| IKECHAN STORY 1 |
| 1961年夏 京都市にて、待望の長男として生まる。父、母、姉との4人家族。 追求心旺盛な幼少期 まだヨチヨチ歩きの頃、居間にいたイモ虫を追いかけていたはずが、行方不明になってしまう。実は母親が目を放したうちにずーっと追っかけて、トイレの近くまで行き、そのイモ虫をつかんで観察していて、もう一歩遅かったらそれを口に入れるところで見つかったらしい。母はそんな事が有るたび、「将来、何かを追求する仕事をするのでは」と思ったそうだ。 子供の頃から何かを見つけては一人でよく遊んでいたらしい。他の子と違って、近所の子を虐めたりしなくて、逆に一人で熱心に遊んでいるところを、ガキ大将みたいな上の子にコツかれて泣いて帰って来るくらい、、、(やはりリベラリスト)。 とくにクルマ遊びは、大人も吃驚するほどのテクでブイブイいわしてた(関西人的表現)らしい。近所の子供社会の中では、人望が厚く(?)後輩を非常に可愛がった。らしい(母曰く)。近所で遊ぶ時は大体僕が遊びを決めて、仕切っていたような気がする、、。意外にもリーダー格だったのだ。歌うことが大好きな子供時代 小学校の頃はドッジボールが流行っていて、御多分に漏れず、休憩時間には誰よりも先にボールを持って外へ、。その当時のNHKのドッジボールの特別番組に代表選手で出たこともあった(これが初のテレビ出演?)。教室ではよく、漫才のトリオを組んで(さすが関西人!)みんなの前で披露することもあった。「調子もん」と呼ばれてた。 人前でパフォーマンスする事に目覚めたのは小学校の四年生の時、当時担任だった先生がとても歌好きな女性で、今日は外で歌いましょうという事で、休憩時間、歌好きな5、6人のクラスメイトと先生とで砂場に座って順番に一人ずつ歌った事があった。それで、僕が歌うたびに皆の目がキラッと光るのを感じた(すごく、びっくりしたのを今でも憶えている)その時、皆が楽しんでいるのを、感じたのだ。 それから、ますます、歌うのが好きになって、よく近所ののど自慢大会かなんかに、西城秀樹のものまねで歌っていた(なんと!)。あの踊り付きで、「やめろっといわれてもー」ってな感じ(ふるー!)近所の追っかけの女の子もいたりなんかして(笑)。 うちは母親も姉も歌が好きなのだ。母は幼い時に両親を亡くしていて、小学校しか出ていない。若い時から苦労して働いてきているが大戦中、「軍事工場で働いていた時に蓄音機(今で言うレコードプレイヤー)を持っていたのはその工場で私だけやった、、」というのが本人の自慢。 母の話によると、ある日一人で電車に乗っていると鉄道公安の人が家出少女かと思って、心配して保護しようとしたらしい。そしたら母は部屋につれて行かれて事情を聞かれて説明しているうちに、本人の歌謡ショーになってしまったり、、、その母親のDNAが僕にも受け継がれていると感じる事が多々ある(ハッピーな人種)。 因みに、この人、僕が中学の時は子供を放っておいて、週末ディスコに行って、日曜の夕方帰ってくるなんて事をやっていた、ツワモノ! あの頃よく家の中でEPかけて踊ってたっけ、ディスコキッドとか(ふるー)。 子供の時ピアノがやりたくて、レッスンに通っている友だちが羨ましくて、「ピアノ買ってー」と、一晩中、泣いて頼んだ事もあったけど、「男の子はピアノなんか弾かんでええ、置くとこない」と言われ、貧しさを恨んだこともあった(ウグウッ、、)結局、その数年後 ある同級生と出会う事により運命は変わって行く事になるのが、、。僕が11歳の時、両親の離婚を期に、京都を離れるのだった。 田舎への引っ越し 僕のドラムの原点は母と姉とで移り住んだ地、兵庫県豊岡のだんじり太鼓にある。忘れもしない昭和47年10月、そのころ現地ではちょうど、だんじりの時期。毎年その時期になると、町内の公民館の至る所から太鼓を練習する音が聞こえてきてくるのだが。 引っ越して全く未知の土地で「これから一体どうなるのだろう、、」と荷下しが一段洛した時にふと、太鼓の音が聞こえて来た。僕の気分とは裏腹に祭りのタイコがダン、ダダダン、ダン、ダン!! 僕は四季の中で秋に一番サウダ−ジ的フィーリングを感じるんだな、あまりこんな事いうと懐古趣味的に思われるかも知れないけど(笑)なんとなく寂しいんだけど嫌いではない、色々な感情がミックスしたような不思議な心地よさがあるんだわ、これが、、。 特にこの豊岡の地は四季の移り変わりを感じやすい気候だったので、積雪も引っ越してから始めて体験した。1メーター以上積もるなんて、京都市内では経験した事がなくって、最初はものすご−く、嬉しかったのを憶えている。生まれて初めて、姉とカマクラを作った時の事は今でも鮮明に心の中に情景として焼き付いている。嬉しくって母親をわざわざ呼びに行き中であのころ売り出しはじめてたカップヌードルを食べた。あの頃、そんなたわいのない事がものすっごく嬉しかったんだよな。 今思えば家族が母子3人になってしまったが、すごく幸せだった。母は本当に優しかったし。貧しいながら楽しく生きてた。 幼少の頃から、深夜に帰宅する母(母は子供2人を育てる為、僕が3歳くらいの頃から、夜働いていたのだった、、)を待ちながら、夜暗く窓越しに見える、星や遠くの明かりを何時間も見つめている事が多かった。そんな所に僕の音楽の原風景はあるような気がする。(ちょっとマイナーになってきた、でも7th入ってるよ)、、。 ロックへの傾倒と友との出会い 学校でカセットテープレコーダーが流行っていて、僕も御多分に漏れず母親に頼み込んで買って貰う。小学校6年生の時、最初はテレビのマンガや仮面ライダーなんかの主題歌を録音していたんだけど、中学に入って、深夜放送のエアチェックをやりだしてから、ビートルズやイギリスのハードロック等の洋楽に出会うようになり。 そのころTVのコマーシャルにビートルズのShe Loves Youが使われていてレコード店の店員さんに、「あのGパンのコマーシャルの、、、」と説明してEP盤を買って来たのを思い出す(お−懐かしー)。当時、クラスでロックを聴く人は自分の他には誰も居なかった(さびしい)。したがって情報もあまりなかった。 僕はクラス委員(なんと)をやったりして普通(?)のグループだったが、彼(同級生の友人D君)は悪ガキとよくつるんでいた。僕が帰ろうと思って机の上に置いた鞄を持って、立ち上がろうとすると前に立ちはだかり、鞄を手で押さえて、豊岡弁でいちゃもんをつけて来たのがヤツだった。でもこの経緯がよくわからないのだが、結果的に彼がその後の僕の人生を変える人物になってしまう。 彼とは、一緒に勉強したり、サイクリングに行ったり。そのうち、文化祭での先輩のロックバンドのパフォーマンスを観て、お互いが音楽にとても興味を持っている事に気付く。 バンドを作るのに必要な楽器編成にベースギターと言う楽器が必要な事もこの時始めて知った。僕がピアノで彼がドラム。そしてベースを誰にしようとクラスを見回した結果、責任感があって人望が厚く人のいいクリーニング屋の息子(大体ベースはいつもこんな感じ?で決まるみたい)。 ギターは隣のクラスからうまいと評判のS君、ボーカルには運動神経が抜群で女子から人気の高いH君(ルックスが良く、要するに客が呼べたのだ、次にいいルックスがワテ?)、この5人でバンドを結成した。12、3才の頃。 ドラムのD君の家にはレッスン室があり、常にドラムがセットアップしてあって、グランドピアノも家で弾けるような豪邸に住んでいた。一緒に練習しようという事で、よく寄せて頂いた。彼がドラムを練習している間に僕はピアノを練習させて貰った(勿論僕の家にはピアノがなかった)。コード譜を見ながら、鍵盤を探っていると、隣で楽しそうに彼が8ビートを叩いている音が聞こえて来て、単純なリズムの繰り返しなのに、人を鼓舞させる力があることにえらく、感動した。 そして8ビートを彼に教わったのが運の尽き!(笑)それからはドラムが叩きたくて、叩きたくて、、、家でも学校でも机から何から叩きまくってた。その頃机を合わせて四、五人位の班をつくっていたんだけど、一つ一つの机をタムに見立てて、フィルインで隣の人の頭をパーンなんて、、。それがクラスでも流行ったりして、皆よくやってたな(笑)。 ロックバンド「牛若丸」 初めはベース奏者でクリーニング屋のK君宅を練習場所にさせてもらっていたが、そのうち近所から苦情が出て、公民館に交渉に行ったり、隣の区の小中学の体育館や講堂を借りたり、行く場所場所の校長先生に直接交渉に行ったり、、、練習場所を求めて転々とする。 ただ、その若さゆえ、思いついた事は全て即行動に移していた。メンバー間の連帯感、結束は強かったー(われら青春!これもふるー!)。 そのバンドでは学園祭や楽器店主催のコンサートなどを中心に演奏した(結構追っかけも居た)。 僕が中学校時代にやっていたロックバンド。最初は英和辞典から見つけた名前で「プラクティス」(練習せなアカンという事で、、、なんやヒネリないんか!)そのうち、誰かが、僕が小さい体で頑張っているので、「牛若丸」というあだ名をつけ、それがそのままバンド名になった。 写真左端キーボード弾いてるのが僕。 練習場所がなくてやっと見つかった所がクルマで行っても30分くらいかかる隣町。そのバス道を、毎日曜のたびに、自転車で皆で連なって通った。2時間くらいかけて、、片手にギターやベース、荷台には食料のポテトチップスとコーラ。雨が降った時は、途中のバス停で雨宿りして小降りになって、また出ていく、、でももう既にビチョビチョ、、、でもめげなかった。(飛び出せ青春!だったっけ? これもまた、ふるー!) ジャズとの出会い 高校に入ってからは、吹奏楽部に入部。部員に女子が多かったからだけ(?)ではなく実業高校だったため、音楽の授業がなく、中学から、続けていた剣道部に入るか迷った挙げ句、決めたのだった。この頃もプロになろうなんて事は全く頭の隅に無かった。ただジャズに興味を持ちはじめたのはこの時期。 風邪をひいて学校を休んでいた時に、寝床で聴いていたラジオからソニーロリンズのセントトーマスが流れて来て、そのドラマー(マックス・ローチ)に今まで聞き馴染んでいたドラムとは全く違うなにかを感じた。シンバルレガートがうねっていて、すごくうごめいている。なにかを訴えているような気持ちがした。 中学の時、自己流でコピーしていたロック音楽のオルガン奏者のジョン・ロードがインプロヴィゼイション(即興)ということをよくインタビューなんかで言っていて、ジャズオルガンのジミ−・スミスに影響をうけたとか何とかで、とても気になってはいたんだけれども、ジャズを始めて聴いた時に、「これなのかな?」と思った。 ブルーノートスケールを使ってのソロもロックのそれに比べると、かなり難易度が高そうで、家に鍵盤楽器のない僕は、やはりドラムの方に気持ちがいった。マックス・ローチやフィリ−・ジョ−・ジョーンズのシンバルレガートを吹奏楽部の練習室でまねしてみたり、、、でも全然フィーリングが違う、、 どうすればその感じが出せるのか、、かなり悩んだ。 夢の中にそのフィーリングを出すコツを教えてくれる達人が表れたことも何度かあった(笑)夢のなかでは納得していたのに実際にやるとこれが全く出来ない。なんで夢の中では納得していたのか、、、? そうこうしている間に、地元でジャズをやっている先輩の人たちのバンドに加わる。最初はなんと、ピアニストとして。今考えると、冷や汗もの!だって僕のピアノは超我流のインチキ・チンチキ、でもその時は必死でした。 ソニー・クラークのブルースソロをコピーしたりした。そのバンドのドラマーがその界隈ではかなりの腕前のリーダーで、この人から多くを学んだというか、盗ませて頂いた。 彼がバンドをまとめるために、他のメンバーにつきっきりでパート練習を見なくてはならない時、代わりに僕がドラムを叩いた。その後、ホンモノの?ピアニストが見つかり最終的には僕がドラムに落ち着くことになる。 この後も数年、何故かバンドに参加するたび、自分の本意とは裏腹にドラマーではなくキーボードとして呼ばれる事が多くなり、なかなかドラマーとして認識されなかった。 最近はさすがになくなったが、ドラムス 池長一美 とクレジットされてると これ、キーボード 池長一美 の間違いでは?と感じる瞬間がよくあった。 昔、牛若丸時代にバンドの中のきまりで担当楽器以外は練習しないというのがあって、その呪縛からも放たれなかった感覚もどこかにある。でもその後の僕は、ますますドラムに専念することになっていく copyright(c)2002 Valse Hot Music.All Right Reserved. |
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