FAVORITE THINGS
僕の好きなものについて書くコーナーです   
影響を受けたものや自分の基となっているもの。

ジョーのシンバル-師匠ジョー・ハント氏との思い出 (1/15/02更新)

 
人生の中で最も影響を受けた人物を3人揚げろと言われたら一番最初に来る人。師匠そして、父親のような存在、ジョ−・ハント氏。スタン・ゲッツ、ビル・エバンス、エリック・ドルフィー等ジャズ界のグレーツとの活動経験を持つ、世界的なグレートドラマー。 

その優雅で相手をサポートしながら世界を創っていくスタイルは、ジャズ王国アメリカでも他に例を見ないタイプだ。あまり押しの強い人ではないので、知る人ぞ知るという所も有るが。ボストンでは勿論、プロフェッショナルの間では、非常に評価は高い。

ジャズのピアノトリオにおけるプレイは絶品!!お勧めはビル・エバンス・シークレットライブ8枚組の2と3枚目(マイルストーン)やスタン・ゲッツのノーバディ・エルス・バット・ミー(ヴァーブ)等である。 彼の事を語らせると3日続けて喋っても喋り足りないほどだ。彼は大変なレコードとCD収集家で、家の中はまるで、ジャズ図書館状態!ジャズドラマーの命とも言えるシンバルもかなり持っている。

僕がジョーに会うたび「いいシンバルがないんだ」といつも言っていた頃があったのだが、2人でよく地方のシンバルのバイヤーに「オールドのいいやつを送ってくれ!」と電話して、2枚ずつ2種類取り寄せ、1枚づつ決定権を分けて、買ったりした事もあった。

ある日ジョーが「オールドで僕が気に入っているんだけど、売ってもいいやつが有るから」と言って、「来週の仕事で使うから、聞きに来て叩いて、気に入ったら買うか?9時に終わるからその少し前においで!」といってくれた。僕は飛び上がるほど嬉しかった!

そのシンバルの音は以前彼がギグで使っていたのを聴いていたので、それがいかにいいシンバルかと言う事は百も承知だった、「これで、いいシンバルが手に入る!」 当日9時少し前に確認の電話を入れたらもう演奏が終わって帰った後だと言う。

僕は「ひょっとしたらジョーはギグで使って、やはり良いので、売るのを躊躇っているのかなー」と、でも僕があまりに、「シンバル!シンバル!」というので気を使ってしまったのかなーと考えた。実はその数日後に僕はボストンを離れて、車でアイオワ州に引っ越す予定だったのだ。

ジョーからの電話もなく僕は悩んだ(ドラマーなら分かってもらえるこの心境、常人には滑稽にさえ写る)。たまたま部屋に訪れた友人にその話をしたら「GO!GO !絶対GO! 」という力強いお言葉。「そうだここはアメリカ。ちゃんと主張しなければ!」。気を取り直し電話した。結局アイオワに発つ当日しかスケジュールが合わず、車で途中、彼の家に寄り、シンバルをピックアップするという事になった。

ボストンからアイオワは食事と寝る時間を除いてもまる2日かかるのだが、その日、ルームメイトの友人がスプリングフィールドから遊びに来ていて、帰り乗せて欲しいというので、二人で一緒に途中ジョーの家に向かった。

市内からは30分くらいかかった、まだ朝早かったと思うが、その当時ジョーはその一軒家にまだ引っ越したばかりで、家の中はあまり家財道具もなくがらんとしていた。すこし早朝だったせいか、すこし疲れているふうにみえたが、いつものように僕を暖かく迎え入れてくれた、その友人にも気さくに 接し、皆で地下室にシンバルを取りに行った。

ジョーが「これだ」といって例のシンバルを取り出した。僕が手にとって見ていると。「Are you happy ? 」といつものジョースマイルで僕の顔を覗き込み優しく聞いてきた。「本当にいいのかな?」と思ったのだが、それから居間にもどり小切手を切ろうとして、いくら聞くと「I don't know 200?」とジョーは言った。「こんな大切なものを僕の為に、、」と僕は彼の気持ちに泣き出しそうになってしまったが、その場に友人もいたので何とかこらえた。

その後、丸2日間車での運転が続くのだが何度もジョーの事を思い出しては、一人でウルウルしていた。これは今でも僕にとっては1番大切なシンバルで、割れるのが恐くて普段は使わないが大切なレコーディングやここぞという時に使っている。これは本当に僕の大好きなジョーの音がするのだ。  


愛すべき人「オカン」7/7/05(更新)

   
京都金閣寺の近くに昔、コニーリ−というジャズライブハウスがあった。5年間のアメリカ滞在から自宅に戻ってきて間もない頃、僕の帰国を嗅ぎ付けたということで出演依頼の電話を頂いた、受話器を取ったオカンはマスターが「コニーリーですけど」と言うのを聞いて「ええっ、え〜っと、、、」と困った様子で受話器を右手で塞ぎつつ、僕に向かって「カイクン コニリ?コニリさん?」気持ちとしてはコニシ(小西)に、なにがなんでもしたいようだが、、、「なんか、コニリさん?コニギリさん?か、なんかそんな人からか?」。

オカン!「コニギリってあんた一体どんな字書きまんねん?ほんまに。こないだ自宅に戻った時に、昔使っていたファックス(電話器と別になってるタイプ)がオカンによってビニールで包んで押し入れの隅に大切そうにしまってあったのを見つけた。オカンの字でマジック書きで「ハックス」と書いてあったとです。


なんでも固執するとそればっかりが続くオカン。小学5年の時京都から、兵庫県の北部、豊岡市と言うところに引っ越した。京都市内と違い冬には雪がどっさり降り、四季の寒暖の差がとても激しい所。海が近いので魚があまり食べられなかった僕は、それを機に海の幸が大好物になった。

一時オカンはカニにインチューンしたことがあって。来る日も来る日もカニカニカニ。朝もカニ、学校から帰って夜もカニ。もう朝起きると横向きに歩き出しそうなくらいカニカニカニ。そんな日が大体1週間位は続くのだ。そしてある日突然、「あ、」と思い立ったようにストップ!それから魚屋などでカニを見ると「うわ、もうええわ〜」とオマエなんぼ極端やねん?

その他にも餃子に凝った時は、冷蔵庫の中に冷凍食品のセミ印(なんかそんなメーカーだった)餃子がどっさり。オカンは嬉しそうに「ギョーザ、ギョーザ、ギョーーーザっ」と歌っているうちに「ギョウーザ、ギョウザーいっ、ギョウザイ、ギョウザイ」っと。名前がなんとギョウザイに変身してしまった。家に遊びに来る友達まで「今日はもうギョウザイ食べた?」

中学生の時、サタデーナイト・フィーバーが大流行した。あれは、意外にもなかなか内容のある映画でもある。ま、その話はさておいて。その頃オカンはディスコでフィーバーすることにインチューンしていた。そうオカンにとってはジャスコ(もう今や死語か?)で買い物よりディスコでフィーバー!(ふるー)

その頃は今のように、テレビで音楽番組なんてものはやってなくって、お昼に吉本はあったけど、、サンテレビというその地方の番組で(東京でいえば東京12チャンネルみたいなモン)サウンドインSという番組でたまにイギリスやアメリカのロックグループが出ていたら、それこそテレビにかじりついて、観たものだ(そう、その頃家庭用ビデオはまだなかった)。

そんな時代にオカンは、どこで聞きつけたのかヴァン・マッコイの大ヒット曲「ハッスル」のシングル盤を買ってきて家で「カイクンこれかけて」とよく僕にDJよろしく、リクエストするのだった。そうスティーブ・ガッドが例の「ン・チー・パッ・チー奏法」を編出したヤツだ。

よく夜中に仕事から帰ってきてはそれをかけて踊っていたなー。あとその頃ソウルトレインという番組が深夜にやっていて、オカンと一緒に毎週観るのが習慣になっていった。
カッコ良く踊る人を観るとテレビの前で2人で声を上げた「見てみ見てみ、あの踊りかっこえ〜な〜」(むっちゃ、へんな親子、、、根源は勿論オカン。)

イケチャンストーリーにも書いてるけど、僕がプロとして人前で演奏しはじめた頃、初めてその姿を観に来たオカンは、4バースになるたび「ひゅー、ひゅー、うおー、うおー」と歓喜していた。

4バースって皆さん御存じですよね、あれって手叩くとこじゃないよね?想像出来ますか毎回ドラムに回ってくるたびに客席の一部だけで大盛り上がり。
もう誰の知り合いかすぐ分かるとです。

インターミッションのとき客席に行ったら「あんた〜凄いな〜ようあんな手はよ動くんやな〜」オカンはもう良い気分&上機嫌&お顔はポッポちゃん。そんなオカンに言いにくかったが僕はあの状況がいかに恥ずかしかったかをなんとか伝えたら、なんとオカン@ポッポちゃん、次のセットでは急に大人しくなってしまって。今度は演奏していてちょっと心配になってしまった。オカン自然にしててエエんやで、ほんとに中間がないオカン、でも放っておけないオカン。

留学する前に2人で長野に旅行に行こうと、僕がオカンを東京でひとり暮らししていたアパートに招いた事がある。オカンが部屋に置いてあったマラカスに「これあんた、ようカラオケに置いてあるやつやろ?」と興味を示した。オカンは「しみ〜ず〜、み〜なとのっ、めいいぶ〜つうううわあ〜」と歌いながら、マラカスを振るのだがどうも合わない。

あれは確か夏だったか、僕は洗濯物を近くのコインランドリーに持っていく為、待っててもらう間退屈するといけないと思い「そうだ、これ教えて練習さしておこう〜」と閃きオカンに簡単なパターンを教えた。あまり待たせるといけないと思いつつ急いでランドリーに行ったのは良いのだが、どうも混んでいて、なんだかんだで時間がかかってしまった。

「あーオカン退屈してるだろうな〜」と思って家の前にくると、なんとマラカスの音が聞こえるではないか。外から辛うじて見える網戸をした窓越しに人陰がっ!、、、玄関あけてなかに入ると、そこには汗だくで練習を続けるオカンの姿があった。感動的でさえあった。恐るべしオカン!その後、清水港(しみずみなと)を歌いながらのマラカス演奏はオカンの得意技の一つとなった。しみ〜ずう(チャカ、チャッチャカ)み〜なと〜のっ(チャカチャッ)、めいいぶ〜つうううわあ(チャカ、チャッチャカ、チャチャカ、チャッチャカ)!

オカンは小学校低学年の時に両親とも病気でなくしている。まだ子供のころから軍事工場で働き出し、苦労して生きてきた人だ。

このように元気だったオカンも今年で74歳。やはりいくらオカンと言えども歳は隠せない風になってきた、実家に戻りオカンに会うたびなかなか同居が実現出来ないのが辛い。

京都に住むオカンは近所ではなかなか人気者で一人で飲みに行ってても、なんか友達というより保護者?みたいな人が出来てお世話してもらうクレクレさんです。みんなやっぱり放っておけないんよね。「昨日な〜、隣に座った人がな〜ええひとでな〜、おごってくれはってな〜、楽しかったわ〜」的報告が今日も我が家の留守電に。

オカン!すばらしきオカン!人間的魅力に溢れた愛すべき人物である。


豊岡というところ (12/1/07更新)

 
僕は京都市に生れ、11歳の時両親の離婚により、豊岡市に引っ越して来た。この地で11歳から19歳までの人生の中での最も多感な青春時代を過ごした。丁度僕が引っ越した頃から絶滅寸前だったコウノトリを再生させ、最近、ヒナの誕生でメディアでも、脚光を浴びている、あの豊岡市。数年前に市町村合併して、それでも人口5万人くらいの小さなエリアだ。

僕の相棒のピアニストのバート・シーガーが初めてツアーで、このエリアを回った時、「お前は、こんなちいさな町から、地球の裏側にまで来たのか〜、オーマイゴッド」と言っていたくらい、自分でも不思議だが、その後、僕の生きている意味でもある音楽に、この地で出会ったのだ。そう、このちいさな町が、音楽人としての僕のスタート地点でもあったのだ。

数年前、僕の幼なじみのプロデュースで、ここでコンサートをやり、何人かの同窓生にあった。みんな素晴らしい歳の取り方をしていた。過ぎ去った月日の重さを感じた。翌朝ホテルの窓からうっすら紅葉し始めた山々に囲まれた静かな町並みを望みながら、なんとも言えない様々で複雑な感情の入り混じった気持ちでそれぞれの人たちの人生に思いを巡らす。
本当に四季の移りゆく様が、激しく美しいこの地で約8年間を過ごした事は、僕のバックグラウンドとなっているに違いない。

自分は19歳でこの地を出て、京都、大阪、東京、ボストン、アイオワ、ニューヨークと転々とした。34歳で帰国し、また京都、神奈川と住み移り続けた。そして帰国以来、何年かに一度こうやって戻って来るのだ、ここ数年は毎年一回は必ず戻って来る。そのたびにこの気持ちに浸ることが出来るのだ。いつも戻ってくれば、何ものにも冒されないで、ただそこにあるのだ。そう!カギをかけて大切にしまっている自分の宝箱のように、、。

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