| IKECHAN STORY 2 |
| ブラスバンド部での事 入部した時、すでに打楽器の人数は足りていて、僕はドラムが出来ないのなら「ジャズの花形であるサックスを吹きたい」と思っていたけど、部長はトロンボーン、指揮の先輩はトランペットと意見が別れ、二人がジャンケンをして、お前はトロンボーンをやれと、、、(どんな基準?) 最初の数週間はロングトーンばっかり。退屈だった。なかなか音が出なくて、外でロングトーンしていてもテニス部の女子がミニスカートで練習しているのをいつも「ええなー」と眺めてた(笑)。 なかなか上達しない僕に痺れを切らせた先輩が、やっぱりお前は打楽器を、という事になり、めでたく打楽器のパートにつく事を許される。ここでもまた、やりたいドラムに辿り着くのに障害を乗り越えたという感じ(こういうのって、なんか繰り返すね)。 それからというもの、朝から晩まで太鼓漬けの日々。授業中は練習内容を考えたり、曲のアレンジをイメージしたりして、学業の方はなんとかキープという感じ(いやキープ出来てたか?)。 3年生の時、僕は部長になり、うちの部の楽器があまりに古く、数が足りないので、行革して、部費を沢山取ってやろうと頑張ったことがあった。そのためには外での活動やら、なぜ必要かという事を示せという訳で、「ほんなら」と歴史を調べたら吹奏楽部創立15周年に当たった、というか無理矢理こじつけてコンサートを企画した。 隣町の高校の吹奏楽部にも賛助出演してもらい。色を添えた。その時は新聞社も取材に来た(これが初の新聞デビュー)。コンサートは大成功、しかもその年の予算の8割くらいを我が部の部費にして楽器を買いまくった(ええんかいなー、でも、これも青春や、時効、時効!) 試験勉強のときは、集中するの大変!そういう時に限って、練習したくなる(生っ粋のアマノジャクときたもんだ)。ほんと情報少なかったので、ラジオでエアチェックをして、よい音源の情報を集めまくった(その頃、現在のようなテレビからの音楽番組は少なかった)。レコードとテレビに出て来る歌手のバックバンドを見て色々盗む。8時だよ全員集合はコント以外は後ろのビックバンドのドラマーを見ていた。 この頃、母親が「あんた寝ている時にも手が動いてドラム叩いてるよ」とよく言っていた。完全にビョーキ状態だったんでしょう(笑)これは現在もあまり変わっていない。 このままでいいのか? そんなこんなで母子家庭に育った僕は、母親を楽にさせたいという気持ちから、就職の道を選び。地元の商事会社での就職が決まった。音楽は趣味で、、と思っていたのだが。 先輩や同僚に「東京に出て音楽やらないのか?、、」と会うたびに言われて。俺にやって出来るのかな〜と思っていたのがだんだんとその気にさせられたというか、なんというか、、(だいたい周りに薦められる事が多いみたい)。 これからずっと一生サラリーマンかと思うと、「この仕事は自分をいかせきれていない、、」と。ほんと決断が遅いと思うけど、その時は、出来るだけ早くなにか親の助けになる事をしたかったというのが本音。でも自分の音楽をやりたいという気持ちはもう押さえられなくらい膨らんでいた。 2回目のボーナスを貰い、辞表を提出。母にはうまく説明できなくて「京都に戻って就職するわ」と言って2人で京都に引っ越すことに。その頃19歳。取りあえずアルバイトを探しクリーニング屋に落ち着き、8時から5時まで。音楽雑誌のメンバー募集の欄に「ドラム歴7年!なんでもやります」と書いて出したら、なんとどっさり返事が帰ってきて、少なくとも14、5組位の人達には会った。 バイトが終わったら、その足で大阪まで電車でセッションに行き、終わったらミーティング。最終の電車で京都に戻りその後はテープを聴いて復習と次回の予習。朝は6時半には起きて7時のバスには飛び乗って。そういう生活を2、3ヶ月続けていた。 とにかく、早く一人前にならなければという、気持ちから僕は焦っていたのだった。ある日の朝。いつものようにバス停まで走っていく途中に急に足が止まり、まるで向い風の中で上り坂を歩こうとしているかのように、だんだん歩く事も出来なくなり。倒れ込んでしまった。 ほんとに悪夢だった。次の日病院にいったら若年性高血圧症といわれ、薬をもらった 。「なに高血圧?年寄りじゃないぞ俺は!」と思った、、。 その薬(降圧剤)が一生飲み続けるものと聞いて愕然としたのを今も憶えている。医学書を読んだりして、「俺は何歳まで健康で音楽を続ける事が出来るんだろうか?」と凄くブルーになった。 勿論、薬は今でも服用し続けている。でもそのおかげで健康に気を使うようになれた。(周りからは色々言われたが、気を使ってくれる優しい人も沢山いた) 師匠との出会い その頃の僕には、お師匠さんに当たる人がいて、京都のある楽器屋さんで先生をしておられた。Sさん。 現在は名古屋でドラムショップを開いているが、この頃は京都におられ、僕が最初にかかわりを持ったプロドラマーだった。 僕がバイトをしていたクリーニング屋のすぐそばに、その頃人気のジャズのスクールがあった。だが当時の僕には授業料が高すぎて、説明を聞きにいってパンフレットを持ち帰り眺めるのが精一杯で、たまにどんな練習しているのか、チェックする為に外から音を聞いたりしていた(映画ラウンドミッドナイトに出て来る、フランシスみたい)。 もっと安いスクールはないかとヤマハの教室をふらっと覗いた時にレッスンをしていたのがSさんだった。僕はレッスン中目立たないように5、6人のレッスン生の影に隠れて見学者として観ていた。僕のただならぬその時の気配を察したのか、なんと僕の側に近寄って来て「ドラム結構やっとるやろ。叩いてみー」と、、(オレ、鼻息荒かったんかな?)。 僕は最初びっくりしたけど、なぜか気付いた時にはもう叩きだしていて(やっぱ、調子もん!)どう終わったのかは憶えてないけど、Sさんは「叩けるなー。習いにおいで」と言ってくれたのだった。 でも貧乏人の僕はレッスン代が心配で、ドラムを叩かず、後片付けをやる代わりに、なんとか見学者として居残れないかと考えた。そして最後のクラス(6時から7時)が始まる前に毎週行くようになっていた。 しばらくして先生(Sさん)がもう一件別の所でその後も教えることになり、その移動の時間、僕はS先生にくっついて回った、「弟子にして下さい」といってもS先生は「弟子はとらない」と言いながらも色々と話をしてくれたのだった。 ある日の事、いつものように1件目が終わって2件目のスクールに向かう移動中、車に乗って移動するのだが、S先生はいつも途中でパンを買いに立ち寄る店があって、そこで僕も同じようにパンを買って、車のなかで食べていて、何気なしに缶ジュースの栓をポイと外へやった時。「おい、お前今の拾ってこい!」と怒られた事があった。その時、この人の有り難さを感じたのを今でも思い出す。ドラマーとしては勿論、人としてもこの人の弟子として、近くにいたいと切望した瞬間だった。 入院とドラム講師 話が前後するが、僕が血圧の事で、入院をした時の事、何人かのバンド仲間や友人が見舞いに来てくれたのだが、S先生はお花を持って来てくれた。毎日お年寄り達との相部屋で消灯も9時、起床は6時という生活に、退屈でやりたい事が出来なくてウズウズしていた時。こんな体質を抱えてこれから、不規則で不健康になりがちな音楽生活をやっていけるのか?、、、、 S先生に相談したら、「やりたくない事をやってストレスをためることも体によくない、お前は音楽やめられんやろ。続けていればいつか必ずいいことあるよ。」といってくれた。そしてその後「実は名古屋に帰るんだけど、京都のスクールの後釜を探しているんだが、お前やるか?」とまだ20歳を前にした自分に声をかけてくれたのだった。 「えーっ、お、おれでいいんすか?」勿論、そんな責任重大な事が自分に出来るのか、中学や高校では後輩教えたけど、お金をとってプロとしてどうか?というのは疑問だった。自分よりも年上の人が圧倒的に多かったので、これは相当頑張らないとと危惧したが調子良く(笑)引き受けました。 練習場所 ミュージシャンは皆そうだが(特にドラマーはそう)、その頃の悩みも、リハーサルスペース=練習場所の確保だった。スクールに早めに行って授業が始まる前までよく練習した。それ以外は家だとすぐに苦情がくるので、外に練習用のパッドを持っていき練習した。 近所だと恥ずかしいので、自転車にパッド一式積んでちょっと離れた公園で練習していた。でも長くやっていると子供がよって来たりして、集中できないので場所をかえたり目を合わせないようにしたりしていた。ある日、老夫婦が散歩にやって来て、ジーッとこちらを見ていて、最初は無視していたんだけど、どうしても無視できなくて、こちらに話しかけてきた。 その時僕は両手足同時打の早いのをやっていて、そのお年寄り曰く、「あのう、それは体力測定かなんかやっとるんですかいな?」とマジで聞かれて、「えーっ はあまあ、そうですかねー」笑ってごまかしたことがあった。 夏などはパンツ一丁で首からタオル姿でやっていた(結構カッコ悪い)ので、素朴にそう思ったのかな?この頃は、食事と寝るのを覗けば、ほぼスティックを握っていた、と言っても過言ではないくらい練習した。 はじめてのニューヨーク 24歳の時、貯金をはたいて(この頃は朝も夜もよく働いた)始めてNYへ。まったくの一人で。空港からブルックリン・ブリッジに差し掛かる時、始めて観たマンハッタンは物凄い緊張感があり今でも思い出すとワクワクしくるー。 先輩達から「池長、NY行かなあかんでー」と度々聞いていたので、ここがメッカかーという感じで。マンハッタンでNYのジャズを毎晩聞いて、ジャムセッションにも参加した。ボストンのバークリーに知人が何人か行っていたので、そこにも泊めてもらいレッスンを取ったり、アンサンブルを見せて貰ったりした。彼等は日本にいた時よりも楽しそうに活き活きとプレイしていて、当時の僕にはすごく羨ましく見えた。 その滞在を期に、「日本であくせくするより、ここでのんびりしている方が、いい演奏できるんじゃないか?」と感じたのだった。 帰国してアメリカでの緊張感を忘れないようにと考えていたけど、何ヶ月か過ぎるとだんだん元に戻って、、。アメリカに行くのには航空券がその頃30万位かかったので、一文無しになった僕はしばらくアメリカ行きは我慢して、また働きだした。「いつになるか分からんけど、いつか絶対アメリカでやってやる!」という気持ちを胸に残しつつ、25歳で上京するまで、バンド活動は京阪神中心に、プロとして色々広範囲にやり続けた。 ジャズクラブでのギグからフュージョンのコンサート、ブルースバンド、歌手のバック、フリー・アバンギャルドまで、タイコを担いてどこにでもという感じ。 その頃の仲間で各々の分野でプロになった人は何人かいる。でも、そうこうするうち、「このままやっていてどうなるんだろう」という気持ちが頭をもたげてきて、もっと刺激のあるところにと東京行きを考え始めたのだった。とりあえず東京に 上京してから、すこし遅れて友人のドラマーのB君も近所に引っ越して来た。東京での生活が始まった。それまで続いたティーチングの仕事もやめてアルバイトを6年ぶりに探した。弁当屋さんに面接に行き、さっそく来週から来てと言われていたが、B君と同時期に受けていたヤマハの講師採用試験に、なんと僕だけ受かってしまい。初仕事の数日前に弁当屋さんには断りを入れに行った。 B君が最初その情報を教えてくれたのに僕だけ受かって、すごく申し訳なかった、、。 来る前の貯金も底をついてきて、、。上京してからは大阪時代の友達で活躍している人も何人かいたけど、「俺は誰も頼らないぞ!」と変な強がった気持ちがあり、あまり外へ出ていかなかった。 その頃はヤマハの講師仲間でグループを組んだりして、自分の作った曲なんかをやっていた。そこでまた、講師仲間に声をかけてもらって、あるベテラン・ジャズベース・プレイヤーのセッションに顔を出したら気にいってもらい仕事を貰えるようになり、昔憧れていたプレイヤーの人達とも一緒に演奏出来るようになった。この時もメインで行った人ではなく僕の方に仕事が来てしまった。 その頃は4件ぐらいのドラムスクールで教えていたのでライブの時に生徒がドッと来て、僕の方だけを食い入るようにズ−っと見ていたり(やっぱり生徒だから、どうしても見るよね)、僕のソロだけ拍手が異常に大きかったり(ちょっと音楽的な聴き方ではない)、ベテラン・プレイヤーがバンマスの時などは非常に困った。 以前、一度うちの母が始めて僕のライブを観に来た時、友人とかなり気分よく酔ってたみたいで、僕のソロ(4バースの時)のたび、「ヒュ−!ヒュ−!」と盛り上がっていて(あれは、ホンマ恥ずかしかった)。その後「勘弁してーなー」と母にいったら、次の日来た時は、急に大人しくなっていたので、チョット可哀想に思った。(かわいいオカン)普通にしてたらいいんやけど、、、興奮してしまうんやろね。 ジャズって その後色々なジャズメンから声をかけて貰えるようになって、演奏も少しづつ忙しくなって来たのだった。 ただどうすればよりジャズっぽくプレイ出来るのか自分では分からず。先輩達にアドバイスを求めても、核心をついて来るようなモノは得られなかった。いつもなにか、まがい物のジャズを自分はやっているのでは、、という気持ちが強く、ドラムは少しは叩けても、ジャズに関して自信がまったく持てなくなっていた。 その頃京都時代から教えていたドラムスクールでジャズを教える先生が必要という事で、京都に2週間に一度戻って教えるということになり。教えた日の夜に母の住む京都の実家に泊まり、次ぎの朝東京に戻るという生活がしばらく続いたのだが。 普段めったに新聞を読まないんだけど、この朝はなぜか中身まで細かく読んでいた。そして広告の一面全部を使って、「バークリーの奨学金を取って1年留学の全ての面倒を見てくれる」というの内容の書いてある記事を見つけたのだった。5年前にその頃の友人で4、5人が行っていたので、僕は「これだ」と思いさっそくテープを送った。 その頃の自分には若さ結えの説明できない、変な勢いと自信があり「絶対行く」と信じて疑わなかった。その頃すでに28歳だった。テープオーディションを通過して選ばれた200人の中に入る。 そしてめでたく浜松でのセミナー兼選考オーディションへ。バークリ−・イン・ジャパンという名前で4、5日のカリキュラムだったと思う。200人の中から選ばれた10人が1年ただで留学の面倒を全て見てもらえるというもの。僕は必ず選ばれるという自信があった。でも表彰されるのはやはり嬉しかった(10人中最後から2番目に呼ばれた)。 行く前、仕事仲間や生徒達に「取って来るわー」と出ていって、帰ってきたら「取って来たでー」と、、(なんじゃそりゃ)。 日本で少しずつ名が知られてきて、これからという時に、何も今アメリカに行かなくても、という意見も周りの仕事仲間には多かった。でも、どうしても行きたかった僕は1989年8月8日に成田を旅立ったのだった。あの頃は見送りに沢山来てくれたよなー。母も泣いていたのを思い出してしまった。当時の僕的には飛行機に乗って海外に行く事はスゴイ事だったのだ。 copyright(c)2002 Valse Hot Music.All Right Reserved. |
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