って行き、自分の活動を報告する訳だ。そしてそれに対して、学校側は校内での評判やいろいろな情報を総合して奨学金を出す訳だが。ある一定額を過ぎるとなかなか次が貰えなくなる。 「なんども足しげく通ったが、もう少し欲しかった」そんな事をイスラエルの彼等に話す。そうすると「もっと通わなければダメ!」という。もう2、30回よけいに行ってみろと。オーマイゴット!日本では考えられない。僕は「そんなん、逆に嫌がられて、終わりや!」と思っていたのだが。 ところが何度も通ううちにだんだん楽しくなって来るのだ、これが。家の事情なんかも話しだしたり、日本語のワンポイントレッスンになったり、担当者とエレベータの中でバッタリ会う事も増えた。 その担当者が女性の場合、「おお、今日のブローチいいねえ、おっ、それって新しい靴?良く似合ってるよ!」トカなんとか言って(英語やとぺらぺら出て来るんや、これが!)、まずタイコ持ち状態に持って行き、そして「実はまた、新しい実績が出来たんですけど、持って伺ってもいいですか?」と。そうすると「オーイェア!」といって。万事オッケー!てな事をひどい時は週に2回くらい通った事もあった。歴代日本人留学生の中では恐らく一番奨学金を貰ったんじゃないかな?因に僕は高校も奨学金を貰って通っていたのだ(人呼んで、クレクレ野郎!)。 アメリカに来て最初の年はとにかく英語が速くて聞き取れなかったりしたが、アメリカ人のクラスメイト(と言っても19、20才位のワカモノ=バカモノ、わたしゃそんとき28才)の家に遊びに行って、同じように遊んでマリトの朝帰り!この頃に会話を学んだような気がする。彼等とはいい友達になって、一緒にロックバンド(サイケ系)をやった事もある。その中の一人は現在NYでスタジオエンジニアになって活躍している。 音楽的には南米や北欧の人たちと意気投合することが多かった。イスラエル系は精神的に、(?)。ストレートアヘッドなジャズが上手い人はやはりアメリカ人。黒人がいるかいないかは大きな要因だと思う(これはブルースのフィーリングを持っているか否かと関係が深い)。とにかく毎日セッションした。 当時は音楽の他に遊んだりするお金や余裕もあまりなく、煮詰まった時は友人と飲みに出かけたり、挙げ句の果てには夜、通りを歩いていて、全然知らない人のパーティーに侵入して、「ハ−イ」とかなんとか、知り合いのようなフリをしてタダ酒やつまみをタラフク頂いたり、、、。 ジョ−・ハント氏との出会い 音楽理論やソルフェージュは苦労したが、授業でやる内容にあまり目新しいものはなかった。特にドラム関係の事は、大体が知っている事ばかりで少し退屈していた。僕はセッションと外でのギグと特定の人からのレッスンに重きを置いた。 ところが初めての実技の授業でその後の僕の運命を変える、ジョ−・ハント氏に出会うことになる。彼はジョージ・ラッセルのバンドで20代前半にデビューして、ドン・フリードマン・トリオ、ボサノバがブームになった往年のスタン・ゲッツ・クインテットを経て、ビル・エバンスのトリオに在籍した経験を持つドラマー。ドラマーと言うより、アーティストである。 実は、ワタクシ、ジャズが好きでやっていたのだが、ジャズと呼ばれるものの中にも色々あって、その中で底抜けに明るいオッチャンが「イエ〜イ」というジャズが昔からどうも馴染めなかったのだ。僕はもっと、クールで落ち着いた音楽が好きだったのだ。当時の僕はECM系の音楽の影響が強くて、ビ・バップの良さも、今に比べると全く分かっていなかった。 ビ・バップ系のモノをやると、萎縮してしまい自分が出せなかった、その頃はとにかく自分の苦手なものを克服しようという気持ちで、ビ・バップを研究した。自然に演奏するとああはならなかった。そこにコンプレックスがあったし、それでも自分でそこをクリア−する必要性を感じていた。 自分の好きなフリーソロや景色の浮かぶECM系は素の自分の感性でプレイ出来た。それとビ・バップを繋ぐ何かを習得しないと自分の音楽表現は成就しないと思った。ひょっとしたら自分は「いわゆるジャズ」には向いていないから、他のモノに方向転換した方が良いのかと、迷っていた時期でもあった。でも逃げるのは絶対イヤだった。 ハント氏の初めてのレッスンの時は彼の事は何も知らなかったのだが(最初の年は学校が担任を決める)僕には彼に初対面から何か響くモノが感じられた。 初めて彼の演奏を聴いた時に、目からウロコが落ちた!「これや、これ!」グレッグ・ホプキンスという、これまた味のあるトランペットのビッグ・バンド。周りがいくら盛り上がっても自分を見失わず、小ボリュームで要所でビシビシ決まるギャグ!、、、ではなくてキック!優雅な世界。まさに「いとこい」(大阪のベテラン漫才師、夢路いとし、喜味こいし両師匠の略称)のジャズ版。そう後味の良い笑い、、、、ではなくて音楽なのだ。 「大人やなー」と思わせる、品格。「このクレクレ野郎がなにゆうとんねん!」とお叱りもあるとは思うが、意外にジャズメン、演奏と私生活は一致しない事がとても多いのであーる。 ということで糞切りではなくて踏ん切りがついた僕は、彼の後を負う事になる、ストークするという意味ではなく、彼のプレイについて研究するのだ。勿論そんなことは、それまでやった事がなかったが、レッスンでは友人のベースプレイヤーやヴァイブ奏者らを連れていき、僕とジョーのプレーを録音して聴き比べた。それはもう僕にとっては天国!! 彼は昔アルコール中毒から立ち直った経験が有る為、お酒は一切ビールでさえ、ひとくちも口をつけない。その代わりに、コーラを飲む。コーラといえばその成分のホトンドが砂糖。 その頃ジョーのあらゆる事を真似していた僕は、フレーズやアプローチをトライしても最後の最後で何かが大きく違い、「それなら」と食生活まで真似てしまったのだった(愚かなワタクシ)。結果は、、体型が似てきてしまった。 ジョーは昔はスリムだったのがある時期タバコをやめ、酒をコ−クにかえ、再婚した事もあってお相撲さんに近い体型になったこともあった。僕はジョ−の事をゾ−(象)と陰で呼ぶ事もアル(これは内緒)。写真右の赤シャツがジョー・ハント氏、中央ワタクシ、左は先頃惜しくも他界されたエド・キャスピック氏 その頃学校の外で仕事をしたら他のプレイヤーから、「ジョ−の弟子かー、わかるわかる。」といわれて、ミーハーのように嬉しかった時期もあった。でもやればやるほど明らかに彼と自分は違うという事が分かって来るのだ。 そらそうだ、彼がブロードウエイやシナトラなどを聴いた時期、僕のバヤイは毎週土曜の吉本新喜劇を学校から急いで帰ってきて見てた訳やから、、。 「あーもう真似はやめよう」と思うのだが、、どうしても「あのCDのあそこの部分どうやったかなー、、、、ん〜〜〜もっペん聴こ〜う!」と禁断の世界に舞い戻ってしまうのだった。 そんなこんなで僕のボストン生活は学校の授業より、セッションや外でのギグ等中心だった。英語の為にも出来るだけ日本人の居ない所に身を置くように自分をプッシュした。 日本の学校での英語の成績は悪くなかったが、どうも言葉は生きたモノでないと学ぶ気になれない、結局ビートルズなどロックミュージックの歌詞が土台になっている。あとはブルースのリフを憶えるように、ラジオ英会話や竹村健一の世相を斬る(ふるー)の英語版カセットを聴き倒して憶えた、ということで池長クンの英語はブロークン。 一度こんな事があった。ボストン郊外の中学校でジャズのクリニックをやってくれと依頼が来た、しかも外国人のこの僕に、、。勿論喜んで、引き受け、学生達は変な東洋人が叩いてはジャズについて話し、叩いてはジャズについて話しするのをとてもエンジョイしていた。 一生懸命話しているうち生徒に受ける部分がたびたびあって、僕はその言い方を何度も繰り返した、そのたび生徒は大受け!僕は自分の英語に相当自信を持った。「ガリ勉で英語勉強するより、使ってナンボやで、理屈やない、経験や」と感じていた。 クリニックが無事終わり、職員室のようなところで、お疲れさまと言う事で、ティーを頂いていた。クリニックの間、教室の後ろで参観していた先生が戻って来た。「カズミ、本当に素晴らしかったよ。でも。一点を除いて、、、、、」僕は例のFから始まる4文字Fxxxを連発していたのだ(やばー)。 ブロークンで憶えた英語は全て、友人などが話していたのをそのままコピーしたモノ、Fxxxが文章のあらゆる所に、ちりばめられた喋りをしていたのだ。当然学生は大喜び!先生はしかめっ面。という事に、、What a fxxx! ティ一チングの仕事。 少し仕事が貰えて演奏をしたりもしていたのだが、ボストン市内はミュージシャンの供給過多ときていて、仕事はホントに少ない、ギャラは殆どナシに等しい。 「このままでは」と仕事を探していたら。ドラムの講師募集。という記事を見つけた。ただしそこは、電車では行けない(乗り継いでも駅から遠く、レッスン時間に間に合わない)マサチュセッツの端の方。これは車がないと行けない所。ということで友人から中古車を200ドルで譲り受ける。友人は「色々壊れて金がかかる。」と言う事だったが、僕は一目惚れ!まあ車の話はまた後で。話を戻そう。 面接に行ったら、なんと僕以外にも10人くらい希望者が居たらしいが、「こら無理かなー」と思ったが。僕がツタナイ英語で喋るのが受けたのか、数日後、家の留守電を聞くと、僕に来て欲しい、、と言っているではないか。「やったアメ公に勝った!うーれちーな、うれちーな!」(桑原和男風) ![]() そのスクールは私立学校の校舎で通常の授業の後、同じ教室を使って、絵画や図工、音楽といった専門分野に別れ、レッスンが行われていた。 外国人の僕が卒業前の実習期間を前借りして、教えていた訳だが。そんなに大きなお金にはならなかったが、色々勉強になった。 左のはパンフレットの表紙にそのころブタだった僕が、なんとも異様なインディアン風アジア人という感じで生徒を教えてる所(学校の名前もインディアン・ヒル・アート・スクールというのが笑える)。 そのうち隣街の私立高校でもドラムの先生が要ると言う事で、ハシゴ状態(?)になった。そこはハーバード等に進学する生徒が通う全寮制の有名なところで、食堂で昼食を食べる時、先生達が集まって来て、色々な話をしてくれた。僕も一緒に並んで座って食事をしてると偉い先生と思われていた、、のかな? その高級で綺麗な所に愛車1974年製プリモスで乗り着ける訳だが、これが何とも、カッチョワルイと言うか、その場にミスマッチ!でもこの車といるのは、何故か楽しかった。 ここでチョットその 愛車=苦労を共にした同志のお話を少し。 貧乏生活を続けていてやっとありついたティーチングの仕事。ただしそこはおなじマサチューセッツ州でもクルマがないと行けない所。だから国外で始めて自家用車を購入。 なんとアメ車。 1974年製プリモスの勇姿。 ![]() これがまたキャラクターなのだ。何と友人から200ドルで譲り受け約3年乗り倒し、100ドルで売った。といっても修理費はその間2000ドル以上はかけたと思われるが。なぜこんなに安かったかというと、助手席と後ろのどちらかの扉が空かなかった(楽器を積み込む時非常に不便だが、慣れると結構楽しかったりする)。 中はとても広く、シートはニューヨークのイエローキャブと同じ乗り心地。エンジンをかけるとなんとも言えない、これまた味わいのある音でゆったり動きだす。これがなんともいいんだよなー。 学校のロッカーにドラムを保管していたのだが、ギグに行く時、前に止めて楽器を積み込む時、よくみんなが「ワオー、チェック・ズィス・アウト!」と寄ってきた。 夏はたびたびオーバーヒートして見知らぬ方にずいぶん助けて頂いた。アメリカの一般人は日本人に比べてクルマのトラブルに慣れているらしく、ボンネットをあけて症状を見ると「おー、あれあれ」とか言いながら、近くのコンビニやファーマシーでベーキングパウダーを買ってきてそれを自分で入れて直したりする。 エンジン音痴の僕は、ジャパニーズ・ドラマーではなく、ただのタイコ持ちと化して、「オー・グレイト!」としきりに発して、バッキングに徹する。そうこうしているうち治って、目出たし目出たし!こんなことを恐らく、軽く20回くらいは経験した。ちゃんと走っている時は感謝感謝なのだ。 ある渋滞の時に、とても急いでいて、数台追い抜いて割り込み渋滞を回避したかったんだけど、反対斜線も車が詰まっていて動けなかった。困っていたそんな時になんと向いから「オーブラザー!」同じ機種の色違いがやってくるではないか!「イエーメ〜ン!」あとはもう成すがまま、そして彼の車は僕の為に、しっかりストップ!そしてウインク!道を譲り僕は目的地に時間どうりに到着出来た!あの感じは、あの車乗ってる人同志しか分からんのよねーっと。 冬のボストンはマイナス20度以下にもなるので、ボロ車を朝に動かす時は大変で、1時間くらい格闘するのはザラだった。それでも最終的にはエンジンがかかるのが不思議!日本では考えられない。 こんな事もあった。この頃、車検のお金が払えなくて、困っていたら、インディアンヒルの校長が「近くの村に、車の整備士をしている、アマチュアドラマーがいる、彼にレッスンを数回やってそれを、レッスン代にしたらどうだ」とサジェストしてくれて、連絡も取ってくれてとても助かったことがあった。 結局5回レッスンをやる予定が、彼が忙しくて2回しか出来なかったのだが、正規のレッスンの後に彼の自宅の倉庫に行く。するとそこにはロック用のフルセットが組んであって、その時は「ボストンから日本人の先生が来る」というので「どれどれ」みたいなノリで彼の友人やら、子分みたいな人まで来て、レッスンを見学してたっけ。 僕が「じゃー少し叩いてみて」というと彼は少し照れたふうで(でも年は僕と同じくらいだが見た目が45、6に見える、逞しい感じの人)可愛かった。「都会の人しか知らないと、アメリカにこういう人もいる事をつい忘れてしまってるな」と僕は思った。田舎の人は素朴なのだ、これは世界共通。 僕がアメリカに残って音楽やりたいけどお金がないのを理解して、それに協力してくれた人たちに感謝。もうホントに有り難かった。(なんか僕ってそういう、雰囲気があるみたい、ええとこの出では無い事はすぐに分かるみたい、、これってなに?)。 でも、お金がなかったり、困っている時の方が、感動する事に敏感になる気がする。 ![]() |
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